いただきもの | ナノ




「おはようございます」

まだ寝ている男にそう告げたのは、さっさと出て来いという宣告に加えて、多分に嫌味を含んでいた。
嫌味も使う相手を間違えれば命取りになる。冗談事でなく、この町においてはそのままの意味で。
普通なら腹を立てるであろう暴言を受け流したかと思えば、一見どうでもいい戯言ひとつを切っ掛けに殺しにくる奴もいる。
それらの可能性を検討する以前に、あそこの相手には届いてもいないだろうが、この声は。
部屋には、むっと染み付いた煙草の匂いがした。
その匂いがふっと薄れる瞬間を突いて、何種類かの酒の匂いが鼻腔に刺さる。
朝から好んで嗅ぎたい匂いではない。ましてやそれに埋もれて眠っている奴など、雛鳴子の想像の範疇外にいた。

応じる声は無い。

寝たふりでない証拠として、部屋は暗い。
雛鳴子が持つ極上のプラチナブロンドは、出入り口から室内を照らすようだ。
もっとも照らされて浮かび上がる物が、青少年の前に出すのが憚られるような品ばかりとあっては、
折角の輝きも色褪せて感じられる。
深層の令嬢で通じるであろう、髪に負けず劣らず美しい蒼色の双眸が、それら猥雑な品々を無感動に通り過ぎて行き、
やがて再奥にあるベッドへ行き着く。声に反応して蠢く気配はあったものの、中身が顔を覗かせる様子は一向にない。
いつまで腰に手を当てて根競べといくのも馬鹿らしく、雛鳴子は部屋中央を突っ切って奥へと向かった。
乱雑ではある。しかし確保すべき道は確保できている。それがまた不可解であり、理解し難い。

「鴉さん。…起きてください、朝ですよ。鴉さん」

続けざまに呼びかければ、黒く煤けたようなシーツから、呻き声が響いてくる。
誰だ、鴉は他のどの鳥よりも早く目覚め、朝を告げる鳥だと言ったのは。
溜息を漏らすと、雛鳴子はシーツの片端を握って、一息に捲る。
抵抗はなかった。
やや遅れて立ち上ってくる微かな汗の匂いに、雛鳴子は嗅ぎたくもないそれを嗅ぎながら告げる。

「朝食の準備ができてます」
「…んだよ」
「朝ごはんです、朝ごはん」
「わーってるって…」
「食いっぱぐれて、後から文句言ったって聞きませんからね」
「はいはいはい…うちのお母さんは厳しいね」
「誰がお母さんですか、誰が」

大欠伸をしながら、のっそりと鴉は上半身をベッドに起こし、横目を雛鳴子へと向けた。
元から長身なので、雛鳴子だとこの体勢でも見下ろされているようだった。
瞳の赤とは別に、鴉の目は幾らか血走っている。部屋に漂う一段強い酒の匂いからして、
昨晩はここへ引っ込んだ後に、普段より少々羽目を外したらしい。
何故、こんなプライベートについてまで推測できるようにならなければいけないのかと思うと、
雛鳴子の気分は立っているだけで暗くなってくる。何をしていた所で、鴉と関わって明るい気分になる事など無いのだが。
あって堪るか、という思いである。

「じゃ、伝えましたからね」
「朝っから忙しいな。
ゆっくりしてけよ。ほら、ここ空いてっぞ、隣」
「手近に一升瓶が無くて良かったですよ、今。
…あまり、この部屋には長居したくないんです。
匂いから佇まいから、この部屋は貴方そのものを思わせるからですよ」

必要と思える場所へ、こうしてスムーズに辿り着ける事からも分かる。
煙草に酒に不健全な雑誌。ぱっと見では最悪なくせに、決定的な所で汚れ切っていない。
いや、間違いなく汚れ切ってはいるのだが、汚泥を食らう豚にまで落ち切ってはいない。
丁度、この部屋の有様と、鴉とは同じだ。
なんの気なしに口にした言葉ではあったが、それは思いがけず正鵠を射ていた。
獣は、自らの縄張りの周囲を決して汚さないという。
この部屋は金成屋の中でも、とりわけ彼という存在に近い、鴉の巣と呼べる場所なのだと。
忌々しい相手と最も近しい空間を共有して、爽快な心地でいられる訳がない。
告げるだけ告げ、雛鳴子が踵を返そうとしたまさにそのタイミングで、伸びた手にエプロンを掴まれる。
手を掴まれるより感覚的に嫌悪感を覚えるそれに、雛鳴子は端正な顔を顰めた。

