モノツキ | ナノ
かんかん、革靴の底が鉄製の階段を踏む度に小気味良い音を立て、古びた雑居ビルの薄暗い階段を、一人の少女が上っていった。
セーラー服、学生鞄、流行りのキャラクターマスコットキーホルダー。
どれもこのビルの雰囲気にまるで似つかわしくなく、少女もまた、さらっとした黒髪、ぱっちりとした眼、血色のよい丸い頬と、こんな寂れたビルよりも、駅前のショッピングモールの方が似合いと言える。
「えっと…」
がさり、少女はスカートのポケットから一枚の紙を取出し、蒼い瞳を動かして、そこに書かれた文字をなぞった。
「帝都第二地区八番街、月光ビル三階…うん、間違いなし!」
顔を上げてみた先には、寂れたビルに相応しい、ところどころ錆びた鉄扉。
唯一四角く切り取られたところにはめ込まれたガラスには、少女が求めていた文字があった。
――有限会社ツキカゲ。
華やかな駅前から徒歩十五分。およそ此処と似たような雑居ビルが群れなす中に位置する、小さな会社だ。
少女は扉の前で、すぅと深呼吸すると、ばっと顔を上げ、意を決し拳で鉄扉をコンコンと叩いた。
思ったよりも薄い扉なのか、どことなく頼りない音が薄暗い廊下に響き渡り、それから数拍置いて、少女が口を開いた。
「すみませーん!先日アルバイトの採用を受けた者ですがー!」
そう、少女はこの寂れたビルの小さな会社のアルバイトだった。
一週間前、道端で見つけたバイト募集の広告。そこに書かれた「清掃アルバイト募集。週三回から時給千五百円」というアルバイトにしては破格の時給に釣られるまま電話をかけたところ、先日採用の電話がかかってきた為、彼女は時給千五百円の掃除をすべくここまでやってきた訳だ。
此処がどんな会社かも知らず電話し、千五百円もの時給を払ってくれるにしてはなんとも胡散臭いビルに入っても、少女の頭には人生初めてのバイトに馳せる思いと、今後豊かになるであろう自分の生活のことでいっぱいだった。
これでもし、中から額に傷のある刺青男が出てきてどこへなりと売り飛ばされようが、
薄汚れた白衣を着た科学者に薬物実験を施されようが、人はみな口を揃えて少女の自業自得というだろう。
そんなおめでたい頭の少女は、もう一度扉をノックして、はきはきと大きな声を出す。
中から明かりは射してきている。全員電気をつけたままお休み中、でもない限り、誰かがこの扉を開けてくるのは確実だ。
「あのー、誰かいませんかー?」
少女はなんとなく、ひっそりと光るドアノブには触れてはいけない気がした。
何があるかなど分からないが、本能のどこかで手がドアノブを掴もうとしなかった。
しかし、これだけ呼んでもこないとは何事か。
少女はもう一度ノックしようと腕を上げた。その時だ。
ベギャァ!!と派手な音を上げ、鉄扉が人の形に歪み、何が起こったのか理解する間もなくもう一撃がやってきた。
その瞬間、少女は、はっと本能的に横に避けた。
同時に扉はまるで轢かれた猫のように吹き飛び、中から二人男が飛び出してきて、そのまま階段の下へと落ちて行った。
「な、なななななななななな…」
数秒して少女はやっと、震える喉から声が出せた。
自分は確か、バイトの採用通知を受けてここに来たはず。
それなのに、何故扉を破壊して飛び出してきた男たちが呻きながらぐったりとしていく様を見ているのか。
もし、あのまま茫然と立ち尽くしていたら、自分はどうなっていたのか。
あらゆる事象が少女の脚から力を奪い、そこから立ち上がることも逃げることも出来なくしていた。
そして、ざり、と埃っぽい廊下を踏む、磨かれた革靴に目に映った瞬間。少女はようやく自分が愚かだったことに気がついた。
あぁ、せめて中から現れた人物が私に気づきませんように。
気が遠くなっていく中、少女がそんなことを思った時だ。
「これに懲りたら、もう謝礼金を踏み倒すなんて真似…ご勘弁してくださいね」
酷くゆったりとした、品すら感じさせる男の声がした。
少女は驚いた。てっきり、聞くに堪えない罵声を飛ばす大声か、銃声でもこだまするのではと思っていた矢先、廊下に響いたのは優男を彷彿とさせる、どこかしっとりとした声だったからだ。
しかし、それはまだ序の口に過ぎなかった。
ゆっくり、足先から視線を上げていくと、目に映るはきっちりとした黒いスーツ、まるでモデルのような長身痩躯。
だが、更にその先に待ち構えていたのは――
「…あ、あの…貴方の、その、頭……」
ゆらり、と蝋燭を囲む鉄製の黒い檻。薄暗い廊下を淡く照らすそれは、紛れもないランプだった。
「貴方…モノツキじゃないんですか?」
少女の絶叫がビルを震わせた。