いただきもの | ナノ





「はいセンセ、よろしければこれ受け取ってください」

よろしければ、という殊勝な前置きとは裏腹に、ひどく無遠慮に視界へ割り込んでくる小さな包み。
他の所員がデスクワーク中の在津にこんな真似をしようものなら向こう三十分は説教を食らいかねないが、
精鋭揃いの第二支部でもとりわけ優れた仕事ぶりと引き換えに日頃の振る舞いを諦められている淡海だからこそ、
怪訝と不機嫌を半々に混ぜたしかめっ面で睨まれる程度で済んでいるのだ。
もっともこの表情だけで大半の人間を追い返すに事足りるだろうが、
淡海は怯んだ様子もなく、むしろ視線を向けてもらえた事に嬉しそうにしている始末である。

「なんだこれは」
「手作りのクッキーです。あ、もちろん私のですよぉ」

そこはどうでもいい。
在津が聞きたいのは製作者についてではなく、何故それを自分に渡してくるのかという事だ。
仕事に関係している品だというならまだ分かる。しかし、クッキーとは。

「私、けっこう家で料理するんです。
手順と分量を守って作ると、料理ってどんどん上達していくんですよぉ。
最近やっと自分でも納得できる味になったから、これなら配っても迷惑じゃないかなって」

彼女の育った環境については在津も把握している。
悲惨な境遇からここまで登り詰めてきたのは、生まれ持った素質もあるだろうが紛れもなく本人の努力の賜物だ。
学習と実践に対する真摯な姿勢をプライベートでも保てているなら、料理だろうと洗濯だろうと上達は早いだろう。
それと自分との間には何の関係もないが、ここまで言われればさすがの在津にも淡海の行為の意図は伝わる。

「要は差し入れか」
「そうなんです! 日頃の感謝の気持ち、いっぱいいっぱい込められてます。
あ、でもセンセは特別だから、みんなに配ったのとはちょっと形が違うんですよぉ」

辺りをまるで憚らず、淡海は無邪気に笑う。
どこかから「俺ああいうのって他に人がいない所で言うもんだと思ってた」という呟き声が聞こえる。
おそらく猿田彦だ。注意をしてやりたいが、一応仕事の手は止めていないのを確認して放置を決める。
ともあれ理由はわかった。納得できたかとなるとまた別だが、在津は淡海の性格を嫌というほど熟知している。
ならば拒否するよりさっさと受け取ってしまった方がこれ以上の面倒がないと判断し、無造作に片手を伸ばす。
淡海がぱあっと顔を輝かせながら、在津の掌にクッキーの入った小袋を乗せた。

「ありがとうございます! 作ってきて良かったぁ!」
「そうか、気が済んだなら仕事に戻れ」
「すげえ、こっちはこっちであそこまで言われてんのにカケラも嬉しそうじゃない」

また猿田彦だった。先程より声が大きい。
そろそろ呼び出すべきか検討しつつ、在津は小袋をデスクの上に置くと、不本意にも中断された仕事を再開した。
が、次第にその存在が気になり始めた。淡海の趣味なのか単に何も考えていないだけなのか、
やけに華々しい柄のラッピングは在津のデスク上の光景から完全に浮いている。
親と同じく自己主張の強い奴だと心中で毒づきながら、在津はデスクの引き出しを開けると、そこにクッキーの袋を入れた。





そんな出来事があってから数日後の事だった。

「センセ。あのクッキー食べてくれました?」

何の話だと束の間動きを止めて、ようやく在津は思い出した。
同時に彼らしからぬ僅かな焦りが浮かぶ。
すっかり忘れていた。あれから引き出しを開けなかった訳ではないが、最初にしまった時に思いのほか奥に行っていたようで、
使い慣れた引き出しだからと碌に目もやらずに細々した品を出し入れするうちに、隅へ隅へと追いやられてしまったのだろう。
ひょっとしたら、他の所員のとは違うと言っていた形も、砕けて分からなくなっているかもしれない。
逡巡したのは一瞬だった。

「……ああ、食べた」
「わー、嬉しい! またそのうち作ってきますね!」

淡海は嬉々として去っていく。
味はどうだったのかと感想を尋ねてもこない。
食べてもらえただけで嬉しいのだと、一切の嘘なくその全身が語っていた。
これは彼女が勝手にやった事だ。作ってきてくれと頼んだ訳でもなく、言ってしまえば善意の押し付けに過ぎない。
それに在津がこういった行為を喜ぶ人間ではない事は、淡海含めて内外の者にも周知の事実である。
だから貰い物をどう扱おうが、罪悪感など抱く必要はないはずだった。
そう思う在津の胸に、ごく僅かに刺すような痛みが走る。
気付けば、彼は淡海を呼び止めていた。

「待て淡海」
「はい?」
「……今のは嘘だ。お前に聞かれるまで完全に失念していた。
私はあれを食べてなどいない。引き出しに入れたきり忘れていた。だから今のはその場凌ぎの誤魔化しだ」

他の所員もいる中で、小さいとはいえ明らかな失態を晒すのには抵抗があったが観念する。
在津は引き出しを開け、案の定端に隠れていたクッキー入りの小袋を取り出し、戻ってきた淡海に見せた。
中身が無事かどうかは手触りからは分からない。
というより貰ってすぐにしまってしまったから、元がどうだったのかを覚えていないのだ。

「あ、やっぱりそうだったんですね! ありがとうございますぅ!」

予想外にも程がある反応に、在津は面食らう。
やっぱりというからには、半ば嘘に気付いていたという事だろう。
育った環境のせいか、淡海には妙に人の心の動きに目敏いところがある。
対人においては極めて有用な能力だが、こういう状況においては厄介だ。
故にそれはまだいいとしても、ありがとうございますとはどういう意味なのか。
こんな扱いをされれば、怒るか落胆するのが普通だろう。

「最初に食べたって言ってくれたのは、食べてないって言ったら私が傷付くと思ったからですよね」

まあ、そうだ。
保身がなかったといえば嘘になるが、悲しむ淡海の顔が浮かんだのも間違いない。

「それってセンセの優しさだなぁって思うんです」
「いい方に捉えすぎだ。そもそも優しい人間は貰い物を放置などしない」
「で、直後に呼び止めて訂正してくれたのは、嘘をついたままじゃ悪いとすぐ思い直したからですよねぇ。
それはセンセの誠実さだと思うんです、私」

何なのかこの女はと、今の地位に至るまで様々な種類の人間と関わってきた在津も呆れた。
無関心と悪意をこうまで前向きに解釈する人間は見た事がない。これではいつか敵に足を掬われかねまい。
在津がそれを指摘すると、淡海は臆さずに「こんなのセンセだけだから大丈夫ですよぉ」と返した。
それもどうなんだと在津は思う。

「……正直なとこ、センセがクッキーを受け取ってくれた時点で私は満足してるんです」
「何だと?」
「渡す時に言いましたよね、感謝の気持ちですって。
それを受け取ってくれたんですから、私のセンセへの感謝は受け入れられたって事です。
もーそこで自己完結しちゃってますから、そこから先はオマケ要素みたいな?
そりゃ食べてもらえたならすっごく嬉しいですけど、そこはほら、センセだし。
あ、でも逆に言うと、気持ちさえいらないって言われてたらちょっと傷付いてたかもしれないですねぇ」
「……まったく」

センセだしとはどういう意味だ。
渡せた時点で満足しているというのも、この女の事だから強がりや意地ではなく本心から言っているのだろう。
在津は嘆息すると、小袋を縛っているリボンを解いた。ふわりとラッピングが広がる。
幸い、中身は大きく崩れてはいないようだ。全部ハート型なのは気になるが。
適当な一個を摘み、口に放り込む。えっと淡海が叫んだ。遠くで数名の所員も叫んだ。
もそもそと咀嚼し、飲み込む。芳醇なバターの香りが口内に残った。

「……茶が欲しくなるな」

合いそうだという意味ではなく、水分なしだと喉に引っ掛かるという意味で。
あたかも絶滅寸前の珍獣と遭遇したかのような顔で一部始終を眺めていた淡海の頬が、興奮で一気に紅潮する。

「わー、わー、センセが食べてくれたー!!」
「騒ぐな、仕事中だ。とにかくこれで義理は果たした」

うまかったでもありがとうでもなく、義理。
まるで愛想のない言葉にも関わらず、淡海はニコニコしたままガッツポーズを決める。

「ハイお仕事頑張っちゃいます!! 今なら向こう一週間ぶん終わらせられそう!!」
「不可能という愚行に走るな。エネルギーは計画的かつ効率的に配分しろ」

浮かれる内心の例えだとしても、今のこの女なら本当にやりかねないところがある。
クッキー1枚で一週間なら4枚で一ヶ月を賄える訳か。なんとも安上がりだ。

「ああ、それと。
繰り返すが、今回の件は全面的に私の失態だった。
職務と無関係とはいえ、部下に対する扱いではなかった。お前が満足しているいないに関係なく、だ。
補填として一食、私から奢ろう」