「俺に包まれてんのは嫌か? 雛鳴子」
「くだらない事を言えるって事は目が覚めたって事ですね。
あとは顔を洗って、むさくるしく伸びた無精髭を剃ってから食卓についてください」
「そうかァ、雛鳴子は俺の中で熱を感じるのは嫌か」
「そういう趣味があるんなら行くべき場所は幾らでも見つかるでしょうから、
私を巻き込まずにとっとと突入してください。私としては歓迎します」

それじゃ逆に突入される側だろと鴉が唇を歪めて笑い、雛鳴子は余計な話題を振った事を心から悔やんだ。
鴉の手は離れない。
エプロンの端を指先で握り込んだ姿は幼児のようだが、目の厭らしさはそんな可愛げのある頼りない存在とは程遠かった。
むしろあどけない仕草との対比で、尚更その粘着性が引き立っている。
雛鳴子の格好は、ポニーテールに男物の簡素な服、フリル付きの白いエプロンといういつもの物である。
見苦しくない程度にはしているものの、あえてそれを超えて身なりは整えていない。
髪型ひとつにしろ、変える事が鴉の興味を引くのだとしたら、年頃らしい洒落っ気を発揮するのは願い下げであった。
よって飽き飽きするほど見てきている筈の毎朝の姿を、鴉はエプロンを掴んだまま、興味深げに上から下まで眺めていった。
徐々にその眼差しがしっかりしてくる事に、雛鳴子の背に悪寒が走る。
やられる側にとって、ここまで不愉快な覚醒の仕方が世にあるものか。

「朝飯よりかは、こっちを食う方がいいんだが」
「朝から色ボケてんじゃねーよ黙れ」

慣れている身とはいえ、限度はある。
雛鳴子がエプロンの下から取り出した物に、鴉の目が僅かに動いた。
だが驚きはしていない。軽い咳をするかのように、ハッとひとつ笑っただけだ。
都の人間ならば腰を抜かすくらいは期待できただろう。理想的な形をした手が握るのは、彼女の武器のひとつだった。

「建物ごと焼く気かよ?
まァどーりで不自然に膨らんでると思った。
上はそこまでじゃなかったし、下はまだ仕込んだ覚えがねえからな」
「本当に点火しますよ。
…そのつもりはありません。そこまで馬鹿じゃありませんし。
ただ――」

ただ?と、鴉が首を傾げる。
相変わらず子供のような、まるで風貌に似合っていない仕草は、つまり成り行きを楽しむ事に決めたようだ。

「どんなに理性的な人間でもヤケクソになる時はあり、
そうなった時に何をしでかすか分からないって事もご存知ですよね? 鴉さんなら」

それが真理だ。
理性と教育で人が完璧にコントロールできるのなら、とうに世界から犯罪という概念は消失している。
何が来るかと一種の期待を込めて雛鳴子の口元を見据えていた鴉の目が、途端に冷めた。
オーソドックスすぎる返答に、先への興味を失くしたように、エプロンを掴んでいた手も離れていく。
欠伸を噛み殺しながら、鴉が雑に後頭部を掻く。露骨な失望を、雛鳴子は顔色を変える事もなく眺めていた。

「ご存知だし、目の前でそんなんなった奴も腐る程見てきたが、雑魚ばっかだったな」
「鴉さんは、もっと大きな物を見てます」
「あん?」
「この町そのものです」

本来、最も理性的に合理的に己が国を、民を守るべき連中が、
立場に囚われ、欲望に囚われ、最早後戻りの叶わぬ中タガを外して暴走した結果がこの汚れきった世界であり、
そこに暮らさざるを得なくなった無数の住民達なのだ。ならば100年前の傷跡を受け継ぐゴミ町に住まう者達は、
町として、地域として、国として、無慈悲な世界として、人が理性を失くした永続する”瞬間”を、生まれてから死ぬまで目にし続けている。
それが届いた時、鴉はカラカラと笑った。
この男の標準である粘り着いた所は珍しく全く無いのに、その明るさが不愉快になる笑いだった。
どうやらどう転んでも、自分とこの男とは相性が良くないように出来ているらしい。

