いただきもの | ナノ



「あれっ、慈島さん」

迎えた週末。
規定の時間になっても部屋を出ていこうとしない慈島に、
手早く朝食の片付けを終えて自室に戻ろうとしていた愛は、足を止めた。
お仕事はいいんですか、と尋ねる愛に、何故か申し訳なさそうな顔をして慈島は答える。

「いや、今日は休み……」
「へえ、珍しいですね」

愛は少し目を丸くした。
昨日のうちに言わなかったという事は、今朝になって急に決めたのだろうか。
昼も夜もないような仕事であるとはいえ、彼らも勤め人の身分であるからして、
有給休暇制度を始めとした休日は設けられている。
が、世間一般の休日であろうと、慈島は事務所に出ている事が多かった。
丸一日とは言わなくとも、半日でも、数時間でも、顔だけは出すという事が珍しくない。
根っからの仕事人間といおうか、そんな所にも愛は心配しつつ感心していたのだが、
これも当の慈島自身に言わせれば、休日に没頭できるまともな趣味ひとつ持たないつまらない人間、という評価となる。
これでも愛が来てからは家に残る回数が増えたのだと白状したら、一層呆れられるかもしれない。
まるで、そちらにこそ己の居場所があるのだと、そちらにいるべきなのだと、家という殻から逃げるように。
日常でない場所から生まれた者の、日常からの逃避。
慈島が勝手に自虐の渦に嵌っているとは露知らず、ずっと家にいる時はスーツ着ないんだよねと、
愛は愛でおかしな所に気を取られていた。慈島の朝といえばスーツ、横を通り過ぎる時ほのかに漂ってくる煙草の匂い。
そんな光景も、いまやすっかり目に馴染んでしまっている。
ともあれ、休むと決めてくれたのなら、愛としても願ったり叶ったりである。
貴重な休日、日頃溜まった疲れを心身共に拭い去ってもらわなければ。

「それじゃあ、久々にのんびりできますね。お茶、淹れますからリビングで待っててください」
「あ、うん」

どうせだから普段は使わない湯呑みと、何かお茶菓子があっただろうか。なければ剥いた果物でも添えよう。
くるりと慈島に背を向け、愛は食器棚を漁りにかかる。
慈島はその背後で何かを言いたそうに暫く佇んでいたが、やがて諦めたように、細い息を吐いて姿を消した。





せっかく休みの日に二人揃っているのだから、昼食は遅くなっても凝ったものをと、
家庭料理雑誌を睨みつつ仕込みに移っていた愛は、ふと気配に気付いて振り返った。
台所の入口で、慈島がウロウロしている。

「お昼にはいいもの作りますから、期待しててくださいね!」

にっこり笑って、いかにも所在なさげなその姿に声を掛けると、愛は作業に戻った。
ふんふんと頷きつつ数ページを読み進めて、はたと手が止まる。
どこかおそるおそる振り向いてみれば、非常にバツが悪そうな顔で、まだ慈島はそこにいた。
さすがに様子がおかしいと、愛も眉を寄せる。
つまみ食いにでも来たのかと思うが、まだ何も形にはなっておらず、
第一、慈島はそういう悪ふざけを気軽にする性格ではない。
愛から一口どうですと勧められて初めて手を付け、その後で控え目ながら嬉しそうに微笑むような人間なのだ。
それは、どう悪く受け取ってもつまみ食いという概念からは程遠かった。あえて言うなら味見である。

「あの……どうかしました?」
「……ええと……俺に何か手伝える事ないかな、と思って」

え、と言うや黙ってしまった愛に、まるで言い訳をするように慌てて慈島は続けた。

「ほら、愛ちゃんにはいつも家の中の事、やってもらってるからさ」
「慈島さんはいつも外で働いてるじゃないですか」
「それは……そうなんだけど……」

徐々に、慈島の声が小さくなる。
立っているだけで自然と威圧感を放つような、見栄えのする肉体を持つ男が萎れていく様は、
普通以上に哀れさを催した。なんとはなしに叱られた大型犬を思わせる光景だったが、慈島のこれは自爆に近い。

「ごめん、却って迷惑だったか」

何とも表現し難いものとなった場の空気を打ち消そうとするかのように、慈島は提案を取り下げた。
考えてみれば、休日にこうして愛が家にいてくれて、豪勢なお昼をと準備をしている時点で何かがおかしいのだ。
学生であるから毎週しっかり取れているとはいえ、休みは休み。友達と遊んだり、買い物に行ったりと、
なにぶん経験に乏しい慈島の想像力では限界があるのだが、そういった楽しみをしたいだろう。いや、すべきだ。
そう思っているからこそ黙っていられず申し出てみたものの、愛にしてみればありがた迷惑とはこの事かもしれない。
湯は吹きこぼすわ、パン一枚まともに焼けないわ、目玉焼きは崩壊させるわの身で、
このような聖域に踏み込もうとする考え自体が無謀だったのだ。
愛の負担にならないよう、慈島は目元を精一杯に緩め、この件は済んだ話だと示す。
部屋で、数日前に持ち込んだ書類仕事でもして過ごそうと踵を返しかけた時、愛の声がそれを遮った。

