モノツキ | ナノ


「あぁぁ……またやっちゃったぁ……」


廊下の壁に額をごちんとぶつけ、ヨリコは弱々しい嘆き声を響かせた。


サカヅキの一件以降。入院した昼行灯を見舞いに行き、会話を交わし、改めて彼に触れたことで、ヨリコは強く自覚してしまった。

自分は、昼行灯が好きだ。人として、上司として、もあるが。それ以上に、昼行灯が異性として、恋愛対象として、好きになっている。

それまで当たり前に抱いていた好意が、実は恋心の現れだったのだと。そう知ってしまったヨリコは、酷く戸惑った。


生まれてこの方。記憶にある中では、これまで恋などしたことなかった。自分は恋愛とは無縁だと思っていた。
話には聞いていたが、それだけのことで。自分が実際に、誰かを恋い慕うことなど、有り得ないとさえ、漠然と感じていた。

だから、ヨリコは対処する術を知らなかった。

初めて強く惹かれた異性に対し、どう接したらいいのか。彼に抱いた感情を、どのように処理したらいいのか。
何一つとて分からず、ただひたすらに困惑しているものだから、ヨリコは思わず昼行灯から逃げ回っているのだが。


「こんなんじゃ……昼さんに嫌われちゃうのに…………私のバカ……バカぁ……」


前のように、当たり前に対話し、何気ないことで笑い合ったり、彼の近くであの温かみを感じていたいというのに。
昼行灯の姿を見るだけで体中がざわめいて、心臓が喧しくて、頬が熱を持って、落ち着けない。まともに思考出来やしない。

そんな醜態を曝したくなくて、己に生じた異常を悟られたくなくて、足が勝手に動いて、昼行灯から遠ざかってしまう。

これでは、彼にいつか呆れられ、見限られてしまうというのに。ヨリコには何一つとて、策が浮かばなかった。


どうしたらいいのか、誰に相談したらいいのかも分からない。

そも、昼行灯は大人で、アルバイト先の上司で。そんな相手を好きになってしまったなど、話していいものとも思えなかった。

自分のような子供が、不釣り合いな恋をして、笑われてしまうのではないか。相手に迷惑をかけるだけだと言われてしまうのではないか。諦めるべきだと、諭されてしまうのではないか。
そうした不安もあって、ヨリコは塞ぎ込んでいた。

右も左も分からぬ、初めての恋。これに如何様に向き合い、どのように進んで行けばいいのか。はたまた、引き下がったらいいのか。
指針も地図もない場所に放り出されてしまったようで、ヨリコは泣きたくなってきた。


だが、こんなところでめそめそしている場合ではない。

今はアルバイト中。こうしている間にも時給は発生しているのだから、その分働かなければ。

ヨリコはのろのろと姿勢を直し、傍らに置いていたゴミ袋を持ちあげた。その時。


「ヨリコさん」

「ひゃいっ?!!」


勢い余って飛び出すかと思った心臓が、バクバクバクバク、破裂しそうなくらい鼓動を鳴らす。

このまま胸が破けて、死んでしまうのではないか。
そんな気にさえなるくらい痛む胸を押さえながら、ヨリコはおっかなびっくり、声のした後方へと振り向いた。


「す……すみません。いきなり声を掛けてしまって…………」

「ひ、ひひ、昼さん……」


また思わず、腰が引けて、足が下がる。それを、昼行灯にしかと見られてしまったような気がして、ヨリコはおずおずとその場に立ち直した。

いい加減、咎められてしまう。いや、今まさに、ここ最近の無礼について問われようとしているのではないか。
びくびくと昼行灯を窺いながら、ヨリコは必死にこの場を切り抜ける方法を考えた。

まずは、避けてしまっていたことを詫びて、それから、決して昼行灯が悪いとかではなく、自分のせいなのだと説明して。
どうにか昼行灯に対する想いについては暈して、上手いこと理解してもらわなければ――。

ヨリコの頭はショート寸前の状態で無駄に回って、オーバーヒートを起こし兼ねなかったが、その暴熱は、昼行灯の一言によってすんと冷まされた。


「あの……また唐突で、大変申し訳ないのですが……今度の日曜、お暇だったりしませんか……?」

「…………へ?」


慌てふためいているのは、ヨリコだけではない。一見冷静に見えるが、昼行灯もまた、内心激しく揺れていた。

本当に大丈夫なのか、こんなことを言ってヨリコに辟易されないか。だが、残された時間や好機にも限りが。
その焦りのままに口走り、まずヨリコの本懐を探る筈が、つい本題を切り出してしまった昼行灯は、何とか繕わねばと、捲し立てるように言葉を付け足していく。


「いえ、あの……もうすぐ、ヨリコさんがツキカゲに来て、一年になるじゃないですか。
この一年、ヨリコさんは実によく働いてくださって、その……感謝を何かしらの形でさせていただきたいと言いますか……。
またウライチになってしまうのですが、お食事でも、と思いまして…………」