「じゃ、早く着替えてきてください」

今度こそベッドに背を向け、細い肩を僅かに怒らせて出口へ向かう。
鴉の手は追ってこなかった。ただ笑い声だけが続いている。



少し遅れてやって来た鴉を待ち、雛鳴子はポットから急須にお湯を注いだ。
朝限定の幾分ぬるりとした鴉の動作は、鳥というよりは穴蔵から這い出す蛇じみている。
そんな眺めを見知った所で何の得にもならない。そして、どちらにせよ不吉だ。
朝食の席は滞りなく始まり、滞りなく進んだ。
白米、味噌汁、卵焼き、これだけ和食から些か離れている、昨晩から作り置きのロールキャベツ。
残り物の有効活用、ともいう。雛鳴子の作る食事に、鴉が文句を言う事はまず無い。むしろ喜ぶ事の方が多い。
だというのに、それが一向に良い思い出へ昇華されていかないのはどういう事なのだろう。
機敏さに欠ける箸運びもまた朝の風物詩として、しかしいつにも増して寡黙なのが、気になるといえば気になる。
部屋を後にする時に最後まで追ってきた、あの笑い声がいまだ耳に残っているだけに。
さっき脅した件が効いたのかな、と、思うほど雛鳴子は迂闊ではなく、鴉に対する信用もない。
絶対に、何かを企んでいる。おとなしい態度が穏健に繋がるような性格を、鴉はしていないのだ。
それどころか、神妙にしている時の方が危険かもしれない。
粗暴さと下品さが遠慮なく表に出ている時は、ある意味では最低限のラインが保たれている時だからである。

「いただきますぐらい言いなさい」
「いただきます」

遅ればせながらそう言ってみれば、省略するでもなく実に素直に応じてくる、両手まで合わせて。
ますます雛鳴子の警戒心が募る。確実に嫌がらせか、さもなければ、それよりも更に悪質な事が待っている。
向こうも自分の態度が、こちらを感心などより激しく警戒させるのは理解しているだろうに、
その上でああ振る舞ってくるというのは、嫌がる顔を見て愉しんでいるか、
さもなければ、企みを看過された所で、どのみち逃げられないと理解しているか。
実際、逃げる権利はないのだ。今の所雇われの身であると同時に、買われた商品である現実も認めなければならない。

「そう機嫌悪くすんな」
「してません」
「うまいぜ?」
「…どうもありがとうございます」

限りなく棒読みに近いぶっきらぼうな声であったが、
一日の始まるたる朝食をあまりに暗い空気で過ごすのもどうかと思い、最後のは少しだけ反省した。
何より、鴉などよりも自分の精神の為に良くない。
まあ一日の始まり云々を問うのなら、とうに寝起きの一件で台無しにされているのだが。
箸先で、ロールキャベツを一口大にほぐす。一晩経って味が染みているのだから、手抜きの埋め合わせになるだろう。
寝惚けた食べ方の割に、鴉はさっさと食事を終えてしまい、同じ席で新聞を読み始めた。
雛鳴子は時間を確かめつつ、後片付けに移る。
店が始まるのは9時。それまでに支度を整え、客を迎え入れる準備を整えておかなければ。
慣れた作業だ、どうという事もない。

「手伝おうかぁ?」

ガシャン、と乱暴に皿をまとめて置いた。
あまり粗雑に扱うと割れる。皿一枚の負債といえど自分に跳ね返ってくるのだから、
迂闊な行為は慎むのが賢いのだが、反射的に沸く怒りというのは、時として身に付いた常識をも忘れさせる。
衝動が理性を上回る、と、つい先刻、自ら鴉に告げたように。
洗う手を止めないまま雛鳴子は振り返り、広げた新聞の向こうで、さぞやニヤけているのであろう鴉を睨む。
視線に力が宿るのであれば、虫眼鏡で照らされた黒い紙よろしく、直ちにあの新聞は燃え上がるに違いなかった。
叩き付けるように、告げる。

「なんなんですかさっきから気持ち悪い。根に持ってるなら謝――謝る事でもないのに謝るのは嫌です」
「どっちだよ」
「調子が狂うからやめてください」
「ほー、つまり雛鳴子ちゃんは普段通りの俺がいいと」