「待ってください、慈島さん」
「……?」
「それじゃあですね――」

明るく言う愛の手にあった料理雑誌は、既に閉じられていた。




「いらない物は、こっちへ送る前に処分したつもりでいたんですけど……。
いざ広げてみると、また結構出てくるんですよね。ついつい後回しにしちゃってて」

何もかも送ったって邪魔で迷惑になるからと言った愛に、慈島の胸が痛んだ。
それは確かに、世話になる家への愛なりの気遣いではあったろうが、
同時に、引っ越しとなれば誰もがやる当たり前の作業だったにも関わらず、である。
スペースの事など気にせず全部送ってくれていいのにと言おうにも、肝心の荷物はもう灰になった後である。
それが余計に自分の気の利かなさを表しているようで、慈島は過去にまで遡って暗くなりかけていた。
君の荷物は全て置ける場所があるからと、そんな簡単な一言を自分は何故思いつかなかったのか。

「でも一応まとめてはあったんですよ、こうやって。
ただ処分するのを何となく放ってただけで」

中型のダンボールに入った荷物が、リビングの中央に置かれている。

「今日はここから、本当にいらないものを選別しまーす。なので、手伝ってください!」

と、愛は笑う。

「……愛ちゃん、本当に捨てていいの?」

置き場所の事なら改めて気にしなくていい。邪魔だというなら、箱詰めのまま自分の部屋に置いておいてもいい。
どうせまともな活用などしていない自室なのだ、その方がずっと有用というものだろう。
これらは愛の家の、思い出が詰まった品ではないのかと慈島は気にする。
しかし愛は、そんな慈島の心配を杞憂だというように、全然、と言って手を振ってみせた。

「普通に暮らしてたら、いらないのに何となく捨てないままの品なんて、いっぱい出てくるんですよ。
その時はいると思ってたのに、後で見たら、なんでこんなの取っておいたんだろうって思うようなやつとか。
思い出とか、そんな大袈裟なのじゃないです」
「そっか……俺、あんまりその辺の感覚が分からないから」

普通というものを知らない男は、そう言って頭を掻いた。
自分の幼少期、云わば今の愛と同じように巣立たされる前の家に残った”思い出”などひとつも無かったが、
自分とは違う愛はそうではないだろうと思い込んでいたのだ。
家族愛に満ちた家からも、要らないものは出る。
自分と愛との共通点を見付けたようで、それが慈島には少しだけ嬉しく、また僅かに悲しかった。

「慈島さんも、適当にいらなそうなの探してってください。
どうせそんなに大した物は入ってません」

適当に。
またしても飛び出した難しい要求に、慈島はいっそ凶相に近い顔付きになった。
いくら不要と判断されたからとはいえ、年頃の女の子の私物を触るというのはどうなのだろう。所詮は赤の他人である男が。
そんな所でばかり必要以上に常識と遠慮を身に付けた男は、いるいらないの判断を自分に下せるのかと悩む前に、
まず手を伸ばすのを躊躇ってしまっている。
慈島の複雑な心境を余所に、早くも一個目の選別対象を見つけ出したらしい愛が、ここで更なる爆弾を落とした。

「もし何か慈島さんが欲しいものあったら、持ってっちゃっていいですよ。
置いておいても捨てるかしまうかだけですし」
「いや……俺が愛ちゃんの、というか女子高生の私物を欲しがってたら色々まずいだろう……」

それはまずい、絶対的に。
不要な品を選り分けるのとは訳が違う。
さすがにこれには愛も己の失態に、というより何も考えていない発言だった事に気付いたらしく、
今までの気楽な調子を一変させて、うろたえたように言った。

「そ、そうですよね……私なに言ってんだろ」
「いや……」

俯く愛に、慈島は首を振る。
どうやら、気まずい思いをさせてしまった。
自分が余計な事を口走らなければ済んでいたのかもしれないが、しかし、あればかりは言わざるを得なかったのだ。
きっと、たぶん。

「ええっと……その、始めますか」
「……そうだね」

慈島はごほんとわざとらしい咳払いをして覚悟を決めると、無心で、無心でと繰り返し己に言い聞かせつつ、
繊細なガラス細工でも扱うかのように、ダンボールから荷物をひとつずつ取り出していった。
同じ手でフリークスを叩き潰すよりも、余程難しい作業だと思った。





