モノツキ | ナノ
自分が去ってから屋上で起きたことを耳にしてから、どうしても此処に来なければならない気がして。翌日、ヨリコは朝からツキカゲに顔を出していた。
ずっと、胸騒ぎがしていた。嫌な予感がしていた。
帰路を行く間も、家に戻ってからも。こうしている間に、何かがとても良くない方向へと、転がってしまった気がして。
ヨリコは、叫ぶ第六感の啓示に従い、ツキカゲの三階オフィスに訪れた。
そんな彼女と、襲撃に備えほぼ不眠のままに夜を明かした一同に、茶々子が差し出したのは、サカナの置手紙だった。
「……朝起きたら、ドアの間に挟んであって」
「……サカナは」
「…………もう、此処にはいないと思う」
サカナの残した手紙は、二枚。
一枚目には、ただの一言。「巻き添えは、ゴメンです」とだけ、書いてあった。
二枚目には、一身上の都合により、ツキカゲを辞める旨が記されていた。詰まる所、辞表だった。
これだけ揃えば、サカナが未だ此処にいると思う方が、難しい。
不審が、此処に来て膨張し、一同の心に重い陰を齎す。そんな痛ましい静寂の中、堰を切ったように火縄が口を開いた。
「あいつ、裏切ったのカ」
「火縄、」
「だって、こんな手紙残していくってことは、そういうことにしか思えないネ!」
火縄ガンの言うことは至極尤もであったし、口を噤んでいた者達でさえ、サカナの逃走は、裏切りだと感じていた。
昨日の、屋上での行動。カイによって明かされた、彼の素性。加えて、この置手紙。
化けの皮を剥がされたサカナが、もう此処にはいられたものではないと、尻尾を撒いて逃げ出したと。そう思うのも、無理はない。
余りにも、材料が揃い過ぎてしまったのだから。
「……どうする、社長」
張り詰めたような沈黙に、すすぎあらいが声を落とした。
それは、形式上は問い掛けであったが、その実、彼が言いたいのは、確認であった。
「フナブチの件だけじゃない。うちには未だ、ノキシタ商会からの依頼もある。……真偽を確かめてる時間も余裕も、無いと思うんだけど」
今、ツキカゲを取り巻く問題と、それを処理する人員を思惟すれば、自ずと選択肢は一つ。
リスクや負担のことを踏まえ、サカナのことは放っておく。
これが、最善策であり、自分達が取るべき行動であることを、昼行灯は重々承知だと、すすぎあらいは確かめたかったのだ。
彼とて、サカナを信じたい気持ちはある。今すぐにでも、彼の真意を見定めたい想いもある。だが、其方を優先するには、状況が悪過ぎた。
フナブチのもとには、エイスケ以外にもかなりの手練れが飼われていることだろう。ウライチには、今も厄介なツキゴロシが集って、モノツキ達を脅かそうとしているだろう。
依頼完遂の為にも、今後の自分達の為にも。サカナに人手や時間を割くのは、得策ではない。
それを踏まえた上での、どうするに対し、昼行灯が思案する中――。
「あ、あの!」
どうして、此処に来なければならないという、使命感さえ覚えたのか。
その答えがついに顔を出してきて、ヨリコは、震える喉から声を出し、叫んだ。
「こんな時に、すみません……。でも、皆さんにどうしても、聞いてほしいんです!」
今、昼行灯達の運命が、一分一秒に揺さぶられている事態であると、ヨリコも分かっている。
こうしている間に、彼等は見えないものに、首を絞められつつあるかもしれないことも、察している。
それでも、ヨリコはこのまま黙って、見ていることは出来なかった。
このまま昼行灯達が、この先に、サカナのいない道を選んでいってしまうのを。
「サカナさんは……自分が巻き添えになるのが嫌なんじゃなくて、自分が皆さんを巻き添えにするのが嫌で、こう書いたんだと思います。
自分の心の弱さが、皆さんの足を引いて、巻き込んでしまうのが堪え切れなくて……。こんな手紙を残して出て行ったのも、自分のことを切り離してほしいからで……。
サカナさんは、自分がいなくなることで、皆さんが無事にこの危機を乗り越えられるようにって……わざとこう書いて、行ってしまったんです」
サカナが、こんな手紙を残したのは、彼なりの想いがあってのことだろう。その上で、彼の本心を伝えてしまうのは、サカナの覚悟を蔑ろにしてしまうかもしれない。
けれど、彼の気持ちが彼自身の手によって隠されたままにしては、誰もが後悔する結末になる。
自分が此処に来たのは、それを確信していたからかもしれない。
