カナリヤ・カラス | ナノ



母の口癖は「どうして貴方が生まれてきてしまったの」だった。


地祇の巫女として、生まれながらに何不自由のない生涯を送ってきた母は、俺を産んだことで全てを失った。
信者達の思慕も、最高責任者としての尊厳も、未来も。

俺が産まれ落ち、それに因り、子を孕むことが出来ない体になった母は、俺が物心つく前。乳飲み子の頃から、憎しみを込めた眼で、そう呟いていた。


記憶など定かではない赤ん坊の頃でも、母が俺に向けた忌々しいものを見る眼差しと、憎悪に満ちた言葉は、はっきりと覚えていて。

嗚呼、俺は、生まれてくるべきではなかったのだと、幼い時分には理解してしまった。


「貴方なんか、産まなければよかった」


これもまた、母の口癖で。出歩く度に信者達から無言の侮蔑を喰らう度、母は俺を殴打し、そう吐き捨てていた。

誰より信心深く、神職に励んでいた母からすれば、俺という存在は神の裏切りにも等しかったのだろう。
湧き上がる怒りを拳に込めて俺を殴る時。母は決まって、自分は世界一可哀想な存在だと言いたげな顔をしていた。


そんな女の子供として、巫女を狂わせた張本人として、周囲の人間達は、陰ながら俺をこう呼んでいた。


――呪いの忌み子――


その名が、あまりに自然に馴染んだのは、俺自身が、それを自覚していたからに他ならなかった。


「巫女の子供であるが為に、司教の地位に就いているが……あいつは不信の賜物だ」

「まったく、腹の底では何を考えていることか……」

「あんな男の子供では、次の巫女も……」


そんな俺に残されたものといえば、この身に流れる地祇の巫女の血と、次世代まで教団をものに出来る司教の地位だけで。
ならば、それを使わなければ。いよいよ俺が生まれた意味などないと。俺は、母親が死に、御土真教が自分の手中に治まるその時の為に、準備をしてきた。

麻薬と引き替えに舞い込む大金を。信者達が増えれば増える程に膨らむ布施を。紙幣でも硬貨でも、一枚でも多くの金を、俺のもとに集めんと。

それだけを求めて、俺は、痛みも空虚も噛み殺し、生きてきた。



御土真教本山の中は、静かだった。本来此処にいるべき者が、実質的主である蓮角によって凡そ葬られたので、人気がないのも納得がいくが。
それにしても、不気味な静謐だと雛鳴子達は顔を顰めた。

楽須弥に踏み入った時と同様、いや、それ以上の不穏な空気が、ただただ流れている。
曲がり角から今にも、悍ましい何かが飛び出してくるような。そんな予感に急かされながら、蓮角の案内を受け、一行は寺院内部を進む。

朱色に塗られた柱と、壁の白。所々に刻まれた蓮の花の紋様の美しささえ、異様な雰囲気を助長しているようで、手に汗が滲む。
その鬼胎は、廊下を一歩、また一歩と進むごとに大きく膨らんでいった。


何か、嫌な予感がする。


昼の薄暗がりに沈む屋内に潜む、正体不明の影の気配を感じながら歩いていくと、やがて蓮角がある場所で足を止めた。

これまで通り過ぎたどの部屋よりも大きく、豪奢な襖。寺院の最上階に位置する此処が何の部屋かは、問うまでもなかった。


「馬鹿と煙は高いとこが好きたぁよく言うが、あながち間違ってねぇみてぇだな」


襖の間から、香の匂いが漂ってくる。
楽須弥に生えている木から作ったものだろうか。僅かな煙たさと、仄かに甘い香りが鼻孔を衝いてくる。人がいない場所で、香が焚かれることはないだろう。

鴉の言う通り、この先――巫女の間に、いるのだ。楽須弥に進軍に、御土真教の信者達を惑わした、純貴族が。


「ひでぇ匂いだな。中はさぞ篭ってんじゃねぇの?」

「それは困る。さっさと換気せねばな」

「ちょ、ちょっと鴉さん、蓮角さん!?」


純貴族・白陽院雪加は、ほぼ間違いなく此処にいると見ていいだろう。

しかし、彼一人呑気に此方を待ってくれている訳もあるまい。間違いなく、彼が此処に連れてきた都守や私兵が待ち構えているに違いない。
いや、それよりもっと恐ろしいものがあるのではないか。

こっちはそんな予感がしてならないというのに、此処に来て尚も軽口を叩きながら、鴉と蓮角が襖を蹴り飛ばしたので、雛鳴子は心臓が握り潰されるような思いがした。


だが、この二人は彼女よりも余程、襖一枚の先に待ち受けているものを把握していた。

仄かに甘い香の匂いに混じって鼻を衝く汚濁の臭いに、二人も、後ろの鷹彦もとうに気付いていて。
間もなく拓けた景色に言葉を失ったのは、雛鳴子とギンペーだけだった。


「…………れんか、く、さま」


ざぁっと霧が晴れるように、立ち込める香の匂いが消えた気がした。

閉ざされた一室で、敵の侵略と征圧を許したこの場所で起きているものを目にした瞬間。
噎せ返るような栗の花の香りに中てられて、雛鳴子は強烈な吐き気を催し、ギンペーは堪え切れず嘔吐した。