仕事の後に待ち受けるのは報酬。
これは古来より不変な、人の社会の倣いである。

「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」

席についた二人は、顔を見合わせて小さく笑った。
偶然にも頑張ったご褒美となった、愛の手による数々の料理が、当初の予定通りテーブルの上に並んでいる。
この分野に関して役立たずを自覚する慈島は、おとなしくリビングに引っ込んだままでいたのだが、
常日頃から諦観の空気を纏うこの男といえど、途切れずに漂ってくるいい匂いの誘惑までを振り切るのは難しく、
意識はだいぶ前から台所へと向かいっぱなしでいた。
愛はちらりと時刻を確認する。もう昼の二時である。どうりで空腹になる訳だ。

「荷物整理のぶん、だいぶ遅れちゃいましたね」
「働いたほうが腹が減るから、ちょうどいい味付けになったよ」

ようやく慈島にも、そんな冗談で返す余裕が生まれてきていた。
が、すぐに己の発言の不備に気付いて訂正する。

「あ、勿論そんな味付けがなくても、愛ちゃんの料理は充分うまいと思ってるから」
「ふふ」

不器用なうえ、まるで必要がないフォローに、愛は可笑しそうに笑った。
失言には当たらなかったらしいと安堵しつつ、並べられた料理に、すごいなと慈島は半ば感動に近い感心を覚えていた。
大皿の周囲にずらりと小皿が並んだ光景は、彼に限らず無条件で人の心を動かす力がある。
愛と比べてずっと多く食べる慈島がいると言っても、昼一食には多すぎるのだが、
残った分は夜にでも明日にでも回せばいい。
残り物には福があると――いや、これは意味が異なるか。
だが、この食卓の上に幸福があるのには間違いなかった。

「これは何?」
「パプリカと鶏肉です」

へえ、と慈島はよく分かっていない顔で首を捻った。
何だか料理に複数の色が付いているだけで感心しそうな雰囲気である。
手に入れようと思えば、食品に限らず嘉賀崎には様々な物が揃っている。単に、慈島が目を向けようとしなかっただけだ。
今、それらが愛によって、次々とこの家に運び込まれている。
破られていく停滞を、憂う気持ちは慈島にはない。
自分にこんな日が来るとは思ってもいなかったとしても、この現実に対して抱く感情は、尊さだけだ。
むしろ誰かが破ってくれるのを待っていたのかもしれないとまで思い、それは考え過ぎかと苦笑する。
珍しい休みの日には、珍しい現象ばかりが起こる。
だが、悪い気分ではない。

食事は和やかに始まり、進んでいった。
食べながら、不意に慈島が呼び掛ける。

「愛ちゃん」
「はい?」

答えようとして、愛は口の中のものに気付く。
やや赤くなり、口元を手で隠して、ちょっと待ってというように目で訴える。
そんな愛の様子を微笑ましげに眺めながら、慈島は言った。

「ありがとう、今日、とても楽しかったよ」

明らかな感謝に、小松菜のおひたしを飲み込んだまま、愛はきょとんとした。

「……片付け、手伝ってもらっただけですけど」
「それでも、俺は楽しかった」

慈島は言い切る。隠したくない本心だったからこそ、こうも歯切れ良く告げられた。
戸惑ったような愛の顔が、一瞬遅れて華やかに綻ぶ。
まだまだ残る子供っぽさに照れくささが混ざった、この年頃でなければ浮かべられない瑞々しい笑顔。
それを引き出したのが自分のような男だという事が、慈島には信じられない。
しかし、それもまたここにある現実だ。
なんとなく愛の頭を撫でたくなったが、この位置からでは袖を汚してしまう。
それよりは、目の前のご馳走に集中する事だ。
今ばかりは、この手が血に塗れてきた事も、自分の眼がその血を映したようである事も、完全に忘れよう。
明けない戦士に訪れた、一時の休息。



―――

いつも本当にお世話になっております、話部屋の田鰻さんから賜りました!
慈愛です!!まさかの慈愛です!!!めっちゃ慈愛です!!!(歓喜の混乱)

一挙一動、言動や思考がすごい慈島な慈島に、はりきったり照れたり可愛さ爆発の愛さんの、休日。萌えすぎて萌えという言葉しか見つかりません。人は興奮するとボギャ貧になる。
台所の前で立ち往生したり、女子高生の私物を触るのにおっかなびっくりしたり、慈島(34)が可愛過ぎてもう……。
本編で化け物殴り食ってる奴なのに、ダメなオッサンという慈島らしさがシャイニング。
愛さんが慈島の服装気にしたり、心配したり、ご飯作ったりしてる良妻っぷりもまた最高です。
この二人もう結婚していい(五体投置)

田鰻さん、素敵過ぎる慈愛を本当にありがとうございました!!!!!


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