カナリヤ・カラス | ナノ


「体温、血圧、心拍数……どれも異常なし。これなら、二日後には退院しても大丈夫ね」

「ほんとっすか!?」

「よかったね、秋沙ちゃん」


今日も今日とて薄暗く、汚濁臭穢の空気が立ち込めるゴミ町に似つかわしくない明るい声色が、安樂屋のある病室に響く。
その声の主は、簡素な花とフルーツセットを持ってやって来た、雛鳴子とギンペーで。二人の前には、ベッドでしおらしい笑みを浮かべる秋沙の姿があった。

仕事の合間を縫って、雛鳴子とギンペーは、安樂屋に入院していた秋沙の見舞いに訪れていた。
崩壊した楽須弥を完全に放棄することを決意した蓮角が、鴉の斡旋を受け、ゴミ町に転がり込んできて早一週間。
負った傷を完全に癒すべく、蓮角と秋沙はそのまま安樂屋へと担ぎ込まれ、燕姫に治療を受けたのだが。蓮角の方は早々に、ぼったくり同然の入院費を支払ってられないと、手術を終えた翌日には退院してしまった。

御土真教にあった全ての財産を持ち出してきた彼であったが、その大半は鴉との契約金に消え、残りもゴミ町での住居やら今後の生活必需品の買い出しやら、新しい仕事探しの資金やらで消えることが確定し、一大麻薬カルテルのボスが今や、ほぼ文無しも当然の状態となっている。
己の体に然したる問題がないのならば、徒に金を溶かしてはいられまいと、蓮角は安樂屋を出て、鴉らと共にあちこち周ったり、周させられたりしている。
楽須弥の一件に加え、ゴミ町で暮らしていく為にあれこれ工面され、蓮角は口惜しいことに鴉に頭が上がらない状態になっており、退院したのならば働けと、いいように動かされているのだ。

昨今、毎日のように彼が金成屋に出入りしては、鴉と何かしら話したりしているので、雛鳴子達にも何となく、彼の現状は分かる。
だから、多忙を極める彼に代わり、秋沙を見舞ってやろうと、雛鳴子とギンペーは時間を作って、安樂屋に来た。


秋沙は、蓮角よりもいっそ手酷く痛めつけられていた。
体もそうだが、何より、彼女は一生残り続けるような傷を、その心に負ったのだ。

年端もいかぬ内に、男共に嬲られた恐怖は、燕姫の手腕を以てしても癒すことは難しいだろう。
そんな彼女に、自分達が掛けてやれる言葉など見付からないが。それでも、少しでも彼女の気を楽にしてやれたらと、二人は秋沙の病室を訪れたのだが――存外、秋沙の調子は良好であった。


「ありがとうございます、雛鳴子さん、ギンペーさん。わざわざお見舞いに来てくださって……」

「いやいや!そんな、お礼なんて言わなくていいから!」

「そ、そうだよ秋沙ちゃん。それより、何か食べる?買ってきた果物、何か剥こうか?」

「フフ、大丈夫です。お気遣いなく」


明るく努めようとしているとか、無理をしている様子はない。控えめで、淑やかな笑顔を綻ばせる様は、自然そのものだ。
彼女のことなど、ほぼ知らないも同然の二人にも、今の秋沙が平常そのものであることは、十二分に理解出来た。

しかし、どうにも分からなかった。

当事者ではなく、現場を見ていない二人ですら、未だ心を痛める想いをしているというのに。
どうしてあぁも苛烈な目に遭った秋沙が、たった一週間で立ち直れているのか。

何もかも、忘れてしまっている訳ではないだろう。そんな都合のいい技術は、生憎存在していない。ならば、彼女自身が狂ってしまっているのか。
二人の胸中には、心臓を食むような不穏の影が蠢いていて。どうにも手放しで、秋沙の回復を祝うことが出来ずにいた。

それを、秋沙はそこはかとなく汲み取ったのだろう。ほんの僅か、表情を翳らせて、秋沙が誤魔化すような苦笑を浮かべた。


「それより……どうですか、蓮角様のご様子は。今、金成屋さんで、お仕事をされてるのですよね?」


その言葉に、雛鳴子とギンペーは眼を丸くした。

二人が秋沙の見舞いに来たのは、今日が初めてで、鴉も鷹彦も、此処には来ていない。
ならば、蓮角が金成屋で、鴉にこき使われていることを話したのは、一体誰なのか。
もしや燕姫か、と視線を向けるが、否と、軽く首を横に振られた。

となれば、思い当たる節は一つだが。そんなまさかと、二人は秋沙を見遣った。

そんな反応をされてもおかしくないだろうと思っていたらしい。秋沙は、クスクスと眉を下げたまま笑いを零した。


「蓮角様……鴉さんに色んな場所に飛ばされて、毎日大変だって……少し、楽しそうにお話してくれました」

「……此処に来たんですか、蓮角さん」

「はい。鴉さんが、お仕事のお手伝いがてら、色んな場所を紹介してくださってて……それで、この町でこれから始めることが見えてきたと。
それと……住む場所も出来たから、退院が決まったら連絡するようにとも…………」


秋沙は、夢見心地に真新しい記憶を捲りながら、蓮角が見舞いに来た時のことを語った。


燕姫の治療を受け、外傷は殆ど癒えた。
だが、ふとした拍子に嵐の如く襲い来る、悪夢のような記憶に苛まれ、投与された鎮静剤も虚しく、点滴に繋がれた腕を掻き毟りたい程の恐怖に魘される夜が続いていた。

病室で一人、甚振られた体を抱え、目蓋の裏に浮かぶ記憶を振り払おうと必死になって、三日が過ぎた頃。
秋沙のもとを、随分疲れた顔をした蓮角が訪れた。

ろくすっぽ眠れていない自分同様、眼の下に隈を作り、いつも以上に眉間に皺を寄せている彼に、一体何があったのか。そもそも、何故彼が自分を尋ねてきたのか。
ベッドの上で唖然としている秋沙に、蓮角が投げかけた最初の言葉は「お前は、寝つきがいい方だったと記憶しているが」だった。

驚きの後、ここ数日蒼白かった顔が、かぁっと紅潮していく。返す言葉に惑い、秋沙があたふたとしていると、蓮角があの日――秋沙の本心を暴いた時に見せたような顔で、笑ってきた。


それから、蓮角は秋沙の返事も待たず、自分の現状をつらつらと報告してきた。

本山から持ち出した資財は、殆ど鴉や燕姫に搾り取られてしまったこと。
当面は鴉の指示で動くことになり、ゴミ町の内情を把握していきながら、新しい仕事を始める為の土台を作っていっていること。
生活の拠点となる家が、無事に確保出来たこと。

そこまで話して蓮角は「退院が決まったら連絡を寄越せ」と、電話番号を書いたメモを秋沙に手渡して、病室を去った。


「皆さんが、蓮角様を助けてくださったから……あの場所から連れ出してくださったから……蓮角様は、とてもよく笑うようになりました。そして、私も…………」


その日から、秋沙の眠れぬ夜は消えた。
不安を塗り潰し、過ぎ去った恐怖を打ち消すように、幸福が寄り添ってきて。嗚呼、明日が待ち遠しいと、弾む胸を抱えて眠りにつけるようになった。

蓮角がまた此処に、自分を迎えに来るのだと。そう思えば、過ぎた痛みなど霞んでくれる。

秋沙はそうして、笑っていた。


「本当に、ありがとうございました、金成屋さん。私達を救ってくださって……ありがとうございました」

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