くそったれ。
胸中で毒づきながら、視線を洗い場に戻す。
テレビからは質の悪い、どちらかといえば雑音に近いような音声が流れっ放しになっている。
雛鳴子は、そちらに意識を集中した。聞こえてくる内容を脳内で追っていけば、多少は気分も紛らわせる。
この町の人間は、誰もが狂っている。多かれ少なかれ、狂気の種類の差異はあれ、この前提が外れる事だけはない。
その中では、鴉の狂気は分かり易い方だと思う。
もっとも、そう思っている事もいまだ自分の勘違いなのかもしれず、
そんな風に思えてしまう事が、この不愉快な外道に対して自分の理解が深まった証のようで、また腹立たしくなってくる。
洗い終えた一枚を、清潔な白い布で拭く。きゅ、と、引っ掛かる手応えと音がした。

「本当、人を不快にさせる才能だけは一流なんですから」
「それだけじゃねえだろ」
「ええ、人の弱味を見つけ出して効率的に抉る才能も一流です」
「それだけでもねえよな」

鴉は嗤う。
雛鳴子は歯噛みする。
知っている、この男が持ち合わせた才能も実力も、それだけではない事を。
例えば人を不快にさせる才能にしろ、弱味を見つけ出す才能にしろ、
目の前の相手が曝け出している顔、隠し通そうとしている顔、その双方を言動の端々から把握するだけの卓越した観察力と、
観察結果を規程の事例へと当て嵌める知識、直感、それらを補足する個人情報収集力なくしては不可能だ。
そして、これらを雛鳴子が正当に評価できない程馬鹿ではないという事も、鴉は知っている。
人の弱点と性質とを見抜き、最も効果的な攻撃法と、使われる事のない救済法を編み出す。
良識ある人間としては到底褒められたものではない、だが生存し、這い上がる為には何よりも欲される才能。
あの笑いは自惚れではない。
だからこそ嫌だ。
日常でも、仕事でも、鴉と対峙する度、底冷えする赤の眼に、自分の隅々までを探られているようで。
そしてその観察が正確であればあっただけ、爪先から毛の一筋まで陵辱されているような感覚に陥る。

雛鳴子が最後の皿を置いた時、鴉も読み終えた新聞をばさりと閉じた。
飛び立つ羽音のようだと、余計な事を考える。新しい一日が始まり、終着点への距離がまた一歩近くなった。



その鳥は、狡猾にして獰猛。

不幸を運ぶ不吉の象徴、死の使い。ゴミ山を飛び交い、死肉を啄む汚れた鳥。


関わってはならない、眼を合わせてはならない。

赤い眼に入ったが最後、逃れることは出来はしない。


ゴミ町に生きるその男は、忌み嫌われる鳥と同じ名前をしていた。



「何もねえ町だが何でもある。
さて、この矛盾をひっくり返す鍵は何だ?」
「お金です」
「正解」

厚いブーツの底が、アクセルを踏む。
指示されるまま目的地へ向かいながら、雛鳴子は釈然としない思いを抱えていた。
唐突に、出かけるぞと言い出した鴉にである。
およそ最悪の性格破綻者と呼べる鴉であるが、仕事に対しては良い意味でも悪い意味でも非常に誠実であり、
真面目に取り組む事を雛鳴子は知っている。半ば放り投げるような真似をするとは信じ難い。
その事を指摘する雛鳴子に、午前の予定は少ないからなと鴉は言った。
それは、その通りである。自分の稼ぎにも直結してくるその日の仕事の件数は、雛鳴子も当たり前に心得ている。
しかしそれにしても、無意味に外出するのを好むタイプではないとも、また思っていたのに。

運転しながら、雛鳴子はちらと背後を振り返る。
助手席にいればいたで始終ちょっかいをかけられそうで嫌だが、こうして後ろにいられればいられたで落ち着かない。
そろそろ目的くらいは話してくれてもいいんじゃないだろうかと、一瞬のみ交差した視線に思惑を込める。

「気になるか?」
「そりゃ気になりますよ」
「なァに、いつも頑張ってるお前に、いいもん買ってやろうと思ってな」
「なんです」
「新しいエプロン。前が丸く開いてるやつ」

