quiet | ナノ

俺を壊す為に出かける。
今日だけは、とそう彼女に告げた。誰が聞いたって意味も分からないその提案に彼女は首を傾げるかと思っていた。こころの何処かではそれを望んでいたのかもしれない。しかし彼女はいつもそれ以上の物を俺に授けるのだ。ゆっくりと微笑む彼女は、俺の冷え切った手を取って付き合うよと笑うのだ。

跡部景吾は出来上がりすぎてしまった。何処に行っても常に見られているという緊張感故に、周囲の反応に怯える故に完璧な奴などというレッテルを張られた、ただの泥人形でしかないのだ。嘘と見栄で汚く塗り固められた俺は随分と評判は良かったが、そちらを評価される度にここで怯えている弱い本来の俺が死んでいく。だから今日くらいは、王様としての跡部景吾を殺してただのつまらない跡部景吾に呼吸をさせてやりたかった。彼女がどちらの俺を好きになってくれたのか、その問いを投げかけることはいつまで経っても出来やしない。王様としての俺が当然を訴える度に否定された俺は泣いている。もし王様としても跡部景吾としても愛した彼女に自分を否定されたら、というのは恐ろしくて想像すら出来ないのだ。そうだ、王様としての俺をコッペリアと名付けよう。

コッペリアとして成り立つきっかけとなったのはテニスだった。テニスに関してはコッペリアも跡部景吾も関係なかっただろう。自分の中にあった向上心がそうさせたから。でもそれによって勝手に生徒会選挙に推薦された俺は、あれよあれよと生徒会長にさせられた。ストレスと重圧に押しつぶされそうで何度も吐き気を催し、部長と生徒会長と家の責任に耐えきれず何度も倒れた。コッペリアとしては耐えきれるものも、コッペリアを介して跡部景吾に伝わるとそれは身に余るものであるのだ
彼女はそんな俺を知ってか知らずか。いつも柔らかな笑みを浮かべて跡部景吾の隣に居てくれる。誰よりも愛しいし、何よりも失いたくはない。俺だけのものであると拘束することは罪であろう。それでも俺だけにと感じてしまう。あの香りも笑顔も抱きしめたときの温もり、指をするすると通り抜ける髪の毛の一本までも俺の、コッペリアの為でなく跡部景吾の為にあってほしい。

跡部景吾の手を取ってくれたなめらかな彼女の肌の温もりを確かめるように強く握り替えした。秋空が似合い始めた冷たい空気で充満する外は、少し寒いと感じる。首もとが冷たい。何処に行くかも決めずにぶらぶらと町を歩き回る。こうして何の変哲もない風景を眺めていると、何か洗われる気がする。泥が水に溶けて消えていくように、解れた糸がするすると解けていくように。彼女が隣にいてくれるなら、どんな跡部景吾でも大丈夫だという根拠もない自信が湧き上がってくる。

「…なぁ」
「景吾が何考えてるか、何となく分かるよ。でもね私はどんな跡部景吾でも好きだから」
「え?」
「私でも景吾を支えられるかなって、だから私は景吾の隣にいるのよ」

どうしようもなく彼女が好きだった。彼女が誰か男子と仲良くしているときは柄にもなく焦り始める。家にも部活にも学校にもコッペリアの居場所はあっても跡部景吾の居場所は存在しない。そんな俺に存在意義と居場所を与えてくれた彼女。

「なまえ」
「大好きよ」
「俺は愛してる」

俺を殺した人間たちが憎いかと問われたとしよう。答えはノーだ。居場所を奪った奴らは代わりになまえという存在を俺に与えた。大きな居場所を潰して手に入れた小さな居場所は俺だけのもので、誰にも侵すことは出来ない。隣にいる彼女の存在を噛みしめるために俺は再び生まれたのだ。1年掛けて死んで、一日だけ生き返る。そんな跡部景吾に気が付くのは長い人生の中で彼女だけであってくれ、唇にその言葉を乗せて俺はそっと彼女の唇を塞いだ。

跡部景吾が誕生した日、コッペリアは死に絶えて跡部景吾が顔を出した。