カナリヤ・カラス | ナノ


嗅ぎ慣れた匂いが、頭に鈍痛を引き起こす。


「見ろ、××××。お前が背中を気にした結果がこれだ」


赤く、濁った、死の匂い。積み重なった肉が、息を閉ざすような怨嗟を醸す。
無数の目玉で此方を睨むような、重苦しい空気が圧し掛かる。


「お前の判断で、背後に居た五人の兵士は永らえた。だが、その代償に前衛に居た三十八人の兵士達が死んだ。そして、前衛部隊が半壊したが為に、撤退を余儀なくされた他の部隊の兵士も、五十六人巻き添えになった」

「忘れるな。大義の為には犠牲はつきものだ。何も失いたくないなどという、腑抜けた甘えは捨てていけ」


何故お前が、生きているのかと。


「馴れ合いでは、何も得ることは出来ないのだからな」





「……さん……すさん…………鴉さん!」


ガバッと音を立てて上体を起こした鴉に、彼の体を揺すっていた雛鳴子は、飛び退くように体を逸らした。寝起きが悪く、いつも芋虫のように布団にしがみ付いている癖に、今日は弾かれたように鴉が飛び起きてきたものだから、驚いたのだ。しかし、それ以上に驚いたのが鴉の様子だ。今日はそう暑くもないのに鴉は汗だくで、顔色が悪く、息も荒い。その只ならぬ様子に、雛鳴子は不安に眉を下げながら尋ねた。


「……どうしたんですか、鴉さん」

「…………」


鴉は、這うように低く呼吸をして、無言のまま雛鳴子の方へ顔を向ける。

いつも不遜で不敵。そんな彼が、どうしたことか、今はとても弱々しいものに見えた。強さに裏付けされた自信も萎み、打ちのめされたように背を丸めた彼の有り様は、まるで助けを乞う子どものようだ。その所為か、らしくないですよと意趣返しの言葉をくれてやりたい気すら湧き上がらず、雛鳴子はその場から腰を上げた。


「……朝ご飯あっため直してあげますから、お風呂入ってきて下さい。汗、酷いですよ」


それだけ言うと、雛鳴子は部屋から退室し、残った鴉は込み上げた吐き気を飲み下すように天井を仰いだ。

眼を閉じると、悪夢の残滓が目蓋の裏に拡がる。目覚めて尚付き纏う苦痛や苛立ちを払うように、鴉は握り固めた拳を布団へ振り下ろした。





今日も朝は無情にも訪れ、金成屋の一日が始まる。”デッドダックハント”の余韻を残したまま、ギンペーは祈るような気持ちを胸に、重い足取りで金成屋の前にやって来た。

彼の歩みを重くしているのは昨日、計画通りに事が運んだにも関わらず、不機嫌を極めたような顔をして戻って来た鴉にある。
あの後、彼と鴇緒の間に何があったかは分からないが、もしそれが自分に起因していたら、と思うと気が気では無かった。仮に自分に何の咎も無いとしても、だ。鴉が原因不明の不機嫌を患っているのも、それが此方に飛び火してくるのも恐ろしいし、気まずい雰囲気の職場に顔を出すのも憚られる。

それでも仕事があるなら、足を運ばない訳にはいかないのだから、労働者というのは過酷だ。とはいえ、欠勤すれば更に鴉の機嫌を損ねるかもしれないし、他の二人から白い目を向けられそうなので、ギンペーは腹を括り、金成屋の戸を開けた。


「お、おはようございまーーーす……」

「おはようギンペーさん」

「ん、ギンペーか。おはよう」


おっかなびっくり事務所に入ると、いつもと何ら変わらない挨拶が返って来た。雛鳴子と鷹彦の声だ。一先ず、二人は普段通りらしい。それだけで、ギンペーの気は随分と楽になった。二人がいつもと同じという事は、自分が同様にしても良いというのとイコールだ。であれば、昨日の事を気にせずとも大丈夫という許しを得られたも同然と、ギンペーは胸を撫で下ろしたが、問題は依然ある。

ギンペーは、未だ警戒を怠るなと自らに言い聞かせながら、恐る恐る事務所内を見渡した。


「……あれ?」


真っ先に目に入る正面デスクにも、応接間にも、鴉の姿は無かった。

”デッドダックハン”ト前にも鴉がいない日があった。だから、そう珍しい事でもないというのは理解出来ているが、先日の件も相俟って、何か、途轍もなく嫌な予感がした。


「あ、あのー……鴉さんは」

「……福じぃのところに呼ばれて行った。何でも頼みたい仕事があるとかで、な」

「そ、そうっすか……」


それは、普段と変わりなく業務に励む雛鳴子も鷹彦も、同じだった。表に出さないようにこそしているが、一同の腹の底には等しく、悪寒めいたものが滞留している。何の根拠も無く、ただ漠然とそんな気がするだけ。それでも、この場に居る誰もが、何か良くない事が起こりそうだという鬼胎を抱えている。

それに応えるかのように、月の会のビルのある一室では、鴉と鴇緒が目も合わせずに睨み合っていた。

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