雛鳴子は、一気に真横へハンドルを切った。
急制動の重圧がかかって姿勢を崩した鴉が、うお、と声をあげる。

「待て待て待て。
そんな乱暴に扱うんじゃねえよ」
「言いたい事があるなら店に戻ってから聞きますから」
「とにかく車、前向かせろって。
つか何が不満なんだ。そっちの方が手っ取り早くていいだろうが」
「Uターンするついでに、後ろ半分だけスクラップ化するように衝突させましょうか」

尚も鴉に止められ、不承不承、雛鳴子は進路を元に戻した。
無視を貫き、背後から身を乗り出してハンドルを握られでもしたら堪ったものではない。

「…それで、本当の目的は何なんです」
「なんだ、冗談だって分かってたのか」
「当たり前です」
「まあな、俺はそういう直接的で下品なのより、清楚さの中に色気が光るのが好きだ。
かといって嫌いって訳でもないから、やりたくなったら遠慮しないでそっち方向から攻めてきていいぜ」
「そういう事じゃなくて。…はあ、もういいですよ、聞きません。聞いた私が間違ってました。
次はどっちへ曲がればいいんですか? もう言われるままに何も考えずハンドル切りますから」
「拗ねんなって…もうじき着くさ」

ほら、あそこだ。そう言って鴉が顎をしゃくった。
慌ててスピードを緩め、脇に付ける。
荒廃した外観は、町のどの建物にも概ね共通している。ここには更に、地下に続いている階段が見えた。
それとて珍しくはないものの、この建物は数多ある無人の廃墟とは違った何かを纏っている。
言うなれば、人の手が入っている気配。
それを察知する感覚からやや遅れて、階段脇に申し訳程度に立てかけられた、錆だらけの看板が目に入った。

「本当に買い物だったんですね」
「おう、ここで待ってろ。すぐ戻るから」

そう言うと、鴉はまるで臆せず、その怪しい建物に入っていった。
階段を降りていく背中を、雛鳴子はハンドルに凭れ掛かりながらぼんやり見送る。
往来で車内に一人になるのは、賢明ではない。
金成屋の車と知っている者なら決して襲ってこないであろうから、多少の保険にはなるとしても、
絶対の保証など子供ですら鼻で笑い飛ばすような、儚い存在でしかない町なのである。
別にあのまま戻ってこなくてもいいのだけれど、と、つい思考はそちらへ逸れる。
ただそうなったとしても、自分が無条件に解放される未来の展望がどうしても想像できず、
そして鴉の安否を確かめずに済ませる事もできそうにない憂鬱に、雛鳴子の顔は次第に曇っていく。
はあ、と悩ましげな吐息がドアガラスに掛かる。その向こうで、見慣れた長身が視界に映った。
言った通り、すぐに戻ってきた。それを当たり前と思う心と、刹那といえどよぎった安堵が忌々しい。

丸めた指が、規則正しくドアガラスをノックする。
開けろ、という事らしい。
雛鳴子はドアを開け、下から鴉の顔を覗き込んだ。

「どうしたんです。やけに早かったけど、トラブルでもあったんですか?」
「買い物するだけでトラブル起こすかよ」
「わかりませんよ、鴉さんですから」
「どこのクレーマーだよ俺は。
ま、とにかく出てこい」

言われるままに、雛鳴子は車を降りた。
見慣れない場所だが、鴉がいるからには滅多な事にはなりようがないだろう。

「私も店に行くんですか?」
「そうじゃねーよ。こういうのは、薄暗い車内より明るい外の方がいいからな」

思わず見上げた空は、曇っていた。
視線を空から前へ戻した時、そこには鴉の掌と、上に乗った髪留めがある。
彼の目のような、真っ赤なルビー。

「ほれ、俺からのプレゼント」
「…………」
「んー、感動で声も出ねえか」
「…何を企んでるんですか、今度は。いりませんよ、お返しします」

可憐な唇から出てきたのは、喜びではなく冷えた拒絶の声であった。
嬉しいとか、嬉しくないの問題ではない。それを問う段階にない。
女を匂わせる品を、鴉の管理下にある間は決して身に付けるまい、惑わされるまいと誓っているのだ。
それが、よりによって髪留め。
見るからに上質な真紅のルビーは、プラチナブロンドにさぞや良く映えるだろう。だからこそ危険過ぎる。
第一、プレゼントと称したこれの代金が、どこで自分に加算されているか分かったものではない。
親切な申し出には裏がある。裏しか無い。まだまだ認識に甘さが残るとはいえ、
悲しすぎる現実を、雛鳴子は嫌というほど理解させられていた。
そこに裏を疑わず、裏を含ませずにいた者から、順番に貪られて死んでいくような町なのだから、ここは。

