モノツキ | ナノ
もし この世のあらゆる不浄をも、愛することが出来たのなら。
頭の中で回り続ける、濁流のような思いをなかったことに出来ただろうか。静かに息をすることを選ぶ自身を、認めることが出来ただろうか。
――俺は、それが出来なかったが為に
「信じられない…本当に、貴方が一人で?」
「…父親に憧れ検事を目指していましたので…犯人に辿り着いてしまったんでしょう。本当は、こんなもの持ち込みたくなかったんですが……これで、この子の能力はご理解していただけたと思います」
「…ご両親の復讐とはいえ、高校生が麻薬組織を壊滅だなんて…こちらでは、十分過ぎる逸材です」
「お願いします…この子を……すすぎあらいを、ここで働かせてやってください」
俺はあの洗濯を悔やんではいない。けれど、戻れずに汚れていく、この手の重みは知りたくなかったと思うんだ。
「…ところで、一つ聞いていいですか?」
「………何?」
「貴方は、何故洗濯機のモノツキに…?」
「…洗濯したから」
「……洗濯、とは」
「そのまんま、洗濯。…まぁ、洗濯機に突っ込んだのが、洗ったあとの奴だったのが悪かったのかな。神様に怒られたから、外に干したけど…もう遅かった」
「…成る程、分かりました」
なぁ、神様。俺は今でも、間違った選択をしたとは思わないよ。
鬱陶しい季節が来た。窓の向こうの景色は強過ぎる日光で白く染まり、そんな外から逃げて来た影が密集したかのように、室内は暗い。
カーテンの微妙な隙間から差し込む太陽光が目障りで、のそのそ這うようにして窓辺に寄ると、蝉の喚き声が耳を打った。
この糞暑い帝都の中、求愛活動に勤しんでご苦労なことだと、勢いよくカーテンを閉じ。そこでがっくりと、力無く倒れ込むと、低く唸るクーラーの風が首筋を冷やしてきた。
人工的な冷気は快適な反面、体に悪い。そう都合よく何事も解決してはくれないのだと、男はまた、芋虫のように布団へと戻る。
枕元に転がっていた携帯をそれとなく見ると、時刻は午後一時。
いつも日が傾くまで惰眠を貪っている男にしては早起きと言える時間だが、それなら二度寝すればいいと、男は布団を綺麗に被り直した。
が、時間の後ろに表記されていた日付を見た瞬間。何よりも惰性を愛するこの男は、恐ろしい程すんなりと体を起こした。
「……そうか、もうこんな」
ごうん、と空の洗濯機が音を立てながら、しっかりと閉じたつもりだったカーテンの隙間を見詰めた。
嫌味過ぎる程に透き通った空の青が、半開きの眼を焼いてくるようだ。
すすぎあらいは寝癖の酷い髪をぼりぼりと掻きながら、久し振りに汗でも流そうと風呂へと向かった。
「……ほーぉ。蜃気楼ってのは案外身近で起こるもんなんだな」
「………失礼だな」
わざとらしくごしごしと赤いライトを擦るシグナルに対し、すすぎあらいは明らかに不機嫌そうな声で答えた。
シャワーを浴びて、いつものゼリー飲料で腹を満たし、二階オフィスに脚を運んだのは午後二時過ぎ。
普段ならあと一、二時間はしないと降りてこない彼が、あろうことか風呂に入ってから来たという事実が信じられないと、シグナルは大きく紫煙を吐き出した。
その向かいでは、髑髏路までもが夢を見ているのではないかと自分の顔を抓っていた。
なんだこの扱い、とすすぎあらいは不服げに席についたが、これは全て彼の日頃の行いのせいである。
何せ、こういう時には大抵フォローを入れてくるだろうヨリコですら、苦笑いを向けてきている始末なのだから。
「…そっか。あんた今、夏休みだっけ」
「はいっ!先日から夏休み特別シフトで働かせてもらってるんです」
ふぅん、と興味なさそうな生返事を返し、すすぎあらいは外の太陽に負けない明るさのヨリコから顔を逸らした。
季節の流れとは早いもので、彼女が昼行灯と三階で一騒動起こしていたのも、もう一ヶ月以上前のこと。
あれからすっかりいつもの調子に戻ったヨリコは、こうして長期休暇に入ってもツキカゲに足繁く通い、せっせとバイトに励んでいる。
すすぎあらいが来るまでに、彼の机周りは清掃を終えたらしい。近頃は落ち着いてきた――それでもやはり一日で溜まるにはおかしい量のゴミは、全て袋に詰められている。
彼が入室した時は床をワイパーで掃除していたところで、ヨリコはすっかり止まっていた作業の手を再開し始めた、シグナル達もおざなりになっていた手を動かして、書類へと顔を戻し出した。
こうなれば、もうすっかりいつものオフィスだ。すすぎあらいも至福の二度寝を捨てて早起きしたのだからと、ここ最近溜まりに溜まっていた報告書や請求書を処理することにした。
彼が普段、言われるまで殆どやらない筈の作業に手を伸ばしたことで、せっかく仕事に集中し始めていた一同はまたもや硬直してしまったのだが、すすぎあらいは気にせずボールペンを走らせる。
「……どうしたよ、お前」
シグナルが煙草を灰皿に捻じ込むと、すすぎあらいは何が、と返そうとして、やめた。
勘の良い彼のことなので、すぐに察しがついたのだろう。そしてそれを敢えて尋ねるまでもないと判断したすすぎあらいは、ボールペンを顎の辺りに当てながら答えた。
「…近い内、休みもらいたいから。仕事やっとこうと思って」
その答えに、シグナルと髑髏路は非常に納得したらしい。あー、とも言わずに二人は今度こそ完全に仕事へと戻った。
一人なんのことだか分からないヨリコはワイパーの柄を持って、頭に?を浮かべていたが、彼らしかぬ集中っぷりで書類を捌いていくすすぎあらいに、尋ねる気にはなれなかった。
なんだかそれが、彼にとっての洗い出してはいけない一面な気がして。