モノツキ | ナノ
(――あんたさ この半年、社長とか他の奴らと接してきて…全員を理解したと思ってる?)
私は、この半年。昼さんや、ツキカゲの皆さんと接してきて。
皆さんのことを少しずつ、理解出来ていたのならいいなと思っていた。
(もし思ってるんだったら、そのままでいい。あんたがあいつらを理解してるって思ってるのは間違いなく勘違いだが…それでいい。
あいつにも言ったけど…世の中、洗い出さなくていいことがある)
けれど、私が知っていることなんて、まだまだ皆さんの表面でしかないことは分かっていて。
皆さんの心にまで手を伸ばすには、私には足りないものが多いことも痛感していて。
それでも、いつかはって――そう思っていた。けれど
(見付けてしまった汚れを拭おうとして、それを広げてしまうこともある。
そのままにしていれば隠し通せたものを…もう二度と取り返しが付かないものにしてしまうこともある)
私が触れようとしたことで、大切なものが壊れてしまうのなら。
私が踏み込もうとしたことで、あの温かい場所が戻らなくなってしまうのなら。
私が知ろうとしたことで、誰かの痛みが曝け出されてしまうのなら。
(…あんたも、人を洗い出す時は気を付けた方がいい)
私はきっと――
(その穢れに毒されて、戻れなくなる前に…立ち位置は、弁えるべきだ)
何も、しようとしない方がいいのかもしれない。
「…お、おはようございまーす!」
本日は土曜日。毎週土曜日は朝からバイトが始まるヨリコは、いつものつなぎ姿に着替えて、月光ビル三階オフィスに顔を出した。
その胸中にはつい先日、すすぎあらいから受けた忠告をつっかえさせたまま。
言いようのない気まずさを隠さんと笑顔を取り繕って、ヨリコは溌剌とした調子でオフィスのドアを開けた。
頭の中にはぐるぐると、すすぎあらいの箴言や、梔子の意味深な言葉、これまでのことが渦巻くが。彼女は此処に、ツキカゲにいると決めたのだ。
居場所を此処と決めた以上、逃げる訳にはいかない。
これ以上進むことを許されていなくとも、今まで足を踏み入れてきた場所までは――。
ヨリコは意を決し、ドアノブを捻り、声を上げ、社員達へと顔を向けた。
「あ、おはようヨリコちゃん!」
「おう、おはようさん」
「おはよう!今日もよろしくねヨリちゃん」
そんなヨリコの内なる不安を余所に、社員達はいつものように挨拶を返してきた。
それがせめてもの救いというか、何と言うか。
ともあれ、ヨリコの張り詰めていた気は幾らか緩み、不自然なまでに力が入っていた肩はふっと軽くなった。
立ち位置は弁えるべきだ、とすすぎあらいは言ったが、今の位置にいてはいけないことはなかったようで。
未だこの居心地のいい空気の中に自分は身を置いてもいいのだと、ヨリコは社員達の晴れやかな挨拶に心底安堵した。
しかし何より、彼女の気持ちが落ち着いたのは。
「おはようございます、ヨリコさん」
梔子の一件で最も気掛かりであった昼行灯が、いつもと変わらずにいたことだった。
「はいっ、おはようございます昼さん」
ゆったりと落ち着いた声も、穏やかに揺らめく蝋燭の炎もいつも通り。
此方を拒絶する色のない彼の態度は、ヨリコにとって何よりの安定剤だった。
梔子が、彼の包み隠す何かを曝しかけたことを、恐らく昼行灯は知らないのだろうが。
それでも、何も変わらない彼を見て、ヨリコは安堵した。
そしてすすぎあらいの言った通り 自分は余計な場所まで踏み込むことをせず、この安定した立ち位置にいることが一番なのだろうと、ヨリコはそう思うのであった。
彼女は、何も知らない。彼等がその異形の下に隠した素顔も、痛みも、思惑も。
彼女は、何も知らない。昼行灯が普段を取り繕っていることも 何も。