霊食主義者の調理人 | ナノ


「なんだよ、これ」


神喰邸に戻って来た伊調を迎えたのは、絶望であった。


「……お帰りなさいませ、伊調様」


門前から、屋敷が嫌な静けさに覆われているような気がしていた。共に戻って来たガストロも、ずっと何かを警戒するように唸っていて。まさか、と駆け出し、屋敷の扉を開いた瞬間。彼等を迎え入れたのは、あまりに巨大な悪霊と、それを封印している結崎の姿であった。


「結崎さん! これは、一体」

「……先日の失態といい、全く……歳は取りたくないものです。全盛期であれば対処出来たであろうものに手間取るとは……」


自嘲しながら、結界内の悪霊を見据える結崎の手は、強すぎる結界の影響を受け、防護術式が施された手袋が千切れ、皮膚が爛れていた。

彼がそこまでしなければならない程の相手であることは、悪霊の規模を見れば明らかだ。これまで伊調が視てきたどの悪霊よりも大きく、且つ、歪。喩えるなら、それは育ち過ぎた野菜や果実のように膨れ上がり、所々自重で捻じ曲がり、見る者を不安にさせる。どうしてこうも巨大なのか、ではなく、どうしてこうも巨大化してしまったのか。そこが気掛かりになる点でも、この悪霊は異質で。何故こんなものが神喰邸にと、伊調は半ば答えの見え透いた疑問を投げかけずにはいられなかった。


「何があったんですか。この悪霊……それに、お嬢様は……」


正体不明の巨大悪霊。こんなものがこの屋敷にあることの最大の謎は、此処が神喰邸であることにある。

教会が誇る最強の退魔師・神喰羽美子がいる場所で、悪霊が食われることなく封じられているなど、有り得る筈がない。ならば――考えられるのは一つ。

頭の中にはとうに答えが出ていたというのに、結崎が口にした言葉に、伊調は酷く衝撃を受けた。


「……お嬢様は、攫われました」


見えていた筈の落とし穴に自ら踏み込んでしまったような。穴の中に潜んでいたものに引き摺りこまれたような感覚。第六感が鳴らし続けてきた警鐘が正しかったことが、最悪の形で実証されてしまったことに、伊調は言葉を失う。そんな彼に結崎は、此処で起きたことを一つ一つ紐解くようにして語る。


「正しくは、彼についていった、と言うべきなのでしょうが……あれでは、拉致も同然です」

「彼って……」

「はい……。膳手尋彦でございます」


やはり、という言葉を呑み込む伊調の前で、結崎は歯を食い縛った。目の前で羽美子を攫われたこと。すぐにでも追い掛けていくべきところを、まんまと足止めされていること。それが悔しいのだろう。手を焼かれる痛みよりも、いっそ其方が苦痛で仕方ないというような面持ちで、結崎は結界を作る手に力を込める。


「彼は昨晩、この悪霊を呼び出し……お嬢様を脅迫して、此処を出ていきました。この悪霊は、彼が私共を此処に繋ぎ止める為の楔であり……お嬢様が彼に抗えぬようにする為の首輪なのでございます……ッ」

「結崎さん!!」


話している間にも、滴り落ちる血が蒸発する程の熱に焼かれ、結崎の体力は削られていく。
この結界は、あまりに巨大な悪霊を封じるのみならず、徐々にその力を削ぎ落としていくものだ。いつ羽美子が戻ってきてもいいように。戻って来た彼女が、よりこれを食らい易くなるようにと、結崎は自らの負担が大きくなることを承知の上で、この結界を選んだのだろう。例えこのまま、この悪霊と心中することになろうとも構わないという意志が、結界を強固なものにする。それだけ自身が傷付くことになろうとも、結崎は口角を上げて、笑ってみせる。こんな痛みがなんなのだと言うように。


「御心配なく……。この老いぼれ、あと三日三晩は持ち堪えられます故……」

「そんな無茶な……今すぐ教会に連絡して、応援を」


実際、三日三晩は持ち堪えられるのだろうが、そんなことをする必要はないし、そんなことをしては結崎の命に関わる。今すぐにでも教会から応援を呼び、速やかにこの悪霊を討伐してもらうべきだ。難敵には違いないが、結崎の結界で悪霊もかなり弱まっている。だから、すぐにでも誰かに来てもらうべきだと伊調は電話を取ろうとするが、結崎は頑として首を振る。


