モノツキ | ナノ
全てに裏切られ、全てに牙を剥かざるを得なかった世界で、差し伸べられた手がどれだけ優しかったか。
何もかもが歪んだ世界で、一つだけ変わることがないそれを 人は何と呼ぶのか。
その答えは、俺だけが知っていればいい。
「では、これで取引成立ですね」
「あぁ…きっちり報酬は支払う。これは前金だ、持ってけ」
とある暴力団組織の事務所。いかにもと言った風貌の男達が睨みを利かせる中。
その男はかっちり着こなした緋色のスーツを整えて腰を追った。
片側に垂らした長い前髪がさらりと揺れ、頭が上がると深紅の瞳が、暗がりの中、爛爛と光る獣の眼のように光って揺れた。
どこもかしこも赤い男だった。髪も瞳も、身に纏う物も。
その腰に提げた二本の刀の鞘も、一見すれば黒に見えうる程に濃く、暗い赤だった。
まるで乾いた血のような――そんな色をしていた。
男は手渡されたアタッシュケースを手にすると、向いで葉巻を吹かす取引相手や、仰々しいと感じる程に警戒心を剥き出しにこちらを見遣る構成員達の視線をあっさり振りほどくようにして、事務所の扉に手を掛けた。
外は日が沈み、月が出ている。まるで夜空を喰らわんとする程に大きな月が、白く白く輝いていた。
薄暗い事務所よりも外の方が明るいと思えてしまう程に。
「それでは、またお伺い致します」
その月明かりをも侵すような鮮烈な色を携えた男は、最後まで丁寧な口ぶりを貫いたまま事務所を後にした。
暴力団員達の警戒も杞憂となり、何が起こるということもなく、男の足音は消えて行った。
だが、男のあの灼きつくような赤を、この場にいる者は誰も拭い去ることが出来ずにいた。
「…いいんですかい、オジキ。あんな額で取引して」
静まり返った事務所の中、冷や汗で派手な柄のシャツを濡らしながら団員が尋ねた。
オジキ、と呼ばれた男は葉巻を灰皿に捻じ込み、まだ落ち着かない一同に向かってぶはぁと紫煙を吐き捨てる。
「あいつらと上手くやりたきゃ妥協はしねぇことだ。
”奴”も、その後ろにいるモンも、呪い憑きと馬鹿に出来るもんじゃねぇ」
「何弱気になってんだオジキ!ありゃただの――」
「言わずとも分かってただろう、お前らよ」
その一言で場は一斉に沈黙へと還った。
同時に荒くれ者として名を馳せている構成員たちの脳裏に、全く同じものが浮かんだ。
それは、あの眼だった。深い深い、血の沼の底のような色をした赤い瞳。
片側が前髪に隠れているというのに、此方を見遣るそれは一つしかないというのに、
まるで猛獣に囲まれ、鋭利な爪を突き付けられているような――そんな悍ましい思いを構成員達は味わっていた。
直に此方を見てきた回数など、数えるに値もしない程少なく、その時間もほんの一瞬だ。
だというのに、あの赤い眼は、常に此方の首を刈ろうと、息一つまで見逃してはくれなかった。
そんな印象を、商談が行われたソファの周りを囲む構成員達全員に、男は与えていた。
そしてそれは、向いで直に交渉していた組長も同様。
「ありゃ、人の皮を被った刃物だ。
下手に触れば誰彼構わずぶった斬る、躊躇いなぞ一切なしに相手をバラしに掛かる無機物よ」
月明かりの下、男は歩く。その腰に提げた刀を揺らしながら、不浄渦巻く街を行く。
「あれでも大人しくなったもんだ。全盛期の奴は――無差別を越えていた」
野良猫一匹姿を見せないそんな道に、浮かぶ影は人か鬼か。
「人斬りシザークロスは、この世が生んだ”化け物”だ。
お前らはヤクザもんとして、”人間”に殺される最期になるよう気をつけるこったな」
はたまた刃物か。