カナリヤ・カラス | ナノ


始めはぷつり、と。人体に於ける最初の防壁たる皮膚を突き破り、それから内部を守る肉をつぅと横に裂いていく。

その軌道を追うように裂傷から血が溢れ、流れていき。次いで喉からくぐもった吐息のような声が這い出てくる。冷めた眼でその様子を見て、彼女は性交のようだと淡々と思った。

貸し出したメスを使い、体に多大なる影響を及ばさない程度に腹を裂いている男がしているのは、紛れもない自傷行為だというのに。
眼鏡の奥の瞳は、眉間に皺寄せる男から興奮めいたものを感じ取っていた。
それが肉欲に繋がっているものではないことを、彼女はよく知っているが――その正体を知るが故に、呆れを孕んだ溜め息を零さずにはいられなかった。


「よくやるわね…自分の体に」


ぱたんと暇潰しに読んでいた本を閉じると、男と眼が合った。
ある種責め立てるような口振りで放たれた言葉に対し、男は憤慨している様子はなかったが。揺れ動くことのない赤い眼は、何処か白けているように見えた。

彼女はもう一度溜め息を吐くと、閉じた本をデスクに置いて、診察用のベッドの縁に腰掛けている男の前までかつかつとヒールを鳴らした。

近付くと、真新しい血の匂いが鼻を衝いた。こうしている間にも男が自ら傷付けた腹からは、通常ならば見過ごせない量の血が流れているのだが、自業自得のその光景に彼女――燕姫は眉一つ動かさなかった。

そして男――ワタリもまた、自分の行いを悔いることも省みることもせず、気怠そうな声を出した。


「…今更だろう」

「そうね。でも、被虐趣味がある訳でもないのに何の得があるのかしらと思って」


適当に腹を切りつけると、ワタリはメスをベッドに投げた。燕姫の介入を食らい気分ではなくなったのもあるが、ある程度の行為が終えたのもあるだろう。

鋼のように鍛え上げられた彼の腹部には、古い傷痕の上で切り傷が幾つも犇いて、血を垂れ流している。
自分が声を掛けなければ、あと二、三箇所は切っていただろう。そんなことを思いながら、メスに付着した血がーツに滲んでいくのにも構わず、燕姫はワタリの脚の上に跨った。

向かい合うのも束の間。そのまま広い両肩を押すと、腹部の状態に反して汗一つかいていないワタリの上体が、ベッドへと倒れた。

肩を押した手に、特に力は込めていない。元より、この屈強な男を力で倒せるなどと思ってもいない。それでも彼を押したのは、ベッドに体を倒せと促す意味だった。
自分の手など枝のように容易く折れる力を持っていながら、大人しく彼が指示に従う様は、何と言うか滑稽であった。

いや、彼があっさり組み敷かれてくれたことよりも、現状を作る全てが燕姫にはとても馬鹿らしいと思えた。


この薄暗い診察室も、其処で快楽目的でなく自傷行為に耽っている彼も、そんな男の上に馬乗りになっている自分も…何もかもどうかしている。

燕姫はそんな状況に更に足を踏み込むように、ワタリの腹の傷に人差し指を入れた。
ぐちゅ、と生々しい音が耳を打つ。同時に鼓膜を撫ぜるような息が、下からせり上がってきた。

見下ろせば、ワタリの眼が此方を見ていた。相変らず、白けきったような目付きで。


「……前にも、言っただろう」


関節を捻じ曲げると、不快な感触に当たる。それは医者である燕姫には、身近な感覚である。
片手をついている、堅い筋肉に覆われた腹部の内部にあるとは想像も出来ないそれを、爪の先で押してやると喉仏が動いた。

その反応を愚かしいと思いながらも、燕姫は中指で傷口を引っ掻いてみた。常人ならば叫び声を上げるような痛みを与えられても、真下の体が僅かに動くだけだ。

それでも、彼は確実に昂ぶっている。痛みによって、と片付けるには足りない理由で――。


「俺がこうして自分に傷を付けているのは……俺が、此処の番犬の役割を果たす為だ」

「……………」

「俺は、この町で”最強”というレッテルを貼られている。此処の人間を見ていて…まぁそうだろうなと俺も思う。……だからだ」


いつだか聞いた通りの言葉だ。それどころか、以前同じことを尋ねた時もこんな風にしていた気がする。

燕姫はじくじく肉を突いていた中指を人差し指を入れた傷に追加して、傷口を縦に押し広げてみた。
医者である自分が、わざわざ傷を広げるなんて馬鹿馬鹿しい。これも前に考えていたことだ。

途方もなく不毛だ。そう思いながらも、燕姫は指を動かし続けた。組み敷いた闘争の化け物を、手なずける意図で。


「”最強”である俺に向かう奴もなく、いたところで俺に傷を付けられる奴もいない……。そういう温い環境に浸り続けていると…腕が錆びつく」


にた、と口角を上げて、ワタリが笑い、同時に、傷を掻き回していた燕姫の指の動きが、ぴたりと止まった。

此方を見据え、喉をくつくつ鳴らす彼に、牙を剥かれたような気がして思わず体が強張る。


それを見通されたのだろうか。ワタリは動きが止まった燕姫の指を引き抜くと、ゆっくりと上体を起こした。

みちみちと傷が広がるのにも構わず、ワタリは今にも噛み付きそうな口を開いた。
それが自分の喉笛を食い千切ることはないのだと知っていながら、いつの間にか獣のように光っている彼の双眸から、燕姫は眼が逸らせなかった。


「痛みを伴わずにいれば闘争心が腐る、頭が戦いを忘れる。だから俺はわざわざこうして、自分を冴え渡らせている。常に俺が”最強”である為に…な」


燕姫は知っていた。ワタリという男は、この異常なまでの戦闘意欲によって最強にまで上り詰めたのだということを。

彼は痛みに快楽を覚える質なのではなく、痛みの先で目覚める闘争本能に対して愉悦を感じている、生粋の戦闘中毒者であるということを。


「俺の飼い主であるお前が、それを一番望んでいるんだろう。お前がこの町で築いた砂の城のような地位は……俺がいて成り立っているんだからな」

「……えぇ。そして貴方は、私の地位から生まれるお金に有り付いて…安定を保っている」


知った上で彼女は彼を飼うことを決め、彼もまた、そんな彼女に飼い慣らされる道を選んだ。

互いに欠けた場所を埋め合わせる為に、これ以上となく好都合な存在であると認めて、二人は利害一致の元にこの関係を築いていた。
だから上下関係などこんな風に容易く切り替わり、燕姫はワタリを恐れるし、ワタリも燕姫にされるように身を委ねる。


「私が貴方を此処に置く理由は、貴方が誰よりも強く在るから……。腕はあれど力がない安樂屋を守る為……他を圧倒する程の強さを持った貴方が、私には必要。
だから……”最強”でない貴方には、飼う価値がない」


体を起こしたワタリに手を掴まれたまま、燕姫は腰を上げて、彼の首に噛み付いた。
高揚の熱のせいか、血の通う首筋は熱かった。今し方自分が付けた歯型以外には、傷一つないそこを見て、燕姫はまた溜め息を吐いた。

戦闘意欲の塊でありながら、この町で生き永らえていられる男には、自分で定期的に痛めつけている腹と、一筋の傷痕が刻まれている右頬以外には何処にも傷はない。
それが、彼が最強である証明に違いなかった。

彼を傷付けることが出来るのは、彼だけ。その事実があれば、燕姫は十分な筈だった。
この狂気と暴力で成り立つこの町で生きるには、これでいい。いいのだが――。


「……でも、やっぱりどうかしてると思うのよ」


おかしいものはおかしい。それは覆せないもので、現状は馬鹿らしいままである。
燕姫が眉を顰めて吐き捨てると、ワタリの顏から先程までの凶悪な笑みが消え失せていた。

感情の起伏は一貫して平坦でありながら、熱しやすく冷めやすい男だ、と燕姫は内心毒づいた。

そんな彼女を見るワタリの眼は、此方を憐れんでいるのか、小馬鹿にしているのか分からない。ただ、その褪めたような視線が、燕姫は不快だった。


「……燕姫、お前は」


これまでの問答のように、分かり切ったことをワタリが告げようと、喉を動かした時だった。


「「きゃああああああああああああああああああ!!!」」

「――!!」


町に渦巻く狂気が絶叫を齎し、燕姫の巣へと食い込んだ。


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