「さすがの俺でも、女への贈りもんに悪意込めるほど無粋じゃねえ」
「経験あるんですか?」
「さあて、どうかね?」

すっとぼける鴉。
その態度がまた癪に障る。

「とにかく受け取れません」
「いいから持っとけよ、それなりの品だし、デザインだって悪くねーだろ」

本当に悪くない。良い。とても良い。だから、それが困ると言っているのに。
仮にこれが人間なら誰にでも起こり得る気紛れの優しさなのだとしても、有り難がる気には到底なれない。
この男の、「普段」が生む罪過。
贈り物という前提に無理があるのだから。
この男のする事には、必ず己の利になるだけの理由がある。雛鳴子が鴉を信じるとしたら、その一点のみであった。
無料で高価な――少なくとも一銭でも惜しい雛鳴子からしたら目の玉が飛び出るような金額の装飾品を、
ぽんと気前良く振る舞うような男ではない。
自分はあくまでも商品であり奴隷なのだから、投資分を回収し終えるまで無駄金を使うような事はしない。
頑なに拒む雛鳴子と、暫しあげるいらないの押し問答を続けた末、遂に鴉は面倒そうに言った。

「いいか。あえて損するような真似をして、俺が平然としてる事情を説明するなら、こいつは先払いだからだ」
「…先払い?」
「まずお前が予定通りに返済叶わず、晴れて俺の性奴隷となった場合だ」
「晴れてません、まったくもって一切」
「この場合お前は名実共に、まァ今でもそうだが、どんな行動においても俺の所有物となる。
感情や好みひとつの自由も許されねえ。となればそん時は、俺好みに着飾らせたっていいだろ。
ん?いいだろってのも変だな。まあいいか」

世間話でもするように最低の話をする男を、雛鳴子は鬼の形相で睨みつけた。
だが、鴉の話にはまだ続きがある。

「で、次にお前が万に一つの可能性で、借金を返済しきってみせた場合だ。
その場合、そいつは脱・奴隷生活の、俺からのお祝いだ」
「は――!?」
「お祝いだ、お祝い。なんだその顔。
俺だって一生に一度の事となりゃ、奮発してそんな気になる事だってあるぜ。
おめでとうございます雛鳴子様、あなたの借金は完済されました」
「ふ、ふざけるのはやめてください!」
「どっちに転んでも、そいつはいずれ使う機会が訪れる。
だったら先に買っとくのが賢いってもんだ。欲しいと思った時に売れちまってましたじゃ、
買い戻す手間も金も余計にかかるからな」

それはおかしい、と、雛鳴子は言いたかった。
別にそれならそれで、その時に改めて同等の違う物を探せばいいだけの話で、今、ここで、これでなくても良かった筈だ。
そんな誰にでも分かるような疑問が、何故か口に出せない。
ほれ、と。
次に差し出されたそれを、雛鳴子は拒否できなかった。
半ば掌を開かされ押し付けられるような形で、赤い髪留めを受け取る。
目立った重さなど全く感じない装飾品を、仕事時に携帯する爆弾などより余程おっかなびっくり雛鳴子は見つめた。

「付ければ?」

これがいつもの地の底から這い上がるような粘った声であれば、意地でも付けるものかと思っていたが、
勧めてくる声音は、案外普通だった。
普通という事が、この男にはとても貴重だと知っている。
こちらをじっと見る目に、暗い光が無いのも。
こんな当たり前の顔ができるのかと、改めて雛鳴子は驚く。
わかっている、こうやって自分に不利益となる未来の可能性さえ示してみせる事が、
決して鴉の度量の広さによるものなどではなく、飴と鞭における変則的な飴のひとつでしかないというのは。
だったらここで、みすみす要求に従う理由もない。
わかっていたい、のだが。

「…帰るまでですよ。そこから先は、何されるか分かりませんから」

精一杯の憎まれ口を叩き、雛鳴子は回収した札束より余程慎重に、髪留めを頭に付けた。
これで精一杯というのが、また自分の限界を思い知ったようで悔しい。
慣れていないせいか、弱く髪の引き攣れるような感覚が、悔しくも不思議と嬉しい。
それでいいよと鴉は言った。
存外、静かな声だった。



