「これは……?」 怪訝な表情をしながら、俺はそっと開いたページに書かれている文字に手を添える。そんなことをしても思い出しはしないだろうが、指先は震えていた。 なんで、どうしてという困惑しつつも目で追う。間違いなく自身が書いたであろう筆跡で、真実だと信じられないのだとしても読むしかなかった。 心臓は早鐘を打ち、手のひらにはじっとりと汗が浮かんでいる。ごくりと喉を鳴らして、一字一句漏らさず眺めた。 「事実だけ淡々と書かれていても、ちっともわからないな」 小声で感想を漏らしたが、誰も答えはしない。当たり前だ。 周りに人が居ないのを確認して、本来の持ち主であろう相手が眠っているのをはっきり見て、隣のリビングまでやってきた。ページのはじめには、こう書かれていた。 『絶対に、シズちゃんにこのノートの存在は知られてはいけない』 「言いたいことはわかるけど」 一番の注意事項だ、という意味なのだろう。すぐに理解したから、こうしてコソコソしているのだ。 落ち着け、と言い聞かせ深呼吸する。そもそもこのページのはじめに書かれてある一文も、後で書き足しておかなければいけないのではないかと思った。 「だってさあ、忘れちゃったらシズちゃんっていうのか誰かもわかんないじゃないか」 ノートにはびっしりと文字が綴られていて、俺はひたすら読み進めていく。すると途中で、なんとなく頭の中に何かが浮かんだような気がした。 それでも止めることなく、きっちりと最後まで辿り着く。まだノートのページは残っていて、きっと眠る前にここに付け加えることになるのだろうと息をついて笑む。 「でもそうか、見たらすぐにわかるかもしれないね」 ノートを閉じてソファに転がる。するとぼんやり、何かが体の内から溢れるように広がっていった。 それはとても大事なものだ。 「だって顔を見ただけで、愛してることは知っていたからね」 ノートを手のひらから落とすと、パラパラとページがめくれて床に転がった。 * * * 「ねえシズちゃん、ここはどこだい?」 「幽が貸してくれたマンションだ」 「ふーん……どうりで見たことないと思ったよ」 言いながら手首を捻ってみるが、耳障りな音がする。ジャラジャラ、と鳴り響くのは俺を拘束している手枷と鎖だ。 なるほど、とジッと見つめて鎖の伸びた先を確認した。どうやら強引にベッドの端に括りつけられているようで、シズちゃんがやったのか、とすぐに理解する。 バカ力でグルグルに巻き付けて、と舌打ちした。でも、なんとかすれば逃げられるだろうと深刻には考えていない。 「それで、俺を捕えた気分はどうかな」 「ああそうだな、最高の気分だとでも言えばいいのかよ。クソノミ蟲が。こっちは大変だったんだぞ」 「へえ、大変って何があったんだい。聞かせてよ」 俺には気を失って以降の記憶はなかった。シズちゃんと本気の喧嘩をして、追い詰めようとあれこれ画策したというのに、すべて通じなかったのだ。 そう、折原臨也は平和島静雄に負けた。完膚なきまでに何もかも壊されたのだ。 「手前をそのままにしておけねえし、って担いで歩いてたら変な奴らが寄ってきたんだよ。必死に逃げて、しょうがねえから幽に連絡してここを教えて貰った。全部手前のせいだからな」 「嫌なら途中で捨てればよかったじゃないか。俺としても、その方がよかったんだけど」 「ああ?んなことできるかよ。ゴミ撒き散らしたまま帰ったら、迷惑じゃねえか」 「うわ、俺って遂にゴミ扱い?やだなあ」 なるほど、と考えながらも内心驚いていた。シズちゃんが、当たり前のようにこれまでと同じように俺に話し掛けているからだ。 まるで人生を賭けた俺との喧嘩なんて、なかったことのようにしゃべっている。あの時のことを言われたら、さすがに黙ってはいられないのでこのままでいいのだが。 なんとなく、浮かれているような気がした。勿論俺ではなく、シズちゃんだが。 「とにかく今日から手前はここで、俺と一緒だ。わかったか」 「はあ?何言ってんの、頭大丈夫?どっかでぶつけておかしくなったかなあ」 ケラケラと笑ってみせたが、シズちゃんは俺のことを睨んだまま微動だにしない。まるで石像のように固まって動かず、次第に声は沈んでいく。 おかしい、何か変だ、とようやくそこで気がついたのだ。いや、なんとなくわかってはいたが、あえて考えないようにしていたというか。とにかくシズちゃんの様子が尋常じゃないことだけは間違いない。 「怒らないの?」 「我慢してんだよ」 「どうして、いつもみたいに気に入らないなら殴ればいいじゃないか」 「んなことしたら、俺が捕まるだろうが。無抵抗な人間殴るほど、バカじゃねえんだよ」 「そうかなあ。君はいつも俺を見たら顔色を変えて追いかけてきて、喧嘩になっていたじゃないか。バカみたいに繰り返してさあ」 どうして殴らないのか、俺は理由がわかってはいたのにあえて煽ってみる。殴ればいいじゃないか、と心の中で呟きながらだ。 シズちゃんが、あの何年も俺のことを追いかけては切れていた男が、成長という言葉一つで変わったなんて認めたくなかったのかもしれない。意地があったのだ。 十年近く抱え込んできた、どうしても譲れないもの。勝手に期待して、失望して、諦めて、すべてを投げ捨てでも決着をつけようと正面から立ち向かった。 「まさか今更、仲良く一緒に過ごしましょうとでも君は言うのかい?」 「……勝負に勝ったのは俺だ」 ぴしゃりと言い切られて、息を飲む。意志のこもった強い口調だ。 これまでとは違う、と背筋がゾクリと震えてしまい俺は動揺を隠すことができない。口先だけであれこれと躱してきたものが、通用しなくなった。 嫌な予感がして、心臓が早鐘を打つ。なんだこれは、と手のひらにじっとりと汗を掻く。 シズちゃんの視線は俺を捕えて離さない。本気だと、問わなくても判断できることだった。 「ガキでも知ってることだろう。勝った者は、負けた者の言うことに逆らえない」 「それで?シズちゃんが俺にしたいことってなんだい。殴って殺す以外に、なにがあるっていうのさ。教えてよ」 聞かなくてもいい、と心は悲鳴をあげていたのに、俺の好奇心が勝手に口を滑らす。知りたい、と思ったのだ。 こんな部屋に閉じ込めて、どうしたいのか。納得のいく言葉が欲しい、ただそれだけだった。 「とりあえず、今俺が手前にして欲しいことは」 「何?」 ベッドの上に寝そべっていた俺を、シズちゃんがジッと見下ろしている。見下ろされるのは好きじゃないのに、と不機嫌に見つめながら待つ。 すると予想外の返事があって、一瞬呆けてしまう。いつもみたいにサングラスのないシズちゃんの瞳が、本気だということを告げていた。 「頭もよくて、なんでもできる手前ならなんか作れるだろう。腹減った」 「はあ?ちょ、っと待ってよ。まさか俺に家政婦でもしろと?コンビニで買ってくればいいじゃないか」 「幽が用意してくれたんだよ。食材を無駄にできねえだろう。なんとかしろ、できるだろうが臨也くんよお」 なんだこれは、と予想外の言葉に焦ってしまう。なんで、どうして、俺がシズちゃんのご飯なんて作ってあげなければいけないのか。 でもちょっとだけ、ほんの少しだけ、シズちゃんの言葉が引っ掛かった。俺を怒らせる為に言っていることだとわかっているのに、嬉しかったのかもしれない。 頭もよくて、なんでもできる。 そうはっきり言ったことだけは間違いない。嫌悪感もなくさらりと言うものだから、動揺したのだ。 まさか天敵に対して、おだてることができるようになるなんて、これが成長というのなら大したものだ。いや、俺にとってはあまりよくないことには違いなかった。 「これ外してくれる?」 「そう簡単に外すかよ。鎖は俺が持ってるