モノツキ | ナノ
アマテラスカンパニ―社長、アマガハラ・ヒナミが、自宅で何者かに刺され、意識不明の重体――。
このニュースは、帝都をひっくり返したような大騒ぎを起こし、テレビや新聞、雑誌、あらゆるメディアを埋め尽くすように取り上げられた。
事件が起きたアマガハラ邸や、彼女の城たるアマテラスカンパニー。果てにはヒナミが搬送された病院にまで、連日報道関係者が詰めかけ、警察が捜査と対応に追われる中。
この騒動の波紋は、アマガラハラ・ヒナミという人物とは凡そ縁がないと思われる裏社会にまで広がっていた。
「昼さん!!」
扉を突き破りかねない勢いで、オフィスに飛び込んで来たヨリコを最初に迎えたのは、ひた重い沈黙だった。
息が詰まりそうな、どころではない。呑み込めないものが喉に痞えて、息の根から止められてしまいそうなくらいの、静寂。
そこに一石を投じるようにして落された声は、愕然とし、真っ白になったヨリコの頭に、酷く響いた。
「あら……普通の人間、ね」
どこか冷ややかな、女の声だった。
それは、ヨリコがこの場に現れたことへの驚嘆よりも感心の色が強く。此方を見据える双眸もまた、同じものを湛えていて、ヨリコは思わず、その場から半歩たじろいだ。
彼女から逃れたいと、反射的に足が引いた。
このまま呆然と立ち尽くしていたら、踏み拉かれ、ぐしゃぐしゃにされてしまいそうな気がして。
ヨリコは、冷淡な微笑みを浮かべる女から距離を取り、改めて彼女を見遣った。
陶磁器のように白い肌、さらりとしたアッシュカラーの髪。黒いレディーススーツがよく似合う、若く美しい女だった。
美しい。だが、やはり声から受ける印象同様、その顔立ちからも冷たいものを感じて、ヨリコは身を強張らせた。
――彼女は、何者なのだろうか。
ヨリコが、未だ白んだままの頭で思考する中。最早、誤魔化すことは出来まいと抗いを手放した薄紅が、口を開いた。
「……彼女が、例のアルバイトだ、レイラ」
「あぁ、この子が」
薄紅の言葉に女――レイラは、すぅと黒色の眼を細めて、笑った。
それはまるで、氷のような笑みだった。触れた先から体温も感覚も奪われ、そこから肌を切り裂かれ、血を凍らされてしまうような、絶対零度の微笑。
どうして彼女は、そんな笑い方をして、自分を見ているのか。
困惑と混乱で滅茶苦茶になった頭ではさっぱり分からなかったし、そもそも、ヨリコがそれを判断するには、あらゆる情報が不足していた。
だがそれでも。レイラが冷笑を浮かべた唇で、歌うように呟いた一言は、彼女に全てを悟らせた。
「そう。じゃあ……貴方が”私の後釜”なのね」
純然たる悪意のみで作られた言葉に、誰もが息を呑み込んだ。
刹那、心臓に杭を打たれたような感覚に見舞われて、呼吸が出来ずにいたのだろう。
ヨリコもまた、穿たれた如く痛みを訴える胸を抱えて、今にも倒れそうな体で立ち尽し、ただ、レイラを凝視していた。
彼女は、自分を”後釜”と言った。
その言葉は、ぽっかりと開いた胸の風穴から、ずるずると、悍ましく忌まわしきものを引き摺り出して、ヨリコの前に提示する。
あの日、此処で、聞いたことを。
忘れられる訳もないのに、心の奥深くに封をしてしまっていた、真実を。
(今から三年前になるが……昼行灯はある仕事先で父親の借金が原因で売られた少女を助け、その少女は、モノツキである昼行灯に心から感謝し、更に彼に助けを求めた)
(モノツキになってから虐げられることしかなかった昼行灯は、それがとても嬉しかったのだろう。彼女を此処、ツキカゲに社員として雇い入れた)
それが誰かなのかを、ヨリコは知らぬままでいた。
あれ以上を尋ねられる状況ではなく、以降も、あの話題には触れてはいけないと、本能が疑念を殺し続けてきたからだ。
だから、ヨリコは知らぬ、存ぜぬのままでいた。
知ればきっと、ぶり返す過去の痛みに、彼が苦しむから。
知ればきっと、かつて彼が愛した人に対し、よくない感情を抱いてしまうから、と。
昼行灯の心を、底なしの闇へと突き落したその人をタブーとして、ヨリコは眼を逸らし続けてきた。
だが、もう見ないふりは出来なかった。ヨリコも、昼行灯も、他の面々も――。
「――レイラ!!」
やがて、堪え切れないと言わんばかりに、薄紅が息を吐き出すように叫んだ。
彼の怒りに震える声は、張り詰めた空気の中に甚く響いたが、レイラには何一つとて届いていないようだった。
「だって、そうでしょう?こんな普通の子が、こんな異常な場所にいる理由なんて、それ以外考えられないわ。ねぇ……昼行灯?」
依然、冷たい笑みを浮かべたまま、レイラは椅子に腰掛ける昼行灯を見据えた。
その視線を追うように、ぎこちなく顔を向けた先――ヨリコの眼に、色もなく燃える、死に絶えたような弱々しい炎が映った。
見ている此方の身が切られるような、痛ましく、悲しい色をした、小さな炎。
それを吹き消すように、レイラはふぅと溜め息を吐いて、頬にかかる髪を耳にかけた。
「まぁ、いいわ。それより、話を続けましょう」
「…………続けるも、何も」
疎ましげに、昼行灯が這うような声で呟く。
何もかもが厭わしく、馬鹿らしいと、そう言うように。昼行灯は、色の無い火でレイラを睥睨しながら、ゆっくりと続ける。
「私には何も話すことがないと、先程も申し上げたでしょう」
「それで済ませられる事じゃないのよ。そんなこと、貴方なら分かっているでしょう」
レイラは、ハイヒールを打ち鳴らしながら昼行灯の間際まで近付くと、彼のネクタイを掴み取った。
まるで、首に縄をかけて、そのまま彼を吊し上げてしまうような手つきに、ヨリコは思わず半歩飛び出すが、それ以上は体が動いてくれなかった。
近寄れば、それだけ深く傷付けられてしまう。
そんな予感を放つ空間に、レイラは酷く美しく歪んだ笑みで、言い放つ。
この上更に一同の胸を深く突き刺す、絶望の釘めいた言葉を。
「帝都一の大企業、アマテラス・カンパニー。その社長が、何者かに刺され、意識不明の重体……。この一大事件、いつまでも知らん顔が出来てると思って?」