帰路。車の中。
相変わらず運転は雛鳴子であり、鴉は後部座席に収まっている。
行きと帰りで違っている事があるとすれば、銀色の髪に、鮮やかなもうひとつの色が加わっている事だった。
金成屋に帰るまでの、短い時間だけの特別。
それを共有しているのがこの男というのが、いかにも不可思議で納得いかない事のように思えた。

「たまたま思いついた、気紛れにしたって…」

ミラーを気にしながら、幾分明快さに欠ける声で雛鳴子が呟く。
そういえば、肝心な事を聞いていなかった。それだけ、この事態に動揺していたという事でもあるが。

「どうして今日になって、こんな事をする気になったんですか」
「んー?」

付けろと言っておきながら飽きたのか、首を反らして寝ていた鴉が、片手で顔に掛かった雑誌を持ち上げた。
本の下から、顔が僅かに覗く。
特徴的な赤の虹彩は、暗い影の下で茶色味を帯び、幾らか獰猛さが薄れているようだった。

「惚れ直したからな」

雛鳴子はハンドル操作を誤りそうになった。
有って無いような歩道へ乗り上げかけた状態から何とか持ち直してから、ギッと背後を睨めば、
そこには、いつもの不快で軽薄で、汚泥のように粘った笑みに戻った鴉がいた。
雛鳴子の胸中に、後悔と怒りばかりが押し寄せてくる。

「どうしたよ、そんなに乙女らしくドギマギして。
なんなら何遍でも囁いてやろうか? 耳元で」
「ドギマギしてるんじゃありません。いま私はほんの少し前のごく僅かとはいえ情にほだされかけた自分を、
鉄パイプで殴り倒しに戻りたいぐらい悔やんでいるだけです」

吐き捨てるように告げ、雛鳴子はアクセルを踏み込んだ。
髪留め、帰ったら絶対に取ろう。即座に取ろう。これ見よがしに、引き千切るように。
多少髪が傷もうと構わない。それよりも耐え難い事が今、現在進行形で発生している。
それでも自分は、これを捨てたり売り払う事までは決して出来ないのだろうと思うと、
本当につくづくこの男は人の本質を見抜くのに長けている。
何が惚れ直しただ、このド変態の最低野郎。
容赦のない悪罵に今ひとつ力が欠けているのは、一瞬とはいえ跳ねた心臓を気取られただろうという恐れからかもしれない。
無人の道路を、不機嫌な銀の少女と上機嫌な黒衣の男を乗せた車は、まっすぐに進んでいった。




その鳥は、狡猾にして獰猛。

不幸を運ぶ不吉の象徴、死の使い。ゴミ山を飛び交い、死肉を啄む汚れた鳥。


されどそれと同じくして、広く知られている事がある。
その鳥は、自らが目をつけ、集めた宝物への執着と扱いだけは念入りなのだ。


ゴミ町に生きるその男は、忌み嫌われる鳥と同じ名前をしていた。


―――

うぉおおおおおおおおおおおおおお!!

私が創作小説を始めたきっかけでもあり、人外萌えの始祖でもある田鰻さんから!あの田鰻さんから鴉雛SSを賜りました!!
もはや叫ぶことしか出来ません。このすばらしさ、どう言葉を尽くせばいいのか!

鴉のいやらしさとか性格の悪さの描写とか、雛鳴子の複雑な乙女心とかツンケンっぷりとか!そして二人の絡み方がね!本編に忠実かつちょい増しでイチャってるとこが!もう!!もう!!!

自分で自家発電してたものが人様に、しかも憧れの田鰻さんの文で拝めるとか、天から降り注ぐ光です。憧れを今掴んだVIPですよ。ちょっとゴメン、何言ってるのか分からないねハリ。

いやぁ、本当たまりませんねこの鴉雛。どうしてだろう、なんか本編だとアホ丸出しの鴉がやたら色っぽく思えるし、雛鳴子の可愛さに至っては止まることを知らないというこの田鰻さんクオリティ。
エプロンのとことかまさにザ・鴉で、帰るとこまでってとこもすごい雛鳴子で、こんなに的確に描写していただけて本当にありがとうございます!
ただただ感謝しか浮かびません。

田鰻さん、本当に、本当にありがとうございました!



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