妖精殺し | ナノ



眼を閉じずして、夢は見られない。であれば、これは紛れもない現実として捉えて良いのだろうか。この、何処までも空想的で、非現実的な光景を。


「…………何、あれ?」


大都会の夜闇に揺蕩う金色の粒子。キラキラと瞬いた傍から消えていくそれを追う、ビルの谷間を駆ける影。

それが一心不乱に飛行する蝶の翅を生やした小人と、黒衣に身を包んだ壮年の男だと脳が認識したのも束の間。ビル風に眼を閉じた次の瞬間には、其処にはいつもの街並みが残されていて。

遠くから響くクラクションの音や、風の余韻、行き交う人々の声を聴きながら、立ち尽くしたままの少女は、頬をつねりかけた手を握り固めた。


きっとあれは、夢なんかではなかったと。そう自身に言い聞かすように。





「…………」


と言った傍からこれかいと、少女は自室の天井を仰ぎながら眉を顰めた。


随分印象に残る出来事であったとはいえ、一ヶ月も前のことを夢に見るとは。これではいよいよ、夢か現か分からなくなるではないかと唇を尖らせつつ、少女はベッドから上半分だけ転げ落ちた体を捩じり、ぐるりと緩慢な動作で後方回転し、床に座り込んだ。

同じく床に落ちていた目覚まし時計を拾い上げると、針が指し示す時刻は普段の起床時刻より三十分ばかし早かった。
一時間早ければ二度寝するところであったが、三十分なら起きた方が賢いと、少女はアラームを切った目覚まし時計を枕の隣に置いて、部屋を出た。


階段を下りて一階の洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨く。

今日は珍しく目覚めが良く、眠気が引くのが恐ろしく早かった。よって、鏡越しに視えるアレは、寝惚け眼による見間違いではないだろう。少女は歯ブラシを持つ手を細かに動かしつつ、背後でゆっくりのったり膨れたり萎んだりを繰り返す、触角が生えた、発光する綿毛のような何かを見遣った。


それが、あらゆる生物図鑑を捲っても見付からず、そもそも載せられる類のものではないことを、少女は幼い時分に理解した。というのも、あれと似たものは自分以外の人間の眼には映ることがないのだ。

ふわぁと体の大部分を占める程の口を開けて、呑気に欠伸する、不可思議としか言いようのない謎の生物。これと同じようなもの達の姿を、少女は生まれつき視認することが出来たが、周囲の人間はそれを彼女の空想とし、時に一笑付し、時に少女の正気を疑った。


そんなことを数回繰り返せば、幼い少女でも学習出来た。これは自分以外には見えないものであり、これに対する認識を他者と共有することは不可能であるということを。


確かに其処に存在するものを無いものとするのは、幾らか胸が痛んだ。だが、自分が頭を病んでいるのではないか、精神科で診てもらうべきではと深刻な顔をして話し合う両親の顔を見る方が余程辛いと、少女は手を伸ばせた触れられる場所にいるその幻想から眼を背け続けてきた。

幸いにも、彼等は矮小にして無垢。人を害するものではない、というか、そんな力があるようなものではないように思える。

凡そ彼等は、こうしてウトウトしていたり、埃に紛れて宙をふわふわ漂っていたり、庭の草木から滴る雫を飲んだりしているだけ。
彼等に脅かされることを危惧するよりも、彼等が何かに脅かされてはいないかと心配になる。
か弱い生物というのは、捕食者の格好の餌食だ。あれを食べるものというのは未だ見た事がないのだが、もしかすることもある。そう例えば――と、夢に見た夜の出来事を思い返しながら、少女は口を濯ぐ。


あの日、友人とファミリーレストランで遅くまでテスト対策の勉強会――殆どの時間は他愛の無い会話で終わったが――の帰り道で見たものは、これまで少女が眼にしてきたもの達と同質でありながら、それらとは決定的に違っていた。

少女が見てきたか弱き者達。その殆どは、端的に言えば、とても簡単な作りをしていた。バスタオルの上でスヤスヤと寝息を立て始めた背後のそれのように、彼等は幼稚園児でも描けそうな単純なフォルムをしており、大きさも羽虫程度から五百円硬貨くらいまでと極めて小さい。

だがあの晩。都会の夜空を飛行していたものは、胴体を持ち四肢を持ち、限りなく人に違い姿をしていた。大きさも、恐らく五百mlペットボトル程あっただろう。

あの姿形はまさに、物語に出てくる妖精を絵に描いたようなものであったが――では、あれを追い掛けていた男は、何者なのだろう。


少女のすぐ傍を行き交っていた通行人達。その何れも、妖精は勿論、彼の姿も目視していた様子は無かった。でなければ、確実に誰かが声を上げていただろう。特に外国人観光客辺りが、ジャパニーズニンジャ!と叫んでいたに違いない。

幼少期に見た忍者映画さながらに、ビルとビルの間を跳躍し、時に宙を蹴って、光の鱗粉を振り零す妖精を追い掛ける、黒ずくめの男。あれは、目立つ。下手をすれば、妖精よりも余程。
しかし、あの場に於いて彼に反応を示したのが自分だけだったこと、テレビでもネットでも摩天楼を駆ける謎の男について話題になっていないことを見るに、彼もまた、少女以外の人間には視えないものなのだろう。


見た目は、限りなく普通の人間だった。一瞬のことだったので、細部まで記憶出来てはいないが、根元が赤橙色を帯びている黒髪以外には、容姿に異常な点は無かったと思われる。

空を走って妖精を追い掛けている時点で、まず普通の人間ではないだろうが。それだけは断言出来る。


――彼は、何者だったのだろう。


気が付けば、せっかく覚醒した意識は再び夢の中へと攫われかけていたようで。少女は、だらしない口元から零れ落ちたトースト屑を見て眉を顰めた母親から叱咤を受けることになった。


「ちょっと春智(はるち)。ボーッとしてないでキチンと食べなさい」

「……ごめん、ママ」


母親は、行儀が悪いのを嫌う人である。次こそは本格的な雷が降ってくるだろうと、少女――竜ヶ丘春智(たつがおか・はるち)は背筋を正し、改めて朝食に向かった。


「全く。珍しく早く起きてきたと思ったらコレなんだから」


呆れた、と軽い溜め息を吐いてキッチンへ戻って行く母親を見遣りつつ、いつの間にか半分程食べ進めていたトーストを頬張る。


あの夜のことを思い出し、呆けていた為、せっかく早起きしたというのに、気付けばいつもの時間になっている。
まぁ、早く学校に行ったところでやることもないのだし、別に構うことはないかと時計から皿の上へと眼を戻したところで、春智はふと、プチトマトのヘタを突いているものに気が付いた。

小指の爪程度の大きさしかない、乳白色のつるりとした団子のような何か。それが体を前後に揺らし、額でプチトマトのヘタと戯れているのだ。

もし母親にコレの姿が視えたなら、レタスについた虫のように情け容赦なく叩き潰すかもしれない。見てくれは芋虫より愛くるしいが、皿の上に生き物がいることを母親が許容するとは考え難い。


――お前は運が良かったね。


心の中でそう語り掛けながら、春智はそれの隣にもう一つ、プチトマトのヘタを置いた。


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