カナリヤ・カラス | ナノ
積まれたガラクタに乱反射する弱い陽射し。鼻を衝く鉄の匂い。
投げ出した体をそのままに、逆様になった視界で、灰色に霞んだ空を仰ぎながら、ギンペーは考えた。
このまま此処で死ぬのも悪くないかもしれない、と。
「もう終わりかい?ギンペーくん」
地面に叩き付けられた衝撃で、潰れそうなくらい痛む肺から、ヒュウとか細い息が出る。
悲鳴を上げる気力さえ湧かなくて、もしかしたらこれが断末魔になるかもしれないと、他人事のように思いながら、ギンペーは力無い眼で振り翳されるナイフと、逆光で翳る男の笑みを見遣った。
男の表情は、酷く穏やかだ。その笑顔には一切の凶暴性も獰猛さも見られない。
挨拶を交わす時のように、世間話をしている時のように、歩き慣れた道を行く時のように。彼は何てことない日々を過ごすような穏やかさを携えたまま、角のない殺意を自分の喉笛に向けている。
だから、実感が持てないのだろうか。これから彼に、殺されるかもしれないという実感が。
「残念だよ。君はもっと、見込みがあると思っていたんだけどな」
軽く回って、握り直されるナイフを見ながら、ギンペーは目蓋を下ろした。
――どうしてこんなことになったんだったか。
走馬灯の如く、脳裏を駆け巡る記憶を捲りながら、彼は自分が此処に至るまでのことを回顧する。
ナイフが降り下ろされるまで、零点一秒足らずのその間。ギンペーの頭に最初に浮かんだのは、一週間前のことだった。
「休暇、ですか」
「そ。今日から一人三日間、交代で休暇をくれてやる。俺のこの溢れんばかりの慈悲の精神を讃えながら、有り難〜く七十二時間をエンジョイするといいぜ」
事の始まりは、いつものように唐突だった。
その日の仕事が始まる直前、「皆さんに嬉しいお知らせがありまーす」と高らかに宣誓した鴉が告げたのは、三日ずる与えられる交代制の休暇であった。
金成屋は基本、年中無休である。
とはいえ、毎日切り詰めて働いている訳でもないし、従業員達も仕事以外にやることを殆ど持たないか、休んでいる合間に迫ってくる返済期限に追われてそれどころではない為、誰も休みがあろうがなかろうが、という精神でいる。
時たま疲れを感じた時や、何かしらの用事が出来た時、丸一日休みを取れれば十分。
そんなスタンスで過ごしてきた従業員達にとって、鴉の提案はそこまで有難みのあることでもなかったのだが、三日程度でもまとまった時間が与えられるというのは喜ばしいことには違いない。
仕事以外にやることと言えば、酒場で飲み明かすか、気まぐれに引っ掛けた女と過ごすくらいしかやることのない鷹彦も、日頃時間に追われながら金策に励んでいる雛鳴子とギンペーも、たまの休みだし、三日も時間が取れるならと、鴉の提案に悪い気はしていなかった。
そんな一同の、何処かふんわりとした合意の空気を汲み取り、なら決まりだなと、鴉は両手を打って話を進める。
「つー訳で、明日から三日間は鷹彦が休み。その次は雛鳴子。で、ギンペーが休んだら俺の番な」
「分かってましたけど、順番とかこっちの希望聞いてくれないんですね」
「三日間も連休貰えるだけ有り難いと思え。壁の中には、先祖何代遡るレベルで連休頂戴してねぇ奴もいるんだぜ?」
天奉国が帝国であった頃より遥か以前から、この国に住まう民族は、一に労働、二に労働。三四に労働、五に労働と、馬車馬の如く働いていたという。
そして代々培われてきた、勤労精神という名の奴隷教育の賜物で、今尚この国の人間達は、働けど働けど楽にならない暮らしを享受し続けている。
おお嘆かわしい習慣だと肩を竦めながら、そこらの企業より余程ブラックなルックスで世を嘆く鴉を、じとっとした眼で見据えながら、雛鳴子は溜め息に近い声で尋ねた。
「ちなみに鴉さん、九日後に何があるんです?」
「船上パーティ。隣の国から来る豪華客船にお呼ばれ」
「鴉さんがぁ?」
「鴉さん、知っての通り顔が広いの。皇華國のオトモダチに誘われて、三日間、酒・女・カジノ」
「流石、鴉さんのトモダチ。ろくな人間じゃないですね」
皇華國は、天奉の隣に位置する一大国家である。隣、といっても海を挟むのだが、その海も先の大戦で枯渇し、今は殆ど砂漠化している。
