モノツキ | ナノ
「クッソ……すすぎも修治も俺のことバカにしてやがってよぉぉ……」
逃げるようにオフィスから出たシグナルは、自室に向わんと階段をのそのそと上った。
仕事から戻ってきたばかりというのもあるが、運んできた荷物がアレだったこと、短時間で叫び散らかしたことで、どっと疲れた。
今日はもう部屋に戻って、塩を撒いて寝よう。報告書は明日、起きたら書いて、昼行灯の顔面に握り拳と共に叩き込んでやる。
こうなったのも全部アイツのせいだと、ぶつくさと文句を口にしながら、シグナルは自室のある五階の廊下に出た。その時だった。
「あっ、シ、シグ……」
「…………髑髏路ぃ」
またなんとタイミングの良いことか、いや、やはり悪いことか。
ちょうど荷物を抱え、部屋から出て来た髑髏路とばったり出くわしたシグナルは、今日も今日とて律儀にマスクを被る髑髏路に、眉を顰めた。
「おかえり……仕事、終わったの?」
「ん、あぁ……まぁ、なぁぁ」
「そっか……お疲れ様」
マスクを被っていてもいなくとも、モノツキである彼女がどんな顔をしているのか、当人以外には分からない。
だが、帰ってきた自分と偶然出くわした髑髏路が、嬉しそうにしているのは声から汲み取れる。
かつて道路に身を投げ出そうとしたところを助けたことから、髑髏路は自分に恩を感じているらしい。
その時のことはあまり覚えていないのだが、ともかく彼女は自分に懐いているのだと、シグナルは認識していた。
昼行灯が口喧しい時には此方に付いて庇ってくれるし、面倒な雑務は率先して手伝ってくれるし、他の社員とはあまり話さないが自分にはかなり話しかけてくる。
それにあの日――ツキカゲを離脱しようとした時も、彼女は昼行灯に頼み込んで、自分に事の真相を伝えてくれた。
そうしてこの場所に引き戻してくれて、再就職の面接前も励ましてくれて……と、髑髏路が今日まで自分にしてくれたことを思い出して、シグナルは胸にざくざくと、見えない槍が刺さっていくような感覚に見舞われた。
いくら恩義があるとはいえ、こうも献身的に支えてくれている彼女に、自分がしてきたことと言えば……。
確かに、すすぎあらいの言う通り、これでは髑髏路が可哀想だとシグナルは項垂れた。
(子供の頃見た映画が怖かったから、過剰に警戒して食わず嫌いしてるだけに思えるんだよね、シグナル。今もう一回、その映画見てみたら?)
いやでも、それは無理なんだってと、シグナルは一人問答した。
シグナルとて、何度も同じように思った。あの時は子供だったから怖かっただけで、大人になった今なら克服出来るだろうと、そう思った。
思っただけで、実際に自分から挑戦したことはなかった。
これまで何度かしてきた、ホラー映画を見たり、心霊スポットに立ち入ったりといったチャレンジは、どれも強制的に、誰かにやらされたものだった。
罰ゲームだの、酔ったノリだの、報告書が遅れた仕置きだの――そうして”チャレンジさせられてきた”シグナルであったが、どれも泣き叫びながら最終的に気絶で終わっている。
情けないとは思えど、こればかりは仕方ないことだと、シグナルはこれまで変わらずにいたことについて、思い悩んだりしなかった。
人間、どうしても変えられない一点はあるものだ。自分のそれは、この恐怖症で。
今後の人生に於いて、治さなければ大問題を引き起こすということもないし、このままでもいいだろうと。シグナルは、自ら挑むことを放棄してきた。
しかし、すすぎあらいに咎められたことで、シグナルは初めて、己のこの性を心底苦慮した。
自分の為に心を痛め、全てを懸けて真実を伝えてくれて、救済の手助けをしてくれた彼女に、このまま顔を隠させていものか。
居た堪れなくなり、手持無沙汰に後頭部を掻くと、耳のピアスの冷たさに、また咎め立てられた。
そういえば、今つけているピアスは、髑髏路が再就職祝いにとくれたものだったと、シグナルは唸りたくなってきた。
(やり方が悪かったんじゃないの?)
本当に、そうなのか。これまでは、方法が悪かっただけで、見込みはあるのか。一歩踏み出す意味は、あるのか。
ぐるぐると掻き混ぜられていく、恐怖心やら葛藤やらで、眩暈や吐き気を催しそうだ。
それでも、此処で引き下がっては、本当にどうしようもないのではないか。
目の前で立ち止まったまま、動きもせず、頭を掻き毟っている自分を見て、どうかしたのかと不安そうにしている髑髏路を見て、シグナルは覚悟を決めた。
「シ、シグ……?」
此方を心配して、そろりと伸ばされた手を、シグナルは反射的に掴んだ。
同時に、「ひっ」と短い声が上がるが、それを気にしている余裕は、彼には無かった。
今のシグナルは、ついに自ら打ち立ててしまった難題に立ち向かうことに、ひたすら一生懸命だったのだ。
「……夜、時間あるかぁ?髑髏路ぃ」
「………………え、」