「行儀が悪いな、貴族サマ。他人の家ではしゃぎ過ぎじゃねぇの?」


鴉は、嫌味をふんだんに含んだ笑みで、床に転がるそれを見て、すぐに顔を上げた。

その視線の先。巫女の間に悠然と君臨する、白髪白皙の男――白陽院雪加は、椅子の上で脚を組みながら、何一つ悪びれた様子もなく、鴉の皮肉を恬然と返した。

自室でくつろいでいるかの如き、彼の余裕と平静が、とても信じられないと、雛鳴子は床に伏せながら吐き続けるギンペーの背中を擦った。
こうして目の前で人が吐いていても、幾つもの厭忌と敵意の眼に曝されても、雪加はまるで気にしていない。いや、そんなことはどうでもいい。


「他人の家?はて、一体此処は誰の物だか……見て分からないか、下賤者」

「失敬。そこでボロ雑巾になってる巫女サマのもんだとばかり……いや、実質的にはそいつの”つがい”の、サイコ司教のもんか」


鴉がそう比喩した通り、否、それ以上に凄惨な状態になっている少女を前にして、何故彼は、こうも平然としていられるのか。

雛鳴子もギンペーも、あまりに酷たらしい光景から眼を逸らすことが出来ず。忌々しい程の引力に抗うようにして、雪加を睨んだ。


油断すれば、また胃袋が搾られるような感覚に襲われる。
悍ましく堪え難い、地祇の巫女・秋沙の惨状に、雛鳴子達は怒りを覚えていた。

彼女が赤の他人であれ、これが初対面であれ、目の前でゴミのように転がされている少女の姿に、憤慨しない理由はなかった。
雛鳴子よりも幼い少女が、胸を悪くしそうな仕打ちを受けているのが容易に想像出来る有り様を見て、雪加に怒りを覚えない方がどうかしている。

だというのに。鴉が言った通り”つがい”の立場にいる蓮角が、まるで冷静でいるのが、雛鳴子達には信じられなかった。


「……まだ女とも言えん年頃の小娘に、よくもまぁこれだけ」

「フン、それはお前が言えたことか?」

「う、ぐ……ッ」


蓮角の言葉を笑殺し、雪加は床に転がる秋沙を、まるで足置きのように踏み付けた。

散々に嬲っておきながら、未だ幼気な少女を甚振る姿に、雛鳴子とギンペーはぞわぞわと髪が逆立つようだったが――蓮角は、秋沙を見てすらいなかった。


「己の立場の保持の為、こんな童女まで抱いていたのだろう?壁外の蛮族は、悍ましいことを考えるものよ」

「……その蛮族と同じことを、純貴族様がなされるとは」

「まさか!余は見ていただけで、こやつを犯したのは余の私兵共よ」


落ちたゴミを徒に転がすように、雪加が秋沙を小突いても、蓮角は眼を逸らすことなく、彼を睨み続ける。

その眼に宿っているのも、秋沙を凌辱された怒りなどではなく、自分の巣を荒らしてくれた雪加をどう処理しようか思案している冷ややかな意志で。
そんな彼の冷徹が愉快だと言いたげに、雪加は眼を細めて、残酷さを練り固めたような言葉を吐いた。


「すぐに壊れるかと思うたが、淫行には慣れておったようだな。何人の男を相手にさせたか……もう覚えておらんが、砂漠の猿とは逞しいものだ」

「ッ、てめぇええええええ!!」

「ギンペー!」


卑しく笑む雪加の顔に、一撃食らわせなければ気が済まないと。
瞋恚に弾かれ、ギンペーは床につけていた膝を上げて踏み込んだが、すかさず鷹彦に、腕を掴まれ止められた。

彼がそうしていなければ、雛鳴子がそうしていただろう。彼女がそうしていなければ、鴉が脚を引っ掛けていただろう。
鷹彦のとった行動は正しかった。腕を引っ張られ、床に叩き付けるようにして尻餅を付かされた、当のギンペー以外には。


「何するんすか鷹彦さん!!」


ギンペーからすれば、この状況に於ける制止は、雪加が秋沙にした行いの肯定にも等しかった。

故に、自分を止めた鷹彦を責め立てるように叫びながら、彼に掴み掛かりかねない勢いでギンペーは立ち上がったが。


「勢いで飛び込むな!!お前、あいつがどうして此処にいるのか、忘れているのか!?」


鷹彦が正しかった以上、ギンペーは間違っていた。
義憤に駆られたことまでも過ちとは、誰も言わないが。それでも、無策に雪加に殴り掛かることは、愚行そのものであった。

幾ら物を知らず、勘の悪いギンペーでも、頭に血が昇っていなかれば、気付けただろう。

相手は、純貴族・白陽院雪加。彼が如何に厄介な存在か。
それ位はギンペーでも知っているし、何より未だ敵陣であるこの場所で、悠然と構えている彼を警戒するのは、必然であった。


