病手線ゲーム | ナノ
ドアが開くと共に、乗客一同の中に再び沈黙が訪れた。
全員揃って息を殺すようにして、目の前の光景に戦慄していたのだ。
そして 僕らは、まず真っ先に、あのアナウンスが言っていた言葉の意味が分かった。
「死武夜〜死武夜〜。お降りの際は、電車とホームの間にご注意ください」
僕らの前には、電車とホームの”間”が広がっていた。
いつもなら一歩跨いで、それで済むようなその”間”は今――およそ2メートルは広がっていた。
意味が分からなかった。
普通「電車とホームの間にご注意ください」って、うっかり隙間に傘とか挟んだり躓いたりしないようにって、そんな意味だろうに。
こんな悪意しか感じない”間”、気を付けるなと言われても気を付ける。
しかもこの”間”。何が恐ろしいって、ホームまでの距離もさることながら、その深さだ。
地獄にでも繋がっているんじゃないかと思える程、穴は真っ暗で、こちらを吸い込んできそうな気すらしてくる。
どれ程の深さかなんて検討もつかないが、落ちたら無事じゃ済まないことは誰の眼にも明らかだった。
そんな”間”をどうにか飛び越えることが出来れば、ホームがそこにはきちんとあった。
僕はあまり渋谷で降りることはないのだが、通学中見てきた渋谷駅のホームと、”間”の先にあるそれに、これといった変化はなかった。
――ただ一つ、駅名の書かれた看板が「死武夜」になっている以外は。
「おいおい、ドッキリにしては手込みすぎだろ……」
さっきまで僕同様、ツイッターを開いていた男性が、ヤケクソに近い笑いを零した。
確かに、僕もそう思う。こんな手の込んだ、それでいて迷惑極まりないドッキリ、海外番組だってやらないだろう。
それが、極めて平穏な日常を望み、緻密なスケジュールを乱されることを嫌う日本で、こんな企画やろうものなら総叩きもいいとこだ。
だが、ドッキリではなければ今目の前で起こりつつある現象は何なのか。
説明出来る人間は、僕らの中にはいなかった。
そう、僕らの中には――。
「本日は、やまのて線をご利用いただきまして、誠にありがとうございます」
ハッと、僕らは声の先へ視線を向けた。
これまで電車の中、スピーカーの向こうから聞いていたあの声が、今度は外から聞こえた。
僕らの前、死武夜駅のホームから。
「電車はこれより10分間、死武夜駅に停車致します。乗客の皆様は速やかに、ホームへとご移動ください」
肉声で聞くとまた一段と、無駄にいい声だった。だが、実際に聞くと それ以上に嫌な声だという印象を受けた。
まるで僕らを、ケージの中の実験マウスと見做しているかのような…明らかに人を小馬鹿にした調子で、隠しきれていない悪意が滲み出ているその声に、僕は背筋がぞぉっとするのを感じた。
「繰り返します。電車はこれより10分間、死武夜駅に停車致します。乗客の皆様は速やかに、ホームへとご移動ください」
口調は至極丁寧だというのに、そこに誠意なんて欠片もなかった。
マイクを片手にアナウンスするその男は、常に吊り上った口で笑う道化の仮面を僕らに向けて、多分 仮面の下でにこっと笑った。
「お……おいお前!!まさか、車掌か?!!」
隣にいたオッサンの声で、僕はようやく気が付いた。
気味の悪い仮面に気を取られていたが、よく見ればその男の服は、駅員のそれだ。
どこにでもありそうな、でも、どこでも見れなそうな。
そんな駅員服をしゃんと着こなし、帽子もきっちりと被った姿と、一度聞いただけで印象に残る声は、確かに例のアナウンスを流していた車掌だろうと言える。
が、顔に付けたあの仮面。それが全ての思考を覆そうとしてくる。
だって、普通いないだろう。道化の仮面を付けた車掌なんて。
「繰り返します。電車はこれより10分間、死武夜駅に停車致します。乗客の皆様は速やかに、ホームへとご移動ください」
オッサンの問い掛けを華麗にスルーして、車掌はこれまで通り、ご丁寧にアナウンスを繰り返していた。
二回言われなくても、一回聞いたら忘れられないだろう内容だってのに……
「………え?」
ちょっと待て、今、今あの車掌は何て言った?
