モノツキ | ナノ
知らない道を歩くのは、いつだって勇気がいる。
見知らぬ景色に拒まれる感覚は体内に入った異物の気分になり、迷わぬよう迷わぬようにと道を探るのも、気が滅入る。
だがそれでもヨリコは進む。調べた道筋をメモした紙と、一枚の葉書を頼りに。
電柱に記載された現在地を確認しながら慎重に道を行き、やがてヨリコは目的地へと到達した。
手に握っていた葉書の裏に記された住所と、恐らく一致しているだろう其処は、とあるマンションの一室だった。
そう古くはないが、別段新しくもない。言ってしまえば、よくも悪くも有り触れたような集合住宅。
郵便ポストで確認した名前は、確かに彼女が尋ねたかった――此処まで来る為に利用した年賀葉書を出した人物と、一致する。
ヨリコはすぅと、扉の前で息を吸い込んだ。
そして、一呼吸置いて覚悟を決めると、ヨリコは震えそうな指先でインターホンを押した。
ピンポーン、と鳴り響くこの音は、どうにも落ち着かない。
ヨリコは嫌に緊張する心臓を押さえながら、扉から一歩下がって、扉の向こうから何かしらの反応が来るのを待った。
彼女は、この先にいる人物に来訪の旨を伝えていない。
ケイナに激励を掛けられたを切っ掛けに、彼女は突発的に此処を訪れることを決め。一度家に戻って、年賀葉書を出し、地図で住所を調べてからやって来たのだ。
計画性など微塵もない。相手の都合もまるで考えていない。
だがそれでも、ヨリコは此処をどうしても訪れたかった。そして、扉の向こうにいるかもしれない人物と――
「はぁい」
心臓が不穏な鼓動を刻んでから数秒。中から受け答えの声と、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
数回しか聞いたことがないが、それは確かにヨリコが求めていた人物の声だった。
少しばかしの安堵感が脈を落ち着かせるのも束の間。ドアの鍵がキシッと動き、ドアノブが捩じられると、新しい不安が押し寄せてくる。
今すぐ、此処に来るまでの時間へと逃げ出してしまいたい。
そんな気持ちを堪えるようにヨリコは手を握り締め、開かれたドアの先で眼を見開いた人物へと、頭を下げた。
「……あ、あの………突然、すみません…」
ぱちくりと瞬きをするその人は、温かい黒の瞳を丸くして、暫くぽかんと口を開いていた。
しかし恐々とヨリコが顔を上げると、彼女はすぐに、あの写真のような柔らかい笑みを浮かべた。
「…いらっしゃい、ヨリコちゃん」
怖れていたもの全てを溶かすような優しい笑顔で迎い入れられ。堪え切れず、ヨリコはシオネに泣き付くように抱き着いた。
「…成る程、そんなことがあったのね」
リビングに通されたヨリコは、シオネに出された紅茶を手に、全てを話した。
備え付けのベビーベッドで眠っている赤ん坊――シオネと薄紅の娘、シヅキを起こさないよう声を抑えながら、ヒナミのこと、昼行灯のこと、自分のこと。全てを打ち明けた上で、ヨリコは沈黙した。
話していて、堪えうるものではないと改めて絶望してしまったのだ。
昼行灯の抱える痛みと、それから彼を救ってやれない自分の無力さと、拒絶されてしまった悲しみ。
何もかもどうにもならないことばかりで、ヨリコはもう何も言えなかったし、何をすればいいのかも分からなかった。
目指す先も道も見失い、立ち止まってしまったヨリコが頼れるのは、今、シオネしかいなかった。
それを察しているシオネは、暫くあれこれ考えながら紅茶を啜り、やがてカップをテーブルに置いた。
実の所、シオネは全てを知っていた。
夫である薄紅伝に話を聞いただけだが、それでも彼女は、昼行灯の素性からヒナミ来訪の件まで、全て知っていた。
その上で彼女は、ヨリコの話を一から聞いて、考えた。
彼女の苦悩を彼女の言葉で聞いて。そうしてようやく全てが揃ったと、頭の中であれこれと纏め終えると、シオネは口を開いた。
「…ねぇ、ヨリちゃん。貴方はどうしたい?」
「……どう、といいますと」
「ヒナミさんのところで働くか、ツキカゲで働き続けるか……どっちも取っちゃうか、或いは両方やめちゃうか」
話し終えてから紅茶の水面に視線を落としていたヨリコが、顔を上げた。
彼女の顔は、何を、と訴えかけているが。シオネはそれを眼で宥めて、続ける。
「昼さんがどうとかじゃなく、貴方の気持ちだけで答えて。余計なことは、今は無視していいから」
酷く優しくそう言われ、ヨリコはまた俯いた。
今、自分には選択権はない。昼行灯から拒否され、退路を塞がれてしまった彼女には、選べる先などない。
これまでのように、強い流れに翻弄されるように、行くべき場所へ流れて行くしかない。
それを変える術はないかと此処に来たのだが――シオネの言葉が、暗い海の中で転覆しそうな自分を、きっと救ってくれるに違いない。
そう信じたヨリコは、目を伏せて考えた。
「……私、は」
思考を始めると、あらゆるものが頭の中で鬩ぎ合う。ああだからこうだからと、彼女を苛んでいるもの達がこぞって責め立てて、その言葉を紡がせまいとする。
だが、シオネはそれを無視しろと言った。
悪夢に魘された子供に、忘れてしまいなさいと言うような。あの優しい声を思い出すと、頭痛を引き起こしかねない程に脳内で吹き荒んでいたノイズが、嘘のように消えた。
そうすると、捨て去ろうとしていた心が見えてきた。
これを抱えることを許可されなかったが為に、見ないようにとしてきた本心が、ヨリコの前にぽつんと佇んでいた。
両手で掬い取るようにそれを手に取ると、ヨリコの喉で立ち往生していた本音が、声になった。
「私は…ツキカゲにいたいです」
この望みを口にすることは、もう許されない。それでも、もしも。もしも望んでいいのなら――。
ヨリコはぎゅうとスカートを掴む手を握り固め、まるでこれから裁かれる罪人のように釈明を始めた。
「ヒナミさんのお誘いはとっても嬉しいです。でも私は…ツキカゲでもヒナミさんのとこでも働ける器用さなんてないし……あの、でも」
恐る恐る視線を上げると、シオネが首を横に振って、ヨリコを制止した。もうこれ以上、自分を追い詰めなくていい、と。
そして、また拾ってしまった心の重みに打ちひしがれるヨリコに、シオネは本題を切り出すことにした
「ヨリちゃん。あくまで私個人の考えに過ぎないんだけど……人ってね、幸せになりたいって気持ちが全ての原動力だと思うの」
突然語られた持論に、ヨリコは眼を見開いた。しかし、これは結論に至るまでの一歩なのだと、ヨリコは何も言わずに黙って話を聞き届ける。
その姿勢を感じ取ったのか、シオネも話の切り出しであることを補足せずに続ける。
「食べるのも、寝るのも、息をするのも、働くのも……時に誰かを傷付けるのも、みんな幸せになりたいからそうするの。
自分で自分を傷付けるのも……おかしなことかもしれないけど、貴方には分かるんじゃないかしら。本心を隠して、嘘を吐いて……それでも誰かの為になるのなら…それが自分の幸せだって」
シオネの言うことは、的を得ていた。
例えばもし、今。昼行灯の心の痛みを吸い出し、自分に移し替える機械があったのなら、ヨリコはそれを迷わずに使うだろう。
それが弱い自分では到底堪えられない程の痛みをも厭わず。かつて自分を救ってくれた昼行灯を、無力極まりない自分でも救えるのなら、それ以上の幸福はないと享受するだろう。
シオネの持論は非常に納得がいく。しかしそれが一体、という疑問が芽生える中。
「昼さんもそうよ」
今のヨリコにとって、とても信じがたい言葉が、胸に突き刺さった。
「本当は貴方にツキカゲにいてほしい。けれど、ヒナミさんのところに行った方が貴方は幸せになれるって…。
そう考えて、あの人はヨリちゃんのことを傷付けるのも承知で突き放したの。大切な貴方が幸せになることで、自分は報われるんだ……ってね」
「…………、」
反論は、やはり許可されなかった。シオネに眼で宥められ、ヨリコは出しそびれた言葉を舌の上で苦々しく転がす。
彼女が言いたいことは分かった。だが、それでもまだ納得がいかないのだ。
昼行灯が抱える闇の前では、ただの女子高生でしかないヨリコは果てしなく無力だ。
社員達のように彼の為になる能力もない。それどころか、彼の傷を知って尻込みさえしてしまった自分を、彼が必要としているのかと。
ヨリコはとても信じられなかったが、シオネはその誤解を丁寧に解いていく。その過程で、小さくなってきた傷を自ら引っ掻くことも辞さずに。
「…ヨリちゃん、少しだけ……長い話をするわね」
シオネの表情に刹那、翳りが見えた。だが、それでも尚笑う彼女の瞳に揺らぎない強さを感じたヨリコは、覚悟を決めるように頷いた。
「……私の母はね、モノツキだったの」