妖精殺し | ナノ
ホップステップジャンプの足取りで駆け抜ける街並みは、まるで映画の舞台のように見える。
何てことない、見慣れた駅前も、ありふれた景色も特別なものに感ぜられて、その場で歌い、踊り、ミュージカルでも始めたい衝動に駆られたが、今は立ち止まることさえ勿体ないと、脚は次々に道を蹴る。
道行く人は、なんて楽しそうな子なのだろうと、微笑ましく思ったり、不審に思ったりしているだろうが、そんな人の眼が気になるだけの容量は、彼女の頭の中に残されていない。
まさに春爛漫。お花畑のようと比喩するに相応しい陽気で駆け、辿り着いた目的地――何処にでもありそうな喫茶店の前で、少女は深く息を吸い込む。
緊張しているのではない。一度呼吸を整え、己をクールダウンさせなければとなけなしの理性が働いた結果だ。
少女は口から取り込んだ息を、鼻からふんすと吐き出すと、まるで落ち着いた様子のない顔でドアを開けた。
「おはようございます! 竜ヶ丘春智です!!」
「……名乗らなくても、そんな意気揚々と挨拶してくんのはお前だけだ」
カウンター席に付いた肘を崩し、そのまま倒れ込みそうな勢いで項垂れた化重は、今日も今日とてハイテンションの少女・竜ヶ丘春智に深々と溜め息を吐いた。
今日も今日とてとは言ったが、本日の彼女のはしゃぎ様は一入だ。当社比凡そ二倍と言ってもいいだろう。
起き抜けの頭に響く姦しさだが、無理もない。何せ、今日から魔術の授業を始めると言った時からこの調子だったのだ。当日となれば、尚更だ。
跳ね回る兎の如く駆け寄って来た春智を横目で見やりながら、化重はこのノリに果たしてついていけるのだろうかと、緩慢な動作でコーヒーを啜った。その時。
「おっ、これが噂のお弟子さんかい?」
「勾軒くんの言っていた通り、可愛いお嬢さんじゃないかぁ、このこのぉ。隅に置けないなぁ、化重くん」
化重のちょうど後方。窓際のテーブル席から飛んできた声に顔を向け、春智は眼をぱちくりさせた。
其処にいたのは、二人の老人だった。どちらも勾軒より老け込んでおり、歳は七十から八十程だろう。片や、長く豊かな白髪と髭を持ち、紫色の着流しを着た、まるで仙人のような風貌の老人。片や、モスグリーンのハットに、同じ色のベストと臙脂色の蝶ネクタイに丸眼鏡という、洒落込んだ老人。
身なりは対照的だが、両者共に顔を皺くちゃにして、ニコニコと笑みを浮かべている様は、長年連れ添った悪友のようであり、兄弟のようにも見える。
此処の客、には違いないだろう。しかし、ストレリチアを認識して立ち寄ることが出来ているということは、普通の人間ではあるまい。
彼等は何者なのだろうかと、春智は眼を瞬かせながら、視線を化重に向けた。
「えっと……こちらは?」
「うちの常連。といっても、二人とももう隠居してるんだけどね」
カップを磨いていた勾軒が答えると、老人らは何故か嬉しそうにピースを向け、同時に化重が頭を一層カウンターに沈めた。
何を隠そう、この二人。勾軒から春智の話を聞き、是非一目見てみたいと、ただそれだけの理由で、今日此処にやって来たのだ。
化重くんの弟子になる女の子、どんな子だろう、きっと可愛い子に違いないと、年甲斐もなくはしゃいでいた二人が、大人しくしている筈がない。
隙あらば自分をからかってくるに違いないと鬱屈する化重を余所に、春智は二人の漂う大物感に眼を光らせている。
「ということは」
「……お察しの通り、二人共魔術師だ。それも、業界じゃ超が付くレベルの有名人」
そんな二人が、どうしてこんなくだらないことをしてくれているのか。
化重が嘆きの溜め息を零すと、老人らは元気に挙手して、自己紹介を始めた。
「やぁやぁ、初めまして。僕は蔵骨朧斎(くらぼね・ろうさい)。蔵骨流屍霊術師範やってまーす」
「僕は百花院景平(ひゃっかいん・かげひら)。幻想植物学者協会の会長やってまーす」
「は、初めまして! 竜ヶ丘春智と申します!! えっと、魔術師見習いやってます! よろしくお願いします!!」
仙人めいた容貌の老人・蔵骨朧斎と、洒落た服装の老人・百花院景平。何れも、魔術師業界ではその名を知らぬ者無しの、超有名人だ。
数年前に一線を退き、今は弟子の育成や研究に没頭しているが、未だその腕は超一流――と言っても、今の二人はただの気の良い老人にしか見えないだろう。
所々、聞き逃せないワードがあったが、それも頭に入って――
「ところで! 屍霊術師範とか幻想植物学者とか、物凄い心惹かれるワードについてなのですが!!」
いるのかよ、とツッコミながら、化重はずるりとカウンターに上体を落した。
幻想植物はまだしも、屍霊術は流石に半歩後退して然るべきだろうに、何故そうも食い付くのだと思ったところで、そういえばコイツは、こういう奴だったなと、化重は椅子から腰を上げ、魔術師業界の超大物に飛び掛かりそうな春智の背中を掴んで、二人から引き剥がした。
「魔術のまの字も分からん内には関係のねぇことだ。今度にしておけ」
「あう」
魔術は樹木の如く無数に枝分かれしているが、樹の幹に当たる基礎の部分あって、初めて分岐が生まれる。必要な知識と技術を身に付け、次に何を扱うかの選択肢を得て、そうして自分が極めるべき魔術へ到達する。
化重の言う通り、魔術のまの字も知らない内には、蔵骨や百花院の話は聞いたところで仕方がないことなのである。
眼に見えて残念そうな顔をする春智に呆れつつ、化重は、その為に今日から勉強していくんだろうがと、彼女を適当に宥めた。
「取り敢えず、今日から基礎中の基礎……魔術文字の読み書きからやっていく。もうすぐ初心者向けのグリモアールが届くから、大人しくしてろ」
「グリモアールに初心者向けとか上級者向けとかあるんですか!!」
「色々あるよー。喩えるなら、園児用のひらがな練習テキストから、神代文字で書かれた超難解な危険物取扱い説明書までって感じ」
「上級者向けのグリモアールにもなると、表紙を開くのに数年単位掛かるものもあるし、解読しようとすると呪われるものとか、中に住み着いてる悪魔に襲われたりするものもあるよ」
「ふぉおおお!」
「…………」
しかし、一向に落ち着かない。春智の知識欲の大きさ、魔術の奥深さ。それらが上手いこと噛み合って、無限の関心とハイテンションを生み出してくれている。
化重は、自分の知り得る事全て、一滴残さず搾り尽くすまで、彼女は離れてくれないのではないかと項垂れた。その時。
「こんにちはー」