ヨリコは、どうかそんな悲しいことにならないようにと、懸命に言葉を紡ぐ。
「サカナさん……本当は、皆さんに見捨てられるのは堪えられない筈です。でも、自分のせいで皆さんが傷付くのが何より嫌で……。
だから、自分自身に嘘を吐いてまで、こんな手紙を残していったんです。これは……サカナさんの、最後のSOSなんです」
サカナの過去を知った今だからこそ、ヨリコには、痛ましいくらいに理解出来た。
エゴにも等しい自己犠牲から、吐き出された嘘。その内側に隠された、張り裂けそうなメーデー。
誰か、こんな虚偽を見抜いてくれないか。誰か、この想いをすくってくれないか。
そんな願いを込めて、自ら孤独を選んでいったサカナの想いを、どうして無かったことに出来ようか。
ヨリコは、これを自分の都合のいい解釈や妄言で片付けないでくれと、涙を流しながら、必死に訴えた。
「私や、皆さんの知るサカナさんは……自分一人が助かる為に、ツキカゲを裏切ったりしない筈です。いつも此処にいたあの人は……紛れもなく、サカナさんの、本心のままの姿だった筈です」
例え彼が、かつてとんでもない嘘吐きで、とんでもない詐欺師で。今尚、本当の自分を隠し続けていても。
此処にいた彼は――ツキカゲ社員一同がよく知るサカナは、嘘偽りのない、彼そのものだった。
いつも明るく、お調子者で、俗臭い。
誰もが浮かべるサカナという人物像は、間違ってはいなかった。それが確かならば、十分だった。
「……サカナちゃんね、『僕になんか構わないでくださいよ』って言ってたの」
何処までが嘘なのか。その境界線を、ヨリコがはっきりと示してくれたことで、茶々子は安堵した。
信じてもいいのだ。疑わなくていいのだ。
自分の心の中にいるサカナを、そのまま受け止めてやっていいのだ。
ならば、何も躊躇うことはないだろうと、茶々子は一同の背を押すように、自らの想いを口にしていく。
「もし私達といることで……ツキカゲにいることで自分が巻き込まれてるって、そう思ってたなら……『僕になんか』って、言わないわよね」
「確かに、ね」
「マジであいつが、此処を捨てる気満々だったっつーんなら、とっくにそうしてるよな」
「今回だけじゃねぇもんなぁぁ。一人でトンズラした方が得だったの」
「……まぁ、そういうことなら、仕方ないネ」
「……皆さん、はっきりと申されたらどうですか」
次から次へと茶々子に便乗していく一同に、昼行灯は溜め息を吐いた。
ただでさえ時間が惜しいのだし、遠回しなことは止めて、率直に言えばいいだろうに。
我が部下達ながら、いやらしい訴え方をするものだと思いながら、昼行灯は額に手を当てた。
「此処が手薄になっても、仕事の負担が大きくなっても、今すぐサカナを探し出したい。……皆さん、そう言いたいのでしょう?」
「お前も、その意見に同意してるんじゃないのか?昼行灯」
「えぇ。ですので、皆さんの総意を確認しようと思いまして」
昼行灯はわざとらしく肩を竦めて、もう一つ、小さな息を吐き出した。
あれだけ思い詰めていたのが心底馬鹿らしく、悩んでいただけ時間の無駄だと思えるくらい、簡単なことだった。
何を指針にすればいいのか。何を信じて道を選べばいいのか。
疑ることなど無かった。自分も、社員達も、そしてサカナも――最初から、素直になっていればよかったのだと。昼行灯は、頭の中で既に組み立てていた作戦を社員達に伝えた。
「シグナル、火縄ガンは引き続き見回りを。すすぎあらいと修治はツキカゲに残り襲撃に備え、待機。髑髏路はLANと共に情報収集。ヨリコさんは此処を簡単に片付けておいてください。そして茶々子」
「はい!」
「貴方は、サカナ捜索の為にカイドウ組へ連絡を。いざという時、人を動かしてくださるとサメジマさんが名刺をくださいましたので……ここに」
「……分かりました」
「私と薄紅は、先日の襲撃犯を追います。サカナに恨みのある彼等の方が、早く嗅ぎつける可能性もありますから……」
時は、一刻を争う。だが不思議と、先程までのように焦燥を感じることは無かった。
余裕がある訳ではない。寧ろ、サカナを捜さなければならなくなった分、切羽詰っている。
それなのに、どうしてか。昼行灯達はこぞって、この慌ただしさに、妙な心地良ささえ感じていた。
「時間は、相手が動き出すまで。何としてでも先手を打って、サカナを見付け出し、敵を討ち取ります。有限会社ツキカゲ、総力を挙げて、全力で取り組むように!」
「「了解!」」