距離が近い為、天奉との交易は盛んで、渡航者も多い。その中には密入国者や奴隷も相当数存在し、ゴミ町でもぼちぼち皇華出身者が見られる。
皇華は天奉より貧しいが、人口が多い為、働き口を求めて密入国を図る者、生活の為に子供を売る者が後を絶たないのだ。
恐らく、鴉がお呼ばれしたという豪華客船にも、ろくでもないものが一緒に乗り込んだり、乗せられたりしているに違いあるまい。でなければ、鴉のような無法者が呼ばれる訳がない。
きっとトモダチというのも、皇華マフィアか何かだろうと、雛鳴子は呆れ顔で低く息を吐いた。
「泥船に乗って砂漠の真ん中に沈まないよう、精々気を付けてください」
「心配してくれんの?優しいじゃん」
「そのおめでたいくらいの前向きさ、たまに羨ましくなります」
「ま、とにかくそういう訳だから、各自三日間好きに過ごしてこい。俺も三日間、存分に遊蕩してくっから」
斯くして、事務所のボードには四人分の連休予定が書き足され、金成屋大連休祭開幕となった訳なのだが。明確な目的が最初から決まっていた鴉以外の面々は、特にはしゃぐことも、浮足立つこともなく。いつものように雑談を交えつつ、淡々と朝の業務に取り掛かった。
「皇華の女は美脚揃いだから、今から楽しみだぜ。こう、服のスリットから覗く太腿からふくらはぎのラインがな……」
「テンション上げ過ぎて、変な病気伝染されたりしないよう色々注意してくださいよ」
「その台詞は、一番最初に連休を取る奴に言え」
「生憎、俺は明日から三日間、概ね普段通り過ごすつもりだ」
「お前はいい加減、自分の日常が異常だっつー自覚を持つべきだと思うぜ、鷹彦」
「その点については同意です。鷹彦さん、痛い目を見る前に自重を覚えるべきだと思いますよ」
「そうか、善処しよう」
「「それはしない奴の台詞だ」」
などと話している間に、鴉は何処かからの電話――恐らく例のトモダチからだろう――に応じ、鷹彦は集金に向かって行った。
雛鳴子は書類をトントンと机で均しながら、流れていった会話の余韻を緩く噛み締め、ぽんやりと呟いた。
「三日間の連休かぁ……」
自分の順番は、四日後に回ってくる。
常日頃、まとまった時間が出来たらやりたいと思っていたこと、やらなければならないと思っていたは色々あるのだが、いざとなると、さて何から手を付ければいいものかと迷うものである。
いつかのように、一日だけなら何も考えず、成り行きに身を委ね、惰性を貪って休日を溶かすのもいいだろう。
しかし、今回の休暇は三日間もある上、一人ずつ交代で、と来ている。よって、金成屋の誰かと過ごす、というのは必然除外される。
雛鳴子は、与えられた三日間をどう使おうかとボールペンを顎に押し当てつつ思案しながら、隣で呆けている彼に声を掛けた。
「ね、ギンペーさんは何して過ごす?三日間」
「……ん、ああ…………」
ギンペーもまた、同じようなことを考えていたのだろう。手にはペンを握っているが、書類の方はまるで手つかずで、端っこにミミズの這ったような筆跡だけが見受けられる。
にしても、彼の性格からして、三日間の休暇が与えられたとなれば、手放しで喜びそうなものだが。
こうもボーッとすることもあるものなのだな、と雛鳴子が意外そうな眼で見遣る中、ギンペーは未だぼんやりとしたままの頭から適当に浮かんできた言葉を舌に乗せ、質問に答えた。
「そうだなぁ……。やろうと思ってたけど、やれなかったことをやってみる……とか」
この時ギンペーは、らしくもなく考え込んでいた。
鴉に三日間の休暇を与えると宣言されたその時から。まとまった時間を使って何をするか、彼はずっと考えていたのだ。
故に、いつものようにオーバー気味なリアクションを見せることもなく、ギンペーはぼんやりと思考の水面を漂い続けていた訳だが。
「……どしたの、その顔」
「ああ、いや。なんか意外だなって思って。ギンペーさんのことだから、あちこち遊んで回るとか、思い切って小旅行とか、そういう方向とばかり……」
ギンペーも、そんな真面目な休日プランを立てるものなのかと、雛鳴子は驚くと同時に、チャランポラン二人と自らを恥じた。
