今朝の夢の 残り抱いて 3 | ナノ

夢を見た。

「ふあっ…んっ…ううっ…」

誰かの息遣いがすぐ傍でリアルに感じられる。目の前は真っ暗で何も見えないのに、声だけが鮮明にその空間に響き渡っていた。
そうして自分の手の中にあたたかい感触と、揺れ動く体が乗っかっていることに気がついた。

「はぁ…あぁ…っ…」

懸命に闇に紛れるように押し殺してはいたが、その声には聞き覚えがあった。
だがまさか、そんなことはないだろうとはっきりとした意識を持ちながら俺自身は考えていた。
どう考えても、ありえないと。
憶測を確信に変える為に、もう一度甘く艶っぽくねだるように啼いて欲しいと願った。

「やっぁ、は…ああっ…うはぁん…」

すると今度こそしっかりと、耳元でその高い声を聞いた。

(これは―――の声だ)

毎日顔を合わせていたが、はじめてだこんなにも欲情に濡れた色っぽい声を聞くのは。まさか聞くことになるとは、思わなかったというのが正しい。
男がこんなまるで淫乱な女のように、高い声を出せるものなのか?誰にも心を許さずに、いつも虚勢ばかりを張っているあいつが、体を委ねられるのか?
あまりに驚いていて、指一本も動けなかった。ただ荒く、獣のような欲望に満ちた呼吸だけを繰り返して。下半身がずくずくと疼いて、少し苦しくて。

(なんでこんなことになってんだ?)

自分の股間が硬くなって反応しているのだけは、はっきりと認識できた。
今こんなあえぎ声を出してるのは、あのノミ蟲なのに。常に喧嘩ばかりしてきて、二人の仲は最悪で嫌い、死ね、と罵り合っているというのに。

(あまりにも信じられないことばかりじゃねぇか。夢にしたってひでえ)
「んはあああっ……!」

たまらないとばかりに耳に吹きかけながら吐かれる溜め息に、くすぐったくて肩を竦めたかったがどうにもできずにいた。
仕方が無いので熱を持て余したまま、なんとかやり過ごすことに決めた。本当はかなり苦しくてしょうがないのだが、こいつの邪魔するのもなんだか悪くて。どう声を掛けていいかわからなくて。
もう少し聞いていたくて、寝たふりをしてじっと聞き入った。
次第に意識が勝手に朦朧としていった。

「シズちゃん?」
「……ッ!?」

耳元で低く囁かれた自分の名前に驚いて、一気に飛び起きた。

「今日は目覚めがいいみたいだね。おはようもうお昼だよ。ドタチンも新羅ももう先に屋上に行って場所取りしてるから早く行こう?」
「あ…あぁ……」

俺の返事は教室の扉を乱暴に閉める音にかき消された。こうやって臨也が昼飯だと呼びに来るのは、いつものことだった。
入学当初に昼ばかりは休戦だと言い渡して、新羅・門田・俺・臨也の四人で一緒に食べるようになった。
いたって普通のことなのにこうして過剰に動揺するのは、昨晩の夢の声が今でも耳から離れないからだろうか。

『ふあっ…んっ…ううっ…』
「ッ…!なんだってんだ!!」

こめかみを指で押さえながら、一人叫んだ。
思い出すたびに胸の辺りがやけにざわめき、ますます心に響き渡っていくのだ。考えないようにするたびに、それは繰り返される。ちょっとした病気なんかより性質が悪かった。
さすがに学校で欲情することはなかったが、朝はそれはもう酷いことになっていた。おかげで遅刻しかけるし、散々なことばかりだった。
とにかく冷静に、落ち着けと自分に言い聞かせながら椅子から立ちあがって教室を出て行った。

屋上の扉を開けると自分以外の三人が揃って、昼ご飯を既に食べ始めてていた。

「静雄授業中ぐっすり寝てたけど大丈夫だった?まだ疲れが残ってるのかな」
「あんなに頑丈なのに疲れてるとかおかしくない。俺の方がよっぽど疲れてるよ!」
「そりゃ臨也はあんま食べねえからだろうが。もっとちゃんとバランスよく食べろ。トマトも勝手に俺の弁当箱に入れるんじゃねえ」
「ドタチンのケチぃ」