「奴の狙いは、蓮角の首だ。A級戦犯のテロリスト・大条寺蓮角を待ち構え、その暇潰しに彼女を凌辱していた……。
そんな奴が、何の仕掛けも無しにただ座っているだけだと思うな」

「暇潰し、とは違うぞ。そこの者」


正し過ぎる叱咤を受け、ぐっと顔を悲痛に歪ませたギンペーの神経を、また逆撫でるような声で、雪加は口を挟んできた。

思いがけない言葉を拾われた鷹彦が、それはどういう意味かと睥睨すると、雪加の表情に浮かぶ、倨傲と狂気の色が濃くなった。


「こやつは傀儡だが、此処の主には違いない。そして、実質的支配者の所有物であることも然りだ。それを嬲り、犯し、蹂躙したのは、余がこの地を”完全征圧”する為よ」


怒りに焦がされていたギンペーも、その悪辣さに眉を顰めていた雛鳴子も、雪加の悍ましさに竦み、全身の血が抜かれたかのような冷え冷えとした感覚にやられていた。

あらゆる汚濁を知り尽くし、慣れきっている筈の鷹彦でさえ、雪加の恍惚めいた声色に寒気だっているのだから、仕方のないことだ。


雪加は、己が一切の混じり気も穢れもなく、正しいものであると妄信している。
自分の思想は何より尊く、気高く、清らかであるに違いないと。そうして謳うように揚々と語られる言葉は、疑いようもなく狂っていた。

誰もそれを否定出来ず、彼自身が正義であると信じて止まず、周囲もそれに同調したが故に。肥大化し、練り固められた狂気は、聖物として雪加の中に君臨してしまっている。
これが、純貴族の恐ろしさなのだ。

権力と財力で出来た堅牢無比の殻の中。彼等は何者にも苛まれることなく、狂った価値観を育んでいく。
自分達は選ばれし存在で、この世界を正しい形に導く使命を有しているのだと。間違ったまま、思い違いをしたまま、彼等は悪徳に手を伸ばし、非道の限りを尽くしていく。

白陽院雪加もその例に漏れず、高潔なものと信ずる己の意志に従い、楽須弥に攻め入った。侵略も、蹂躙も、殺戮も、凌辱も。全ては彼の、国の正義なのだ。


「悪しき非国民共を、ただ駆除するだけでは、尊き国の領土は雪げぬ。
純貴族・白陽院の嫡子として、天奉の未来を担う者として生まれた余が、”完全制圧”することで、この地は蛮族の巣から、天奉国の一部に戻ることが出来るのだ」

「くぁ……成る程。此処の住人共を誑かして嗾けたのも、幼気な巫女をマワしたのも、その”完全征圧”の一環っつーことか」

「猿にしては冴えているな」


退屈そうに欠伸をした鴉に、雪加は眉一つ動かすことなく嗤い続けた。

彼のことなど、気に留めてもいないのだ。
下賤で卑俗な壁外の人間など、雪加からすればゴミも当然であり。目障りであっても、それに余裕を脅かされることはないのだと、彼は鴉をまるで意識していなかった。

何れ、間もなく消えるものに、目くじらを立てる方が馬鹿げている。
そう物語るような雪加の態度が障ったのは、長らく黙り込んでいた蓮角で。鴉もまた、雪加の罵言に対し特にこれと言った反応を示さず、欠伸の余韻を噛み潰している中。
何時袖口に仕込んだ銃を向けて、その底気味悪い笑みに風穴を開けてやろうかと、蓮角は苛立ちを指先に込めて、雪加を睨む。

その殺意漲る視線に応えてやるかのように、雪加は脚を組み直して、本題を切り出さんと吊り上りっぱなしの口を動かした。


「この地を治める支配者の住処も、伴侶も、部下も、財産も……命も奪い尽くしたところで、”完全征圧”は成され、天奉の地は清められる。確か貴様……大条寺蓮角と言ったか」


パチン、と軽やかな音が、巫女の間に立ち込めていた不穏を晴らした。

雪加が指を鳴らすと共に、鷹彦達が危惧していたものが、一斉に姿を見せたのだ。

不可視であったが故に、靄の如く漂っていた鬼胎。それが霧散すると共に、張り詰めた空気が、発汗した肌を削ぐように流れた。


「残すは、貴様の首のみだ」


この部屋の何処に潜んでいたのか。
涎を垂らし、唸り声を上げるそれらに囲まれた一同は、顔が引き攣っても大笑いしたい気分で、武器を構えた。


「……まぁた、貴族様は趣味の悪いモンを作られてんなァ」

next

back









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -