モノツキ | ナノ


剥離していく破片が、溢れ出る赤黒く濁った液体に押し流されていく。

それはまるで、一つの生き物が死に絶えてから朽ちてゆくまでを見ているかのようで。
誰もが、原型を止めぬ有り様に成り果てた茶々子の頭部を眺めながら、ただ、彼女の言葉を耳に流し込んでいた。


「……先に気付いたのは、すすぎくんかな。でも、こうしようって言ったのはヨリちゃん……そうでしょう?」


崩れ落ちていく顔を押さえることもせず、茶々子は注ぎ口をヨリコへ向けた。

いつも彼女の周囲は、紅茶の香りが漂っているというのに、今は血膿のような酷い匂いがする。
その噎せ返るような匂いに侵された空気の中。茶々子は自棄になったのか、軋めく笑い声を零した。


「ほんと……ヨリちゃんってすごくすごく優しいけど……それと同じくらい残酷だわ。ヨリちゃんのそういうところ……私、怖かった」

「茶々子、さん」

「……今思えば、それは予感だったのね」


ごぽり、と音を立てて、より黒く濁った液体が込み上げる。
それはまるで、淀み切った彼女の感情を体現しているかのようで、ヨリコは思わず、眼を閉じたくなった。

恐ろしくなったではない。これだけの穢れを茶々子が溜め込んでいたことに、堪えられなかったのだ。


それでも、ヨリコは震える拳を握り締めながら、茶々子を見詰めた。

今日まで見えなかった彼女の心から、眼を逸らしてはならない。これを曝したのは、他ならぬ自分なのだからと。
ヨリコは、崩れていく茶々子の姿に、何処か調子外れた声に、開示された彼女の本心に向き合った。


「ねぇ、ヨリちゃん。貴方はきっと自覚していないだろうけどね……貴方は、これまで多くの人を救ってきたのよ。
火縄も、サカナちゃんも……神様に呪われた人以外だって、そう。
貴方が、その人の本当に求めているものを見抜いて、それを手に出来るようにと導いてあげたことで、みんな救われてきた」


誰も口にしなかったが、誰もが感じていた。
奇跡でも起こらなければ救われる筈のない者達が、ヨリコの言葉や行動で、”真実の愛”に到達し、救済を得ている、と。
彼女が来てから、三人ものモノツキが救われたのだ。これが偶然や、幸運の類ではないことを、当のヨリコ以外が察していた。

それが暗黙の了解とされていたのは、ヨリコがこれを自覚することで、残された面々を救おうと意識してしまうことを回避する為にあった。

心優しい彼女のことだ。自分にもし、誰かを救う力があると知ったなら、今すぐにでもと躍起になって、空回りすることだろう。それでは、駄目なのだ。


ヨリコは、自分が火縄ガン達を救う切っ掛けになったなど、思ってもいなかった。自ら努めて、彼女達の呪いを断ち切ろうとしてもいなかった。

彼女は、目の前にいる人が抱えている苦痛や悲しみが見えていた。
それを取り除いてやりたいという気持ちにヨリコは突き動かされ、その果てに口にした言葉や、起こした行動が、火縄ガン達の救済の道を照らしてきた。

純粋な、慈悲の心。それこそが、何度も救いを齎してきた、ヨリコの力の源だ。


そこに余計な意識を持ち込んではならないと、社員達は口を噤んできた。

未だ救われない者達の呪いさえ解いてくれる可能性を、彼女は持ち合わせている。だから、彼女の優しさが奇跡を呼び込むその時まで、急かすことなく待ち続けていようと。社員達は沈黙していた。

だが、気付いてしまった以上、期待をしてしまうのは仕方のないことで――。


「私ね……どうしてだろうって、思ってたの。どうして、みんな救われていくのに、私は救われないんだろう……って」


黙って、ただ待っているだけの日々は、茶々子にはとても堪えられなかった。

近くにある筈なのに、手が届かない。檻越しに、夢幻のような望みをちらつかされているような状態で、次々と解放されていく者達を見送っては、耐え忍ぶ。
どれだけ心が悲鳴を上げようと、押し殺して。泣き喚きたい気持ちも掻き消して。
そうして、本当に来るのかも分からない”いつか”を待ち望む内に、茶々子の願いは様々な想いで混濁してしまった。


「人を殺してきた火縄も、人を騙してきたサカナちゃんも、みんな救われてきたのに……何もしていない私は、いつまで経っても救われなくて。
なんで皆ばっかり救われて、私は駄目なんだろうって……。そんなこと思っちゃうから、私は救われないんだって……考えれば考えるだけ、心が濁って。
そんな気持ちでいたくないから、誰か私を救ってくれないかって願って……願えば願う程、また妬んだり、疎んだりして……また濁って…………」


自らの顔を手で覆い、ぐしゃぐしゃと破片を剥ぎ取るようにしながら、茶々子は更に、濁った感情を吐き出していく。


「もう……もう無理なの!!堪えられないの!!誰かを妬んだり、恨んだり、それに自己嫌悪したり……うんざりなの!!」


悲痛な叫びを上げながら、茶々子は爪が食い込む程に、顔を掻く。

その痛みがなければ、呑み込まれそうだった。
滂沱していくどす黒い感情に、襲い来る過去の奔流に、意識を攫われてしまいそうだった。


未だ、駄目だ。未だ、言いたいことがある。言わなければ、気が済まないことがある。
どうせ壊れてしまうのなら、一つとして残すことなく吐露しなければ。

だから、泣き崩れたりなんてするなと、茶々子は自身を奮い立たせるように爪を立てながら、叫喚した。


「どうして私が、こんな想いをしなくちゃいけないの!どうして私だけ、許してもらえないの!私は何も、悪いことなんてしていないのに!!」


不満だった。納得いかなかった。
あの時も、今も。自分だけが惨めな想いを負うことが、彼女は許せなかった。


――こんなことになるのなら、もっと早くに壊してしまえばよかったのに。


そんな、今更どうにもならない考えと共に、脳裏に過る記憶の数々が、彼女の罅を一層大きくしていった。


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