「下手な真似をすれば、市街に悪霊を放つと膳手は言い残していきました。この悪霊が倒されれば……膳手は屋敷外の誰かが動いたことを悟り、足止めに市街を襲うでしょう……。ですから……此度の件は内密に。我々だけで解決せねばなりませぬ」

「んなこと言っても……」


それでは、根本から事件を解決することさえ出来ないのではないかと、伊調は口を噤んだ。

このまま結崎が屋敷で悪霊を封じ続ける傍ら、自分が膳手のもとに向かっても、結局そこで市街地に悪霊を放たれることになるだろう。ならばいっそ、教会から応援を呼び、此処でこの悪霊を討伐してからでもいいのではないか。

無論、結崎とて、それを考えなかった訳ではない。此処で自分が悪霊を食い止め続けていても、羽美子が帰ってくることはないし、何れ解き放たれた悪霊が、神喰邸近辺を荒らすのは目に見えている。ならば、一般市民に多少の被害が出ることを承知で、教会から集められるだけの戦力を集め、羽美子救出と悪霊の討伐に取り掛かるべきだ。だが、結崎がそうしないのには、理由がある。


「……膳手の狙いは二つ。一つはお嬢様。もう一つは……伊調様の命でございます」


一退魔師である以上、結崎も、民間に犠牲が出ることは避けたい。尚且つ、捕らわれの身である羽美子は、自分と市民を秤にかけた時、真っ先に後者を選ぶような人物だ。無辜の民が犠牲になることで自分が救われても、彼女は決して喜ばない。寧ろ、その罪業を生涯背負い続け、苦悩していくことだろう。それが致し方ないことだとしても。この先、彼女が救える人の数からみれば、あまりに小さな犠牲だとしても。羽美子とは、そういう人間なのだ。

だから、市街地が脅かされず、羽美子が救われる。そんな道が用意されているのなら、其処を通るしかない。例え見え透いた罠だとしても。その狭き道を通る彼が、無事で済まされないと分かっていても。唯一、全てを丸く収めることが出来る術を手放すことが、結崎には出来なかった。


「彼は……伊調様がお一人で来るのであれば、市街に悪霊を放つことはしない、と言い残していきました。何の為に伊調様を亡き者にしようとしているのかは不明ですが……本当に貴方様の命を狙っているのかさえ分かりませんが……。逃走した膳手が唯一接触を認めたのは、伊調様だけ。それは確かなことと言えましょう」

「…………」


依然、膳手が何故羽美子を攫っていったのか、それさえも分からない中、こうもご丁寧に自分を指名するような真似までしてきて、本当に、彼は何がしたいというのか。

何もかもが不明瞭だが、結崎の言う通り、膳手の狙いが羽美子と伊調にあることは確かだ。羽美子は生かしたまま。伊調は向ってきたなら其処で仕留める、ということも。何となくだが嗅ぎ取れる。


「……此処に、膳手の衣服の切れ端がございます」


言いながら、結崎は血の滲む片手を燕尾服の胸ポケットへと差しこみ、其処から一枚の布きれを取り出した。膳手が挑戦状代わりに置いていった、彼のコートの切れ端だ。これに残された痕跡を辿れないような手合いではないことを踏まえた上で、自陣に乗り込まれたところで絶対に負けはしないという自信があるのだろう。

もし伊調が、言伝通り律儀に一人で来ても、確実な勝利の為にと教会の術師達を引き連れてきたとしても。どちらのパターンを想定しても、膳手の中には、敗北のビジョンが映らない。
それだけの実力を有する術師を相手に、どう立ち向かえば、羽美子を取り戻すことが出来るのか――。考えながら、力無い手で切れ端を受け取る伊調に、結崎は強い笑みを浮かべてみせる。


「ガストロならば、これに付着した匂いを追跡出来ます。彼は優秀な退魔支援犬でございます故、きっと伊調様のお力になるでしょう……。あとは……和島姉妹が」

「……あの二人が?」


遅ればせながら、その存在に気が付いた時。伊調の目に映ったのは、重々しい銃火器――スナイパーライフルや、ハンドガンを装備した双子の姿だった。

普段、屋敷で淡々と家事をこなす二人からは想像も付かない。なのに、嫌に板について見えるその武装姿は、彼女達のあるべきものなのだろうと、頷かせる気迫がある。結崎が、自分一人を此処に残していくだけの意味が、意義が、二人にはあると見て間違いないだろう。