嗚呼、やってしまった。

もっと他にも上手い誘い方があったろうに。これでは、もしかしたら貰えていたかもしれない承諾を、取り逃がしたっておかしくない。

昼行灯は、最早こうなったら祈るしかないと、内心手を合わせながら、ヨリコの返答を待った。


暫し、突き刺すような静寂が立ち込める。

その居た堪れなさに立ち尽くしていると、突然堰を切ったように、ヨリコがボロボロと泣き出した。


何が起きたのか、理解するのに数秒。

ヨリコの眼から流れた涙が廊下に落ちて、滴が弾けて、ようやく彼女が泣いていることを把握した昼行灯は、遅れてやって来た驚愕に煽られるままに叫んだ。


「ヨ、ヨリコさん?!」

「ご……ごめんなさい……あの、私……私ぃ…………っ」


えぐえぐと嗚咽を零しながら、ヨリコは懸命に何か言わんとしたが、拭った側から出てくる涙で袖が濡れていくばかりで。
早く、ちゃんと説明しなければと慌てれば慌てる程、パニックになって更に喋れなくなってしまい。ヨリコがこんな調子なので、昼行灯も完全に狼狽え。泣いているヨリコをどうにかしなければと必死になって、泣かれたショックに拉げるのも忘れていた。


「こ、此方こそ、申し訳ございません!!あの、そんなに嫌がられるとは思ってもいなくて、軽率に……」

「ちが……違うんですぅう……っ」


自分の態度から生まれた齟齬が、とんでもない展開を作ってしまっている。

それに気付いたヨリコは、何とか昼行灯に弁明しなければと、ぶんぶん首を横に振りながら、喉から言葉を搾り出した。


「さ、最近、私……昼さんのこと避けちゃってて…………あの、昼さんのことが嫌いになったとかじゃなくて、けど、どうしてもっていうか、反射的に逃げちゃってて……。
それで、昼さんに嫌われちゃってないかって思ってて……謝らなくちゃって、思ってて…………。
それなのに、こんな私に昼さんが気を遣ってくださって……それが申し訳ないのと、嬉しいのとで……う……うぅぅ…………」

「ごごご、ごめんなさい!!何が何だか、よく理解出来ていないのですが、とにかくすみません!!あああ、泣かないでくださいヨリコさん!!」


昼行灯はスーツの胸ポケットからハンカチを取り出し、ヨリコの顔を優しく拭ってやった。

正直、未だによく状況が分かっていない昼行灯であったが、ともかく、ヨリコが自分のことを嫌っていたのではないこと。
デートに誘われたのが嫌で泣いてしまったのではないことは、はっきりした。

お蔭で、自分の方はだいぶ平静を取り戻せていると、他人事のように感じつつ、昼行灯は幼児さながらにぐずるヨリコをあやしてやった。


「た……確かに、ヨリコさんに避けられて、その……悲しかったですが。それで貴方のことを嫌いになったりは、しないですよ……。
貴方が、私のことを嫌っていなかったというのが分かっただけで十分ですから、もう気にしないでください」

「うぅ……本当に、ごめんなさい…………」

「あぁ、また……」


結局、どういう理由で避けられていたのかは不明だが。問い質せばまたヨリコが泣いてしまいそうな気がしたので、やめた。

徐々に落ち着いてきてくれているし、ヨリコが自分に対し、泣いてしまうくらい申し訳ないという気持ちを抱く程度に好意的、ということも判明した。
それだけで、今は十分だと済ませて、濡れたヨリコの睫毛をちょんちょんと拭ってやった後。昼行灯は、改めて、と咳払いした。


「それで……その…………どうでしょう。お食事の件……」


避けられていた理由については、追々聞いてもいいが、此方については今、答えをもらっておきたい。

有耶無耶のままにオフィスに戻っては、社員達に何を言われるか分かったものではないし。何より、今聞き逃したら、再度問い直すことが非常に困難な気がして。

またも祈るように返事を待つ昼行灯の前で、ヨリコは「あ、え、えっと…………」とあたふたしながら、考えた。


この流れで、昼行灯に対しどう答えるのがベストなのだろう。
無礼を働いたことを思えば、自分に労われる道理などないのだからと、丁重に断わるべきだ。
しかし、せっかくの昼行灯の善意を蔑ろにしてしまうのも、如何なものか。

悩み、迷い、葛藤しながら、暫し黙りこくって。ヨリコは恐る恐る、昼行灯の顔を見た。

風もないのに不規則に揺れる蝋燭の炎を見ても、汲み取れることはたかが知れている。
だが、なんとなく。彼も自分同様、不安を抱えているように思えて。
ヨリコは、思い切るべきなのではないかと、崖に飛び込むような気持ちを携えて、口を開いた。


「わ……私なんかでよかったら……お願い、します。その……昼さんさえ、よろしければ…………」


prev next

back









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -