濡羽色の紅

 一人の老婆の話をしよう。
 老婆の名前は誰も知らないし、誰も必要としていなかった。
 ここは昔、小吉原と言われる程遊廓や娼館が多くあった。夜中でも道には明かりが灯り、花魁達の白粉の香りが満ちていた。
 老婆は、島一番の太夫だった。

「あの人、昔は遊女だったんだよ」
 今時時代劇などでしか耳にしない言葉だ。
 老婆は老人独特の膝を曲げた摺り足ではなく、背筋を伸ばし凛と歩いていた。華やかさこそはないが上品な着物を纏い、裾を乱すこともなかった。

 何度か話をし、老婆は昔の話をする様になった。
「私が、一番綺麗だった頃よ」
 老婆は一枚の写真を見せてくれた。古ぼけた白黒写真で、男と女が肩を並べ写っていた。
 老婆は、美しかった。
 男は老婆を身請けると申し出たのだと言っていた。顔立ちのはっきりした青年だった。
「この人にね、言ってやったのよ。一番になれないのなら貴方の所へなんか行かないわって」
 男には妻がいた。
 きっと、老婆はこの男が好きだったのだ。

 暫くして、老婆が死んだと聞いた。
 孤独死だったそうだ。

 夜、私は見た。幻ではない幻を。
 夜道を老婆が歩いていた。
 一番、美しい姿で。
 細やかな衣擦れの音、何処からともなく提燈が灯る。紅い唐傘と禿を連れ、ぽっくりを履いて、しゃなりしゃなりと。
 道の、提燈の先には男が一人立っていた。
 嬉しそうな顔で女は男の手を取り、陽炎の様に消えた。
 鼻を掠めた白粉の香り、女の、濡羽色に美しい唇が、綻ぶ様に笑んでいた。

 島一番の太夫はこうして死んだ。
 美しい太夫だった。
 幾人もの申し出を断り続け、老婆は、幸せになった。




遊郭が正式に廃止されたのは1946年のGHQによる指令だったそうです。
最後の太夫(玉屋の花紫)がいたのも、吉原の最盛期も1700年代なので時代錯誤感は否めません。
タイトルについてなのですが、黒い口紅って意味ではなくて、濡羽色を光沢のある虹色だと思い違いをしていたのでイメージとしては笹色紅です。
小説家になろうに同じものがあります。


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