モノツキ | ナノ


冷たい孤独で満たされた、狭く、息苦しい世界。

其処で、ただ生かされているだけの日々は、ある日突然、終わりを告げた。


「信じられないな……子供一人で、一ヶ月も」

「以前から、疑いはあったのですが……何度か保健所の指導も入っていたようなので、大丈夫だろうと……。それがまさか、こんなことになるだなんて」


毎日毎日、同じ食事を与えられ、体がそれを受け付けなくなっても、出されるものは変わらなかった。

どれだけ吐いても、苦しいと訴えても、泣いてみても、聞き入れられることはなかった。

何か、見えない壁に遮られているかのように。
僕の言葉も、想いも、伸ばした手でさえも、あの人には届かなかった。


「家を空けてるのが殆どでしたね。一週間帰らないこととかもあって……その間、あの子はずっと一人で」

「殴られたりとか、そういうのは無かったと思います……。ただ……××××さんは、本当に何があっても子供に構わなかったみたいで……」


それでも、生かされていただけマシだったのだと。

インスタントや冷凍食品のゴミが犇き、異臭が立ち込める部屋の中に横たわって痛感した、幼い日の記憶。

力無く床に倒れ込んでいた僕の姿が、のたうつことを止めたそれと、重なって。


「こんな真似をして、ぬし自身が檻を脱することが出来る訳もあるまいに」


堪らず、悲惨した硝子の破片諸共踏み潰すと同時に、目の前が一瞬、真っ暗になった。

あれと一緒に、僕も潰れて死んでしまったのかと思ったのも束の間。再び開けた視界の中で、神様が嗤った。


「囚らわれたままの哀れで、愚かなわっぱよ。ぬしの名はこれより――」





「――ナ、…………サカナ!!」

「ふぁいっ?!!」


机に伏せていた上体を、慌てて起こした拍子に、ゴツッと鈍い衝突音。

水槽の縁と、ランプの角がぶつかり、悶絶する二人の様子に、思わず傍にいるだけのヨリコも、痛そうな顔をしてしまった。


時刻は、昼過ぎ。昼食で腹が満たされ、眠気が顔を出す頃合いだ。

パソコンに向かっていた筈が、いつの間にか気を失うようにして、眠りに入っていたらしい。
サカナは、衝撃で波を立てる頭を抱えながら、やってしまったと熱帯魚をさぁーっと蒼白くした。


「す……すみません、社長」

「……就業中に居眠りする程です。日頃遅くまで仕事に取り組んでくれていた……と見ても宜しんですよね。ねぇ、サカナ」


静かに、蝋燭の炎をジジジと燃やしながら「今日提出のデータ、どうなってますか」と聞いてきた昼行灯に、サカナは一瞬固まった。


近頃、仕事が立て込んでいて、忙しかったのは事実だ。

しかし、自室に戻ってからも仕事に取り組んでいたということはなく。昼行灯に頼まれた業務も、ほぼ形は出来てこそいるが、完成には至っていない。

眠りこけてさえいなければ、ちょうど今頃には終わっていただろうに。

サカナが、だらだらと頭の水槽から結露を流すと、仲の熱帯魚達が慌ただしく回遊を始めた。
多分、今の彼は、冷や汗を流し、眼が泳いでいる状態なのだろうと、ヨリコは束ねた書類を綴じながら思った。


「ア、アハハハハ!そりゃあ、もう!ばっちりですよ!あと一時間くらいしたら、完璧に仕上がるので、そしたら見せますね」

「結構です。今の状態を見せてください」

「い……いやでも、やっぱり完成した状態を見せたいといいますか」

「今の段階で手直しを要する場合もあります。ですから、さぁ」


最後に一度、サカナから、「助けて」というような視線が向けられたが、自分ではどうにもならないので、ヨリコは軽く頭を下げた。

それで観念したのか、サカナはおずおずと、昼行灯から任された仕事のデータを開いた。


「…………取り敢えず、レイアウトとキャッチはこんな感じで、あとは細かな文章や写真を配置するだけで」

「文章は」

「こ、これから考えて……あ、でも何書くかは決まってるんですよ!ざっくりと……ですけど」


語尾を小さくしていきながら、サカナは身を縮めるように肩を竦める。

居眠りした挙句、起こしに来た昼行灯に頭突きまで喰らわせた。おまけに、本日締切の仕事も、この始末。確実に、何かしらのお仕置きが来る。
ヨリコがいるので、スリーパーホールドやデスバレーボムをお見舞いされることはないだろうが、怒濤の説教か、仕事の大量投下。或いは、その両方は、回避出来そうにない。

何卒慈悲を、というように、サカナは執行人と化した昼行灯を見上げた。


ランプの形相は、こんな時に限って何を考えているのかよく分からない様子で、それが非常に恐ろしい。

怯え、震えながら、サカナは昼行灯からの宣告を待つことになったのだが。


「……あと三十分で完成させて、もう一度見せてください。ハルイチさんにも、チェックしていただきますので」

「は……はい…………」


何分忙しいことや、早い内に完成したデータが欲しいということを考慮し、昼行灯はサカナを罰することを止めた。
彼を叱り付ける時間、キーボードを打ち込ませていた方が、今はいい。説教なら、後でも出来ることだし。

そんな訳で、必死に仕事に取り組まざるを得なくなったサカナは、思考回路をフル回転させて、データ作成を再開した。

見逃してもらえたなら、そのまま何事も起こらぬように努めるしかない。

なるべく早く、かつクオリティは高く仕上げなければと、サカナは使用する写真のフォルダを開き、ふんぞり返る男の顔に向かって、短い溜め息を吐いた。


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