妖精殺し | ナノ


「んー……こんなところかな」


目に付いた戸という戸、窓という窓に札を貼り、手持ちが残り二、三枚になったところで、春智は踵を返した。

逆回りにアルベリッヒが札を貼って廻っているのだし、渡された札全て貼ってこいとも言われていないし、使い過ぎもよくない気がする。
それに、こうしている間にヴィルデ・フラウが現れ、戻った頃には全部終わってましたなんてことも有り得るのだ。此処らが潮時だと、長い廊下を歩きながら、春智がうんと腕と背筋を伸ばした時だった。


「あれ、あの子……」

先程、化重達と屯していた場所の正面。古びた熊のぬいぐるみを抱きかかえ、件の中庭を挟んだ先に位置する廊下にちょこんと座りながら、其処にない何かを眺めている少女の姿を見付けた春智は、足を止めて暫し沈思した。

あの人見知り様からするに、此方から声を掛けても困らせてしまうだけかもしれない。しかし、軽く挨拶だけして通り過ぎるにはどうにも憚られる雰囲気があって、まるで雨曝しの子犬を見ているような気持ちになる。

どうしたものかと十数秒迷った後、春智はやらない後悔よりやる後悔だと、思い切って踏み出した。


「うーららちゃーん」


努めて明るく、且つ優しく声を掛けてみたが、やはり麗はビクリと体を震わせ、おっかなびっくり此方を見遣ってきた。背後からいきなりだったので、驚いたのかもしれないが。

だが、此処で食い下がっては決意した意味がないと、春智は心の中で自らの両頬を叩きながら、熊のぬいぐるみを強く抱き締める麗の傍らに歩み寄る。


「こんにちは。おじいちゃんは?」

「…………おしごと」


消え入りそうな程に小さな声であったが、麗が返答してくれたので、取り敢えず嫌がられている訳ではなさそうだと春智は胸を撫で下ろした。

嫌悪感を抱かれていないのなら、会話の余地はある。麗が此方に応じてくれるなら、多少コミュニケーションが取れる筈だ。彼女は内向的なだけで、人嫌いな訳ではないのだなと安堵の笑みを浮かべた春智は、ふと手元に視線を感じ、此方を見上げる麗と、手に持った召喚札を交互に見遣った。


「あ、これはね、お札だよ。オバケがお家の中に入ってこないようにって化重さ……ハンターさんが持ってきたの」


見た目には如何にも怪しい物品だが、効果は確かなので何卒、と召喚札について大まかに説明したが、麗の反応は非常に淡白なものであった。

それが偽物でも本物でも構わないと言うような。そんな眼で再び庭の方を見遣った麗は、ぽつりと落ちる水滴のような声で呟く。


「……べつに、はいってきてもいいのに」


それは、締めきった彼女の心から溢れ落ちてきた言葉だったのだろう。その、誰に宛てた訳でもない救難信号を拾った春智は、だから自分は彼女を放っておけなかったのだろうと、麗の隣に腰を下ろした。

麗はぬいぐるみを抱える腕に力を込め、一層縮こまったが、それでも場所を移したり距離を取ったりしてこないので、春智は小さく微笑んだ。

彼女が力任せに締めてしまった心のバルブが、少しでも開き易くなるようにと。春智は絵本を読み聞かせるような調子で麗に問い掛ける。


「麗ちゃんは、オバケのこと怖くないの?」

「…………オバケはこわいよ」


精確には、幽霊ではなく妖精なのだと言ったところで、それが麗にとって脅威的な存在には変わりない。
寧ろ、ヴィルデ・フラウという名前と、その習性を教えるだけ、恐怖を煽り兼ねないだろうとオバケという呼称を用い続けた春智であったが、その読みは存外的中していた。


「でも……オバケに連れていかれたら、私もオバケになるでしょ。オバケになったら……お母さんに会えるから」


その一言で、春智は察した。麗が自らに迫る脅威について心底恐怖していなかったのは、それが霊の類であることが、彼女にとっての救いになっているからだと。


「おじいちゃん達が怖い人だからって、学校の皆は私のこと仲間外れにするし……おじいちゃんもお父さんも、お仕事が忙しくて、家でもほとんどひとりぼっち……。だからもう、私もオバケになって、お母さんと一緒になった方がいいって……そう思うの」


麗の母親は一昨年に亡くなっており、元来人見知りの激しかった彼女は一層塞ぎ込むようになり、今では祖父と父にさえ殆ど口を利かず、熊のぬいぐるみが遊び相手になっていると、沙門が話していた。

家柄によって学校で孤立し、その孤独を癒してくれた母に先立たれ、家にいても寂寥感に見舞われる。そんな彼女にとって、死とは、愛する母と同じ世界に発つことであり、最大の救済であった。

仮にもし、あれに導かれた先に母親はいないと言われても、其処に孤独がないのなら、それでもいいと麗は頷いてしまうだろう。何もかも手放したような眼は、そんな危うさを湛えている。ヴィルデ・フラウが彼女を狙っているのは、幼くして希死念慮に憑りつかれたその心を見定めたからだろう。

ならば、此処でヴィルデ・フラウ一体倒したところで、きっと意味がない。彼女が自らの破滅の中にしか救いを見出せない内は、ヴィルデ・フラウのようなものは何時までも幾つでもやってくる。それでは駄目だと、春智は麗に何と声を掛けようか迷った。


どんな言葉を並べても、麗の孤独を癒してやることは出来ないだろうし、痛んだ彼女の心の中に踏み込んでも、余計な傷を負わせるだけだろう。だが、やはり彼女をこのままにはしておけないと悩みに悩んだ末――春智が出した結論は、百聞は一見に如かずであった。


「麗ちゃん、見てて」

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