モノツキ | ナノ
俺たちの世界は一度滅びたらしい。
正確には、世界から俺たちが滅びた…という説もあるが。
とにかくその昔、人類の一部が世界から弾かれた。
理由はわからないが、それは追放だったのだろうと考えられている。
遡るのもアホらしい昔話で、事実も継がれることがなかった為、真相は今の世代である俺たちには何一つわからない。
ついでに、知ること調べること、それ自体が罪のような今のご時世である。
もはや教科書に載ることもない歴史の上で、俺たちは今新しい世界で生きている。
帝都クロガネ。此処が今、俺たち弾かれた人類が生きる世界。
「……あー、ホントに来るもんなんだなぁ」
人口約二千万人、あるべき世界から隔絶された空間に、ぽかりと浮かぶ一つの都市。
滅びていたはずの人類が生きる、ないはずの世界。
「ほぉ、珍しき反応をするのう。我等が下す罰を知っていながら、なんと淡白な」
「…まぁ、どんな罰か知ってるからなぁ。殺されるって訳じゃないなら、別にいっかって」
「死をも恐れていないような顔をして、よく言うわ。
だが…死より悍ましき生き地獄を見て、まだその口ぶりが出来るものか見させてもらうぞ」
此処は、この世界は
「我等神はお主らを、いつでも見ているぞ」
あってもなくても変わらない世界。
外は雨が降りしきっていた。煤が洗い流されていく窓を眺めながら、男は湿気っぽい部屋の真ん中で大きな欠伸をした。
家賃月六万。帝都の中心街から少し外れた、工場地帯の近くに建てられた築三十年を過ぎたアパートの一室は、雨期のじっとりとした空気に包まれていた。
工場から風に運ばれてきた煤でざりざりとした空気が洗い流されるような、そんな感じがして男は雨が嫌いではなかった。
肩に掛けたヘッドフォンから漏れるロック音楽と重なる雨音も、水槽に沈められたような灰色の景色も。
畳や床に積み重ねた本が湿気を吸うのはあまり好ましくなかったが、雨漏りでもされない限りは彼は雨を愛するだろう。
「ふーん。今度は雨の絵か」
駄菓子屋などで見る酢烏賊などを入れるプラスティックの容器の中には、様々な色を吸って変色し、絵具でカピカピになった筆がびっしりと詰まり。
洗う必要がないからと愛用されている紙パレットの上には、適当に絞り出された絵具たちが並び、極彩色を作っていた。
ぷん、とガソリンに似た匂いと、山盛りになった灰皿から漂う紫煙の残り香に顔を少し顰めながら、この薄暗く、どこか異様な空間に場違いな、制服姿の少女が男の背後からひょっこりと顔を出した。
帝都では名を知る者が多い、名門女子中学の制服に、前が切り揃えられ二括りにされた漆黒の髪と、白い肌。
何もかも埃被ったように見えるこの一室に、一輪の花が置かれたような。
そんな華やかな笑みを零し、少女は男の首に腕を回して、彼の丸まった背に体重を掛けた。
「いいね、この気持ち悪い感じ。この孔雀の羽根みたいなのも、嫌味ったらしい」
「……褒め言葉としてもらっとく」
男が力ない声でそう応えると、少女は猫のように笑って男から離れた。
一歩距離を置くと、男のくたびれたような背の向こうから、全体的に灰色掛かったキャンバスの中の孔雀の羽根の眼がこちらを睨んでいるようだ。
少女は「やっぱ気持ち悪い」とくすくす笑いながら、濃紺の制服のスカートをひらめかせ、踵を返した。
「もうご飯出来たから、作業はお休みー。今日はカルボナーラ作ったから、冷めないうちに食べてよ」
「…あんがと、フミ」
フミ、と呼ばれた少女は制服を汚さないようにと掛けていたエプロンを外して、のっそりと腰を上げた男にまた笑いかけた。
全貌が見えるようになったキャンバスの中は、まるで外のようなグレーが圧し掛かって、
羽根の眼が苦しんでいるような錯覚を覚える。
フミは「ざまあみろ」と言う代わりに、にたりと口角を上げて皿に乗せたカルボナーラを運んだ。