モノツキ | ナノ



全てに裏切られ、全てに牙を剥かざるを得なかった世界で、差し伸べられた手がどれだけ優しかったことだろう。

何もかもが歪んだ世界で、一つだけ変わることがないそれを 人は何と呼ぶのだろう。


その答えは、私だけが知っていればいい。





「ふぅ、終わったぁ〜」


バイト三日目にして、ようやく一日が仕事に始まり仕事に終わったヨリコは、額にかいた爽やかな汗を手の甲で拭って一息ついた。

今日はまず、すすぎあらいの机周りの掃除から始まり、先日盛大にガラスと血が飛び散ったオフィスの床掃除。
それから社員達がそれぞれの部屋から出したゴミを集めて、裏口にそれらを置いて、あとは簡単な掃き掃除で終わった。


ヨリコとしてはもう少しあちこちやりたいところだったが、昼行灯が心配そうについて回るのでやめるようにとサカナに茶化されて今日のところは終了である。

契約では三時間のバイトなのだが、何せすすぎあらいの机周りが酷いので、時間いっぱい掃除に費やさなければならなかった。

そこのところは給料に見合っているな、とヨリコは肩を回しながら、明日にはまた元通りになっているだろうすすぎあらいの机を思い浮かべて苦笑した。その時だ。


「お疲れ様ぁ、ヨリちゃん」

「茶々子さん」


今日も今日とて、陶磁に映える薔薇模様が美しい。ティーポッド頭の茶々子に声をかけられ、ヨリコは「お疲れ様です」と返した。

もうすっかりモノツキに慣れた様子のヨリコだが、やはり初日から顔を知り(ティーポッドだが)、友好的な態度をとってくれる茶々子には特に心を開けているようだ。
茶々子も新しく出来た同性の仕事仲間がすっかり気に入ったようで、何かにつけてヨリコを気に掛けている。


「今お茶煎れたから、よかったら飲んでいって。お菓子もね、昼さんが買ってくれたのがあるからぁ」

「ホントですか!ありがとうございます!」


昼行灯は、ヨリコが働きやすくて何より…とは思っていたが、それにしても茶々子はヨリコに構い過ぎではないかとキーボードを叩きながら思っていた。
そうしてちらちら向こうを気にして画面がお留守になる昼行灯に、修治やサカナが黙って腹を抱えている。


今日も三階のオフィスには昼行灯、茶々子、修治、サカナの四人しかいなかった。

二階のオフィスに至っては、髑髏路が昨日と変わらず机に齧り付くようにして作業しているだけで、すすぎあらいもシグナルもいなかった。


茶々子曰く、すすぎあらいは仕事がないと部屋で寝ているか、時たまふらっとどこかへ行ってしまうらしく、呼べば戻ってくるが、何処に行っていたかなどは一切口にしないらしい。
まるで猫のような人だ、とヨリコは思ったが、猫は一日でゴミ山を築けないだろうとその考えを撤回した。なんだか猫好きに怒られそうな気がして。


「あの机…私が来た時はいつも空いてますよねぇ」


茶々子が煎れた紅茶と、用意されたクッキーに舌鼓を打ちながら、ヨリコはそれとなく聞いてみた。

まだ会っていない社員がいる、ということは分かっているが、それがあと何人いるのか。まだまだ知らないことが山積みだ。

それを一つでも切り崩していければ、此処に馴染めていけるのではないかとの考えだ。無論、踏み入ってはいけない領域は弁えるつもりで。


「あぁ、あそこはねぇ副社長の机なのぉ」


ふ、と茶々子の顔を見て、ヨリコは眼を見開いた。

いつも空いている机が副社長のもの、ということに驚いたのではなく、茶々子が普通に紅茶を飲んでいることに驚いたのだ。


彼らモノツキも一応人間である以上、食事はするのだろうが、それにしてもごく当たり前に飲み食いしてくれるものだから、ヨリコはそれはそれは驚いた。

ティーポッドに紅茶を宛がっても、普通テーブルや床がべったべたに汚れて終わりだが、
眼の前のティーポッドはどこかへと紅茶を吸収していき、茶々子の服もソファも一切汚すことはない。

どうやら、見た目だけが変わっているだけで、モノツキにも口や眼はちゃんとあるらしい。それがどこかはさっぱりだが、当たり前の発見にヨリコは納得したような、まだどこか引っかかっているような。

取り敢えず、じろじろ見るのも失礼だと思ったので、ヨリコはさっと手元のクッキーに手を伸ばした。
幸い、茶々子がそれに気付いた様子はない。


「うちの副社長、外周りが多くてね〜。あまりここに戻らないのぉ。住んでるのもここじゃないしね」

「そうなんですか」


しかし、茶々子のする副社長の話にも興味がある。

モノツキでありながら外周りをし、そこらのアパートを借りられないはずの身でありながら外に住まうとは、一体どんな人物なのだろうか。

ヨリコは近いうちに会えないだろうかと、バターの味がほどよいクッキーを噛んでいた。


「でも気をつけた方がいいよ、ヨリコちゃん」


ひょいと後ろから伸ばされた手がクッキーを一枚皿から攫い。見ればすぐ横には、ちゃぷんと音を立てる水槽頭がそこにあった。


「気をつける…といいますと?サカナさん」


じいっと見ていると、サカナも水槽の中心部にクッキーをやったかと思うと、クッキーが半分ほど残してばきりと消えた。

かなり不自然ながら、水槽のところに異次元ホールでもあるかのようにクッキーのおよそ半分は吸い込まれ、噛み砕かれたのだろう音を立てると、見事に消えていた。

口という器官の有無が、ここまで不可思議な光景を生み出すとは思ってもいなかったヨリコを余所に、サカナはぼりぼりクッキーを噛みながら続けた。


「副社長、昔は”人斬りシザークロス”なんて呼ばれてた裏社会で有名な始末屋でさぁ〜。関わった人間はみぃんな三枚に下ろされてしまったという逸話が…」

「変なことを吹き込むのはやめなさい」

「あいたっ!」


サカナが怪談を話すような口振りで話すと、昼行灯が丸めた書類でばしっと彼の頭を叩いた。

まるで蝿でも潰すかのような容赦のない一撃に、サカナの水槽から水が大きく波を立てたが、昼行灯に悪びれた様子はない。


「なぁにするんですか〜。僕、嘘はついてないじゃないですかぁ〜」

「いいから貴方はさっさと仕事に戻りなさい…」

「社長こそ、今日一日上の空でしたけど、はかどってるんですかぁ〜?」


茶化したところでばしっともう一発食らい、サカナがぶーぶー言いながら席に戻った。
その様子を見ながらヨリコは紅茶を手に笑ってみせたが、完全に苦笑いだった。


「す…すごい人が副社長さんなんですね」


幾ら此処に慣れてきたとは言え、過去に人斬りをしていたような人物が副社長と聞いて穏やかでいれる訳がない。

そこにはっと気が付いた茶々子はなんとかフォローしようと、わたわた手を振りながら口を回した。


「で、でも昔の話でぇ!今はすっごい穏やか〜な人なのよ!優しいし、奥さん思いだし…」

「そうなんで………?!!」


そんな彼女のフォローに、ヨリコは思わず飲みかけた紅茶を吹き出しかけた。

それをなんとかぐっと抑えると、紅茶が気管に入って溺れたような感覚に見舞われた。それでもヨリコは言及せずにはいられない言葉を拾うことを優先した。


「ちゃ、茶々子さん…今、なんて…」

「え?えっと、副社長は優しくて、奥さん思いって…」


咳をするヨリコの背中をさするか否か昼行灯がわたわたしている中、茶々子は何かまずいことでも言ったかと頭をぐるぐる回していた。

少し考えれば分かることだが、物の見方が違えば分からないものは分からないものである。

暫く咳き込んで落ち着いたヨリコは、頭に?を浮かべる茶々子に本題を突き出した。


「…ご、ご結婚されてるんですか?副社長さん」


外周りが多いことも、外に住んでいることも勿論驚いた。だが、これはヨリコの想像を遥かに上回わった。

モノツキが、結婚。ないことはないのだろうが、しかし、そう簡単なことではないだろう。


社会的地位がないに等しいモノツキが、結婚。無礼は承知で有り得ない、とヨリコは思った。

しかし、それは此処にいる面々も思っていることだ。


「有り得ないと思われたでしょう…ですが、その通りなのですよ」


昼行灯はヨリコにハンカチだけ差し出すと、また癖のように指を噛みあわせてはうぞうぞと動かした。


異形の姿に変えられた、呪われし罪人。その中で救いを得た人間が、此処にはいる。

そんなまさか、とヨリコが眼を見開く中、サカナがまた芝居がかった調子で口を挟んだ。


「そう、神様に呪われようと、人という人に裏切られようとも、過去に百を超える人を斬り殺そうとも、ただ我武者羅に死を待つように生きようとも。たった一本の運命の赤い糸を手繰り寄せられた人間が、此処にいるんだよヨリちゃん」


サカナのその言葉がオフィスの中に響いたと同時に、ぎぃっと鉄扉が開く音がした。

その音の方へサカナは視線を滑らせると、そのタイミングの良さをふっと笑うように水の中に泡を浮かせた。


「血なまぐさい絶望の中で、奇跡を得た人。それが、ここの副社長、薄紅さんだよ」


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