彼が真剣に、有意義な連休の使い道を考えているというのに。一人はダラダラと放蕩。もう一人はろくでもないトモダチと、ろくでもないパーティ。そして自分も、あの二人程ではないが、割と適当に三日間を溶かす気でいたときている。
雛鳴子は、手で顔を覆いながら金成屋の意識レベルの低さを嘆き、皆もっとギンペーさんを見習うべきだとヨヨヨと指の間から声を漏らした。
「私なんか久し振りに時間あるから思い切って山程お菓子作ってみようとか考えてたのに……ギンペーさんが一番しっかりプラン立ててるなんて」
「い、いいと思うよ!お菓子作り!それに俺も、そこまでバッチリ計画立ててる訳でもないっていうか、結構行き当たりばったりになるかもっていうか……前々からやらなきゃと思ってたことに向き合ういい機会だなって思って」
言われる程、しっかりした考えを持っている訳ではない。
鴉に休暇を与えられた時、頭の中を真っ先に過ったからそうしようと思っただけで、実際殆どプランは出来上がっていないし、本当にそうすべきか、少し迷ってもいる。
だから、何をするか明確に口に出せずにいるのだ。
何だかんだ理由を付けて、背中を向けてしまうかもしれないし、思い切って踏み出してみても失敗に終わるかもしれない。そうなった時、格好悪いと思われてしまいそうだからと、ちっぽけなプライドに塞がれているのだ。
そんな自分の不甲斐なさを奥歯で噛み締めながら、ギンペーはたどたどしく、作り笑いを浮かべてみせた。
「これを逃したら、またズルズル先延ばしにそうだから……今の内にやっておこって。そんな感じ」
「ふぅん……そっかぁ」
ギンペーの心情を何となく汲んでくれたのか、雛鳴子はこれ以上言及しなかった。
何か覚悟を決めて大きなことをしようとしているのだろう、と。ギンペーの様子から、そう嗅ぎ取れたからこそ、雛鳴子は詮索を止めた。
当人が言いたくないことに踏み込んで水を差すのは野暮というもの。ギンペーが口を噤んでいたいなら、此方も黙って見守るべきだろうと、雛鳴子は小さく笑いかけた。
「頑張ってね。お菓子、差し入れするから」
「え、くれるの?」
「うん。どうせなら一人で食べきれない量作ってやるって思ったから」
お菓子作りも悪くないと言ってもらえたのだし、食べる人間がいる方がモチベーションも上がるというものだ。
これで少しでもギンペーの励みになれるなら、自分の休暇も有意義になるだろうと、雛鳴子は力こぶを作るポーズをしてみせた。その時。
「それは俺にも与えられて然るべきだよなァ、雛鳴子ちゃんよ」
いつの間にか電話を終えていた鴉が、後ろからヌッと腕を伸ばし、雛鳴子の頬を両手でサンドした。
それをそのまま、生地でもこねるようにもにゅんもにゅんと徒に弄んでくる鴉に、雛鳴子は敢えて抵抗せず、書類整理に戻る。
不健全な休暇を過ごす人には構っていられません、と言うように。雛鳴子は視線を一切向けることもせず、鴉に冷ややかな言葉を投げつけた。
「鴉さんは船上パーティが近いんですから、血糖値抑えるべきですよ。三日間、食べて飲んでなんでしょ?」
「その分運動すっから大丈夫だって」
「余計なエネルギーを与えてやるものかと今、心に決めました」
「いいから寄越せ。お前を取って食うぞ」
「ダイナマイトごと頬張る覚悟があるならどうぞ」
売り言葉に買い言葉。さながら球技のラリーのように言い争う鴉と雛鳴子に苦笑しながら、ギンペーは改めて書類に向かった。
思えば、此処に来て早数ヶ月。壁の中から逃げて、勢い任せに転がり込んで来た時から、色んなことが起きた。
理不尽に叩きのめされることもあった。骨折り損のくたびれ儲けもあった。目も当てられないような惨劇にぶち当たることもあった。
けれど、金成屋に入った時に比べ、任される仕事が増えたことを実感するこんな時。自分は更にもう一歩先に進まなければならないと、使命感にも近い感情に見舞われる。
ギンペーは、小さく溜め息を吐いて、曲がりかけた背筋を伸ばし「よし」と自らを鼓舞するように呟いて、ペンを握り直した。
これが終わったら、早速休暇プランの土台作りをしよう。
三日間、やるべきことに思う存分打ち込めるよう。自分の順番が来るまで下準備をしておくのだと、ギンペーは気合いを入れてペンを走らせた。