身も蓋もない言い方だが、すまなかったの一言はどうしても出てこなかった。
これも性分だ。それに淡海なら、とうとう謝らなかったからといって殊更気を悪くする事もあるまい。
そんな事を考えながら、在津は淡海の反応を窺った。
ところが、見た先にあったのは予想外の表情だった。
いつもの態度からしててっきり喜ぶかと思いきや、ぽかんと口を半開きにして放心している。
もしや意味が伝わらなかったのかともう一度言い直そうとした時、淡海の口から甲高い奇声が迸った。

「センセと食事!?」
「なに?」
「センセと食事!?」
「いや一緒に行くとは……それより何故繰り返した」
「あのっ、あのっ、それじゃ来週のお休みの日を希望です!!
新しくオープンするお店があるらしくて。ドレスコードとかはいらないカジュアルな感じの!
あっでもちょっとは並ぶかもしれないからそれが嫌なら今から予約をしてもちろん電話やコースは全部私が」
「……………………」

駄目だ、止まらない。止めようがない。完全に火が着いてしまっている。
ここに至り、やむを得ないと在津は腹を括った。
普段なら即座に切り捨てていただろうが、今回ばかりは全面的に自分に非があるという負い目が彼を渋々妥協させた。
妥協というのは計画性の権化のような在津にとってまったく好む概念ではないものの、
想定外に想定外の重なってしまっている現状、こうするより他あるまい。

「……仕方がない。日時が決定したら教えろ。
ただし急な任務が入った場合には即刻取りやめる。いいな」
「やったあぁー!!」

フロア全域を揺るがすような歓声だった。
どこから声を出しているんだ。そして何度も言うが今は業務中だ。
少しでも悪い事をしたと思ってしまった自分を、在津は内心罵る。

そもそも彼は、部下に対してこのような形で償いをするのは初めてだった。
自他共に扱いにくいと認めている自分にこうもすり寄ってくる人間自体が皆無だったのだから、
部下への接し方以前に、そんな機会が発生しようがなかったのだ。
甘い汁を吸おうとして、というなら何件か心当たりがなくもないが、この女にそういった打算はない。
ただひたすら神経が太く、ただひたすら勤勉で、ただひたすら、一心に慕ってくるだけだ。

だから、なのだろうか。
本来なら拒否すべき最後の一線で、判断が甘くなってしまうのは。

「約束ですよ! 約束!
お店決まったら教えます! すぐ教えます! すかさず教えます!
当日急なお仕事とか絶対入りません! センセも私も終日フリーに決まってます!
なんなら余計な仕事が入らないようにちょっと今からこの辺り一帯のフリークス殲滅してきますぅ!」

おいやめろという在津の制止も虚しく、そのまま空へ舞い上がっていきそうなステップで淡海は駆け出していった。
どこに行く、と叫びたいがたぶん聞こえていない。あれで担当分の仕事はきっちり片付いているのだろうが、
その辺を一周駆け回って戻ってきたら叱責のひとつもしてやらねばなるまい。

「やれやれ……」

つい漏れた苦々しい溜息が、やけに大きく響く。
それにより在津は、先程からフロア内が妙に静まり返っているのに気付いた。
見れば猿田彦だけではない。いつもは無駄口を一切叩かない者までが、固唾を呑んでこちらを見守っている。
一切の誇張なく、部署全員の視線が在津に集中していた。

「何をしている、無駄に手を止めるな! 仕事に戻れ!」

容赦のない怒声に、一同が大慌てでざざっと各デスクに向き直る。
なお誰が呼んだかこのクッキー事変は、幸運なのか不運なのか現場に居合わせなかった所員たちにも口伝えされるなどして、
数日間は第二支部の話題を独占し、在津にとっては頭の痛い時間が続いたのだった。




―――

田鰻さんから賜りました、まさかの在淡です。

淡海めっちゃ可愛い!!在淡最高やん!!と興奮すると共に、この二人を六話で殺した己の咎を思い知る。それもこれもケムダーの奴が悪いんだ。

クッキーを忘れてから一回嘘ついて直後に訂正するとこがめっちゃ在津で、淡海は逐一可愛くて、ほんと……幸せになってほしいな(サイコパスの発言)
これは人気投票トップ3入り不可避。

田鰻さん、最高の在淡をありがとうございました!


在淡もフリハでキャッキャさせたいな。


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