――しかし、では何故、この二人は放置されたままでいたのか。


伊調の疑問を汲み取ったかのように、閑花の方が口を開いた。


「……私共は、対悪霊に関しては殆ど力を持っておりません」


そう。和島姉妹は二人揃って、悪霊に対抗出来る力を有していない。故に、あの巨大な悪霊は結崎一人で抑えておかねばならず。故に、彼女達は放っておいてもいいだろうと、膳手に見逃されていたのだが。屋敷を離れていた間に雇われた二人のことを、膳手はよく知らなかった。それが、彼の唯一にして最大の誤算であり、伊調達にとっては唯一にして最大の勝機であった。


「ですが、対人に於いてはお任せください。必ずや奴を討ち、お嬢様を奪還致します。無論、奴に見付かるような下手も打ちません」

「貴方様の足を引っ張ることだけは、決していたしません。この命に懸けて……私共は、お嬢様奪還のお力になれるよう、力を尽くします」


神喰にいる以上、彼女達もまた、ただのメイドではないとは思っていたが、本当にその通りだったとは。しかもまさか、対人戦闘のスペシャリストであったとは、想定外だ。
されど、如何に対人に優れていようと、悪霊に対する力が無いということは、膳手が悪霊を用いてくる内は、彼女達は戦力外と言えよう。だからこそ膳手は二人を軽くあしらい、此処に残しておいたのだ。

だがそれは、逆に言えば、悪霊さえどうにかすれば、二人が人間である膳手の首を掻けるということに転じ得る。


「ですから、どうか……お力を御貸しください、伊調様。私共が膳手尋彦を討つ、その為に……」

「俺の、力……」

「奴は禁魔術を用いて悪霊を使役しております。恐らく、これ以上の規模の悪霊が未だ控えているかと」

「伊調様には、その相手をしていただきたいのです」


現状、膳手が使役する悪霊に対抗出来る力を持つのは伊調のみ。彼が悪霊を抑えることが出来たなら、和島姉妹が膳手を討つ機会が生じる。さすれば、羽美子救出も夢ではない。

言うは易い。だが、三日前まで生死の境を彷徨っていた男に、恐らく中級悪魔よりも手強く、得体の知れない悪霊の相手をさせるというのは、最悪囮となって死んでくれと言っているようなものだ。

見込みはあるが、確実ではない。羽美子を奪還出来るかどうかは、殆ど賭けのようなものだ。それでも、可能性が少しでもあるのなら。羽美子を取り戻せるかもしれないのなら――。


「病み上がりで、無茶なお願いをしているとは分かっております。ですが、今頼れるのは貴方様だけ……」

「お願い致します、伊調様。どうか……どうか……」


震える声で、地に頭を付けそうな勢いで、姉妹は嘆願する。

彼女達がどうしてこの屋敷にいるのか。どうして羽美子に仕えているのか。その背景を一切、伊調は知らない。だが、閑花も静花も、きっと自分と同じだと、伊調は直感的に悟った。
そうでなければ、自分達の命さえ危ういというのに、こんなに必死に頼み込んできたりしないだろう。無茶を承知で、無理を頼む。その直向きさが、答えだ。


「……こんなバカでけぇ悪霊を出してくるような奴だ。きっと俺は、あんた達のことまで手が回らないだろう」


一つ深く息を吐くと、伊調は結崎から渡された”挑戦状”を強く握り締めた。

相手は百年に一人の天才。対する自分は、数十年に一人レベル。その力の差は歴然。故に相手は、自分を舐めている。埋めようのない実力差を越えて、彼の首を獲るには、その慢心を突く他にない。

ならば自分は、精一杯、遮二無二に道化をやりきろう。閑花と静花が膳手を討ち、羽美子を取り戻す為に。


「情けない話だが、頼む。俺の調理が終わるまで……自分の身は、自分で守ってくれ。俺が、何一つ気にすることなく調理に没頭出来るよう……必ず生き抜いてみせると、そう約束してくれ」

「ワン!」

「あぁ。お前も頼んだぜ、ガストロ」


自分も手を尽くそう、と言うように、頼もしく胸を張ってくれたガストロの頭を撫でながら、伊調はぐっと顔を上げた。

遅かれ早かれ、彼とは決着をつけねばと思っていた。気付かぬ内に仕上がっていた因縁に片を付け、羽美子の専属調理人として相応しいのはどちらか、叩きつけてやらねばと決めていたのだ。だから、何も迷うことはない。


「行こう。お嬢様が待ってる」


自分がやるべきことは、此処に来た時から変わらない。彼女の為に、悪霊を調理する。ただそれだけ、だ。
 

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