いつものように騒がしく三人が談笑していて、俺はその輪の中にはうまく入れないのだが、今はそれがとても心地よかった。余計な夢のことを一時でも忘れられるからだ。
空いた場所に座り無言で手を合わせた後持ってきた弁当箱を開けて食べようとして、すぐ横から声を掛けてきたのは新羅だった。

「授業中に昼寝してるのはいつものことだけど、昨日も一日寝てたのにまだ眠いなんて相当だよね」

別のクラスの門田には今日はじめて会ったのだが、新羅に看てもらっていたことをもう知っているのだろう。
弁当を目の前にあれこれ面倒くさいことを聞かれるのは嫌だったので、無視を決め込んで箸を掴んだ。するとそれ以上は聞いてくることはなくて、安心した。
そうしてちらりと目線だけで臨也の方を盗み見ると、楽しそうに笑いながら弁当箱の中身を口に運んでいた。

(やっぱり…やべえなこれは)

ただ姿を見ただけなのに、突然に全身が駆り立てられるようにむずむずしてきた。慌てて自分の下半身を見て、ほっと溜め息を吐いた。
幸い反応することはなかったが、既に今日は何度もそんなことを繰り返していて明らかに不審者だった。
ただでさえ朝っぱらからどうしようもなかったのに、こんな学校でとかそれこそ冗談じゃない。

「あれ静雄もう牛乳なくなってるよ。しかもそれ二パック目でしょ」

気がつくといつもより多めに買っていたお気に入りの牛乳が、全部なくなったところだった。確かに昼食をとるだけにしてはなくなるのが早かった。まだ半分も残っている。
(そりゃ仕方ねぇだろ。ただ食事するだけなのに妙に緊張するしよお)
妙に息苦しくて喉がカラカラに渇くので、どんどん飲んでしまったのだ。面倒だがまた買いに行こうと立ちあがりかけたところで、風邪を切って何かが飛んでくる音が聞こえた。

「…っ!」
「シズちゃんナイスキャッチだね。残念、そのまま頭に当たればよかったのに」

一度真上に投げられたらしいジュースの缶が、頭上から降ってきて直撃する寸前に片手で掴んだので痛みを感じることはなかった。
どういうことだと尋ねる前に、きっぱりと告げられた。

「それあげるよ。オレンジジュースとか好きだよね?さっき間違って買っちゃったからさあ」
「あ、あぁそうか悪いな。でも投げるのはやめろ危ねえ」

なるべく平静を装ったつもりで答えたのだが、語尾の声が多少裏返っていた。すぐに臨也は食べるのを再開したが、俺は缶ジュースを手にしたまま動けないでいた。
(なに動揺してんだ。うぉ、さっきより心臓がバクバク言ってやがる、おさまれってんだよ!)
自分自身に対して、心の中で怒鳴りつけた。
炭酸じゃねえから蓋を開けても中身は飛び出してこないし、毒とか万が一仕込まれてても多分大丈夫だよな、とかどうでもいいことを考えてみたがまるでおさまらない。

「飲まないの?」

クスリ、というかすかな笑い声が目の前で聞こえて、心臓が飛びあがるほど驚いた。完璧に自分の世界に入っていた俺が、はっとして見上げると優しげに笑っていた。
いつもならここで一言、うぜえことを言われて俺がぶち切れてと喧嘩に発展するところだろうに。

(そんなに俺の行動がおかしかったのか?それとも…?)

「う、うるせぇな。今開けるとこなんだよ」

意味も無く頬が赤くなるのを自覚しながら、貰った缶を空けそのまま一気に飲み干してから勢いよく立ちあがった。

「いい飲みっぷりだねえシズちゃん」
「やっぱり、いつもの牛乳買ってくる」

臨也が俺に話しかけているのが聞こえたが、無視をして足をもつれさせながら屋上の扉を乱暴に開き、階下の自動販売機に向かった。

(んだよ本当に!まだ昼飯食っただけだろ、とにかく落ち着け!)