乗客の皆様は速やかにホームへと移動しろ 確かに二回、そう言ったよな。
皆様って、皆様……俺も、隣のオッサンも、我が物顔で席に座って化粧してた女子高生も、私立校に通っているだろう小学生も、ギター背負ったバンドマンも。
全員、この”間”を越えて来いって。車掌は、そう言ってるのか?
「……な、何言ってんだお前!!」
「ふざけんのも大概にしろ!!こっちは仕事があんだぞ!!」
「そうだそうだ!!」
「っつーか何で降りなきゃいけねぇんだよ!!」
「早く電車動かしなさいよ!」
「訴えんぞ糞野郎!!!」
乗客達の訴えは何も間違ってはない。
そりゃそうだ。何の理由があってこんな危なっかしい溝を越えて、訳の分からない名前の駅に降りなければならないんだ。
僕らにはこれから会社や学校があって、こんなことをしている場合ではないっていうのに。あの車掌は一体、何を考えているんだ。
盛大なブーイングを受けながらも、まるで動じる様子のない車掌は、相変わらずにたにた笑ったままの仮面でこちらを見据えてきた。
同時に、仮面越しからとても嫌な視線が送られてくるのを、僕らは感じた。
「改めまして繰り返します。これより、やまのて線ゲームを開始します。乗客の皆様は、速やかに降車し、駅のホームへと移動してください」
電車中の声が全て、ぴたりと止んで。全員、喉笛にナイフを宛がわれたかのように、黙って、車掌の声を聞いた。
「停車時間は10分。その間にホームへと移動されなかった場合――ゲームの参加権は剥奪されますのでご注意ください」
だらだら、気持ち悪い脂汗が背中を伝う中。
車掌は「こんな風にね」と、白い手袋を付けた手を軽やかな動作で横に流した。
すると、まるでマジックみたいに――車掌の足元に、10に近い数の生首が現れた。
「…………」
「………あれ、さ……」
「……本物、じゃ……ないよな」
離れた距離にあるからとかそういうんじゃなくて。
この電車に乗り合わせた人間全員、本物なんか見たことないから分からないだろう。
僕だって、ネット上に流出したグロ系画像でしか見たことない。
人間の生首なんて。しかもあんな数。
僕らが揃って呆然とする中、車掌は一個、一番近い生首を軽やかに拾い上げた。
多分、所謂商社マンだろう。髪をきっちりと分け、眼鏡を掛けた、いかにも賢そうな男の頭を、車掌は片手でぽんぽんと弄ぶ。
「繰り返します。停車時間は10分。その間にホームへと移動されなかった場合。ゲームの参加権は剥奪され、こんな風になりますのでご注意ください」
じわじわ、白い手袋が赤く染まっていく中。車掌はそう言って、手に着地した頭に、もう片方の手を乗せた。
そして、ぐっと車掌が力を入れたその瞬間。商社マンの頭は、西瓜のようにパァンと爆ぜた。
辺り一帯に赤い液体と、何かの欠片が飛び散り 僕らの鼻を強烈な鉄の匂いが突いてきた。
あまりに現実味がなさ過ぎて、僕らは何も反応出来ず。
生温い風に乗って運ばれてくる生臭い血の匂いと、虚ろな目玉を見開く生首達の視線を感じていた。
「これより10分間、死武夜駅に停車致します。この世にお忘れ物のないよう、ご注意ください」
そう言って、足元の生首を踏み潰した車掌は、返り血を浴びた仮面でにっこりと笑って、消えた。
残された僕らは、血だらけの死武夜駅ホームと、電車との”間”。そして、互いの顔を恐る恐る見合わせて――誰かの絶叫を口火に、一斉に烏合の衆と化した。