モノツキ | ナノ



私の世界は一度滅びた。

いや、正確には、世界から私が滅びたのだろう。


「お前にはこれから、裏の方で動いてもらうとしよう。
その為に、必要最低限の支援はこちらからしよう。…何か、言いたいことはないか?」

「………いえ」

「そうか…。ならば、行け」


何もかもが、一瞬で塗り替えられた。

当たり前にそこにあったものが、全て手の届かない場所へ遠ざかり 近しい者に伸ばした腕は弾かれた。

人の眼は豹変し、掌は返され 私には何も残らなかった。


「お前のそんな顔はもう…二度と見たくはない」


そして。あの日、あの時、あの瞬間

×××××・××××は、死んだ。





吹き抜ける風が和らぎ、陽の光はより一層眩しく。
晴れ渡った空の青さに眼を細め、呑気に浮かぶ雲と並ぶように、軽くなった足取りで人々が道を行く。

帝都クロガネの季節は、春。アスファルトの隙間から蒲公英が、木々を覆い出した若葉を見上げ、街を行きかう人々は、新しい生活に手を引かれている為か、どこか忙しない。
ニュースの天気予報では桜の開花日が予想され、それとなく華やぐ空気に街は色付いているようだった。

そんな麗らかな春の陽気の中でも、ひっそりとした印象で塗り潰されている、とある雑居ビル。


「おはようございます」

「「おはようございまぁーーす」」


外がどれだけ晴天であろうと、光の届かない場所にあるドアノブは冷たく、それを握れば薄い鉄扉がキィと音を立てて開く。

立地の問題で日当たりの悪いオフィスは、清々しい晴れ模様の恩恵を受けられていなかったが。
それでも、少しばかし開け放たれた窓から吹き込む風は柔らかく、春を感ぜられるのに十分と思えた。

その日、珍しくいつもより遅めの時間に出勤してきた昼行灯は、先に出社していた社員達と挨拶を交わしながら、自身のデスクについた。

冬の間は冷たかった椅子も、今は腰かけることに抵抗がない。
窓を開け放つだけで快適な気候の中、今日は仕事が捗りそうだと、昼行灯は引き出しからファイルを取りだした。

しかし、春眠暁を覚えずとはよく言ったもので。


「…ふぁあ……」


デスクについて三十分としない内に、うっかり欠伸が出てしまった。

昼行灯は蝋燭の炎をボボ、ボ、と不規則に燃やしながら、段々とぼやけていく書類に眼を通した。

冬の動きが鈍くなる寒さや、夏のうだるような暑さは勘弁してほしいものだと季節が巡る度に苦言を呈していくものだが、春の眠りに誘うような心地よさもまた考え物か、と昼行灯はまた口から出てきそうな欠伸を噛み殺した。

状況的に欠伸を出してはいけない、ということもないのだが。
一応社長という役職である自分が、部下達を前に何度も欠伸をするのもどうかという考えの元、昼行灯は目覚ましにと自分の顔を両手でぺしぺしと叩いた。

バチンと思い切り叩かない辺り眠気にやられかけているのだが、それでもインクが溶けだしてしまったように見えていた文字ははっきりと見えてきた。

昼行灯は集中しよう、と椅子に座り直し、書類との格闘を再開した。そんな時だった。


「はい、どうぞ昼さん」


コトン、とデスクに固い音が落ちた。

ふと書類から眼を離し、音の先へと眼を向けると、そこには湯気を上げるマグカップが置かれていた。

更に視線を上げれば、盆を持った茶々子。
その後ろには「うぁあああ…」と気の抜けた声を出しながら腕を伸ばすサカナ達の姿が見えた。


「皆、春眠モードになっちゃってるのでコーヒー配ってるんです。昼さんも、眠気覚ましにどうぞ」

「…ありがとうございます」


やはり眠いのは全員変わらないのか、と苦笑しつつ、昼行灯は茶々子が煎れてきたコーヒーに手を伸ばした。

マグカップに口をつけ、熱めのブラックコーヒーを一口啜る。
するとコーヒーの苦味が鼻にまで突き抜けるように広がり、眠気で粘ついたような気がする咥内を洗い流した。

溜まった眠気がリセットされるような、そんな瞬間。
奮発して少し高めのコーヒーを給湯所に置いていて正解だった、と昼行灯がコーヒーの香りを堪能している中。


「そぉいえば、今日から高校生は新学期ですねぇ〜」


ミルクを大量投下したカフェオレを飲んでいるサカナが、カップを持っていない片手でキーボードを叩きながら、気の抜けた声をこちらに投げかけてきた。

他愛もない話で眠気を紛らわせたいのだろう。
仕事中の態度としては問題があるが、一応片手は絶え間なく動いているので、昼行灯は彼を不問とした。
眠気で作業が進まないよりはマシだという判断の上である。


「ヨリちゃんも今頃、始業式ですかね〜。無事に進級出来ましたもんね〜」

「……そうですね」

「いやぁー、四ヶ月前はホントどうなることかとヒヤヒヤしましたけど、よかったですよねー!社長の頑張りの甲斐もあったってもんですよ」

「…頑張りもなにも、私は当然のことをしたまでですよ」


しん、と一瞬、室内に再び冬が訪れたかのような静寂が張り詰めた。

それまで外の陽気のように明るく笑っていたサカナが、頭の熱帯魚を青白くし、近くにいた茶々子にコツン、と頭を小突かれた。

昼行灯はコーヒーの残りに口をつけ、カップをデスクに置くと、今度は欠伸ではなく溜め息を出した。


「成績も素行も問題ないヨリコさんが進級を危ぶまれたのは…他ならぬ、私のせいなのですから」


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