結局あれから牛乳を買って戻って来たら、既に臨也と門田の姿は無くて二人はもう次の授業が体育なので着替えに行ったと新羅に告げられた。
確かに時計を見ると結構な時間が経っていたので、一言二言交わしてから新羅も教室に戻って行った。
俺はどうせ今日は大事を取って体育は休むつもりだったし、だったらこのままサボってしまおうと考えたのでその場にどかっと腰を下ろした。
なにより頭の中を整理する必要があった。
このままじゃ明日も満足に飯も食えないし、あらぬ勘違いが生まれるのも時間の問題だった。ほとんどが俺の下半身的な意味でだったが。
ガシガシと頭を掻き毟りながら、腕組をしてフェンスにもたれかかるとすぐに睡魔に襲われてしまった。

「バーカじゃないの?あんなに反応してさあ」

右手が柔らかい感触に包まれていてる。

「でも全部それは…ニセモノだよ」

握られている部分はいやに熱いのに、耳に届いてきたのは冷ややかな言葉だった。

(どういう意味だ?)

だが理解する間も無く次の瞬間、すごい衝撃を腹に受けた。

「ぐ、ううっ!」
「もういつまで寝てるのシズちゃんは、もうとっくに放課後なんだけど?」

睨みながら瞳を開くと、案の定臨也の足が腹に乗っかっていて、心底楽しそうにしながらぴょんぴょんと跳ねていた。いつもだったら足を掴んで引きずり倒しているところだったが、俺は動けなかった。
不意打ちすぎて混乱していたのと、さっき言われたことが気になっていたからだ。

「なんだよ」
「そっちこそ、なに?」

反応に困り口を噤んでいただけなのだが、静かに怒っていると取ったのか顔を歪めて睨んできた。しかし普段の覇気があまり感じられなくて、ますますびっくりした。

(んなわけねえ、いつもと一緒だ。だから落ち着け、そうだ、さっき何を口走っていたのか尋ねればいいんだ)

夢の中の声とかぶってしまわないうちに、慌てて口を開いた。

「なあ手前何か言ってなかったか、今」
「いや、何も?」

しかし素っ気無く言葉を返されただけで、そこで会話は終了した。

(は?嘘だろ。絶対さっきわけわかんねえことを呟いていたんだ)

この耳で間違い無く聞いたし、まだ手に感触が残っているような気がしていた。それなのに、臨也は表情を全く変えなくてそれがなぜかショックだった。

(―――コイツはこんなに平気に俺に嘘が言えるのか)

その事実に愕然とした。怒りとか、悔しいとかそういうことではなく、ただショックだった。
日頃から妙な噂を流しては遊んでいやがることは知ってはいたけれど、直接的に面と向かって言われたのははじめてだった。

「もうせっかく起こしてあげたのにつまんないな。今日はやる気が削がれたからもう帰るね」

再び黙り込んだことに呆れたのか、もうこっちを見ることなくさっさと去って行った。内心でほっとしているのを悟られずに済んだとは思う。
あのままずっと話をしていたら、いつものように殴りかかっていたことだろう。自分から喧嘩は仕掛けたくないというのに。

「そういえば結局あれから寝たのか俺は……ってあれ?」

ふと昼休みの直後に眠りに落ちる前まで苛ついていた違和感が、まったく感じられないことに気付いた。あんなに耳についたうざいあいつの声も、もうあまり思い出せない。
どこかスッキリしているという感じだった。ただ眠っていただけだというのに、どういうことなんだと眉を潜めた。

「ますますわけがわからねぇ」

チッと舌打ちしながらのろのろと立ちあがった。
寝る前と今。
今朝と今。
何が違うんだ?
思いきり握り締めた臨也の、生あたたかい右手。

(違うのはこれぐらいの…もんだろう?)

そういえば昨日は新羅の家から帰る直前に強引にあいつを振り向かせてから、治まったんだと確信していた。
この右手で掴んだ。

(んなことあるか。ただの偶然だ偶然)

深く息を吐き出してから、階段へと向かった。
それから自宅に帰っても臨也は目の前に居ないのだから、悩みの種になることは何も無く、平穏に夜を迎えた。
またあの夢を見てしまわなければいいのに、と願いながら眠りについた。
けれど幾度となく願っても、その悪夢は何日も続いたのだった。

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