モノツキ | ナノ
五年前。反対の道路を走っていた大きなトラックがぐらっと揺れた次の瞬間から、私は何も覚えていない。
目が覚めた時には、サイレンの音に囲まれていて。
あの日、眼に焼き付いた赤い色だけが 私の頭にこびりついていた。
「…どう?昼さんの様子」
ツキカゲ本社三階オフィス。いつものようにそれぞれが仕事に取り組み出す午前九時。
昼行灯は死んだように椅子に凭れていた。
「駄目です…今日も死んでます」
ヨリコとのデートから三日。
あの日、ウライチで起こった事の顛末を、髑髏路がつけていた追跡型監視カメラで知った一同は、頭の火を失って戻ってきた昼行灯に何も言えず。
彼が抜け殻のようになってしまってからツキカゲには気まずい空気が流れていた。
人の恋路に踏み入るとロクなことがないとは言うが、全くその通りだった。
覗き見のような真似さえしなければ、何も知らないまままだ気楽に過ごせたものを。
あの場にいた面々は、知ってしまったのだ。
あの日、ヨリコが口にした真実を。昼行灯のみが知るはずだった、彼女の深い傷を。
「……ごめん、なさい」
あの日、最初に口を開いたのは、意外にもヨリコだった。
人が少ない通りで、取り残されたように立ち止まる二人の間に、その言葉は突き刺さるようだった。
「ヨリコ、さ…」
何を謝る必要があるというのだろう。
妙な勘違いをされたことだろうか、無礼極まりない彼らの発言に対しての謝罪だろうか。
いや、そのどれでもないことは昼行灯にも分かった。
ヨリコは、それまで包み隠してきた事実について謝っていた。
「……大体、あの人が…リョーさんが、言った通りなんです」
ヨリコは決して、顔を上げようとしなかった。
前髪に隠れて目元は見えないが、すっかり色を無くした頬や、震える唇は視認出来る。
昼行灯は、もう何も言おうとしなかった。
ただ、ヨリコの言うままに、それを受け止めようと。昼行灯は、ヨリコが口を開くのを待った。
「……わ、私!五年前に交通事故で両親を亡くして…親戚の家に、あのリョーさんのご両親に引き取られました。
ほんとに遠い親戚で、なんで私を引き取ってくれたんだろうって思ったんですけど…。
両親の遺産が目的で、もう…相続が終わったから、私…邪魔者だから、十八歳には追い出されちゃうんです!」
ヨリコは、笑った。
捲し立てるように吐き出して、包み隠してきた全てを、彼女が追った傷を曝しながら 痛ましい笑顔を浮かべていた。
「だから、お金が欲しくって…危険だって分かってからも、お給料高いツキカゲで……バイト、しようって。
………そ、掃除するだけで時給千五百円なんて、すっごいラッキーじゃん!って……」
取り繕った明るさで、ヨリコは青白くなった顔をごまかそうとしていた。
唇は震え、喉がひくつき、上手く喋ることが出来ないでいるというのに ヨリコは笑って、笑って――
「だから………ごめんなさい」
そうして、ヨリコは昼行灯の前から姿を消した。
ウライチで一人走り去っていく彼女を、昼行灯は止めようとしたが ヨリコの言葉が、彼の足を其処に縫い付けていた。
何が、ごめんなさいなのだろうか。
また事実を隠していたことに対して詫びたのか。
それとも、金銭目的でツキカゲに居座り続けてきたことに対してなのか、はたまた別の何かなのか。
取り残された昼行灯は、何も言えず、何も出来ず。ただ、其処に立ち尽くしていた。
それから当然ヨリコがツキカゲに訪れることはなく、昼行灯は心此処にあらずと言った様子で、死人のように時間を浪費している。
サカナ達は、その原因を知ってしまったからこそ、殊更気まずかった。
立ち入ってはいけないだろう、ヨリコの心の傷を盗み見るような結果になってしまったことも、それを打ち明けられずにいるからこそ、昼行灯にもヨリコにも何も言えない現状も。
こんなことになるのならば、デートになど焚き付けなければよかった。
そう悔やんでも遅い。あまりに深い溝を前に、成す術なく立ち止まることしか、彼らには出来なかった。
「…お前ら、作業の手を止めるんじゃない」
そんな最悪とも言える状況で、いつものように仕事をこなしているのは三階オフィスで薄紅だけだった。
機能停止した昼行灯に代わり、外来の応対に仕事の手配にと動き回り、二日連続残業明けの今日も、朝早くからオフィスで書類と格闘し、寝不足のせいか苛立った調子で一同に喝を入れ、薄紅はキーボードを叩いていた。
「す、すみません紅さん…」
「昼行灯があの調子だ…。俺達が動かないでどうする」
昼行灯がああなった理由も、ヨリコが来なくなった理由も薄紅は知っている。
あの後、サカナ達が耐え切れず、彼に真実を告げたからだ。
薄紅は彼らをこっ酷く叱り付け、それから昼行灯が空けた穴を縫うように働いていた。
これに懲りたら、今度こそ余計なことはするな と彼らに忠告し。
彼自身もまた、昼行灯に対して何もしようとはしなかった。
仕事が手につかない彼に何を言うでもなく、ただ仕事をこなし、会社を回す。
一つが崩れてしまったから、と他の全てを取り壊す訳にはいかないのだ。
頭が転がり落ちようとも、それを支える体までもが崩れてしまうことだけは、避けなくてはならない。
一つの会社の元にいる身であり、一人の人間としての生活がある彼らは、そうせざるを得ないのだ。
「…今回のことは、あいつとヨリコさんの問題だ。お前らがどうこうしようとするんじゃない。
ヨリコさんがあいつにだけ打ち明けた傷を、広げることにしかならん」
「……はい」
「分かったら、さっさと会計報告済ませろ。会社がなければ…戻ってくるものも来ないだろう」
薄紅はそう言って、比較的希望観測の持てる言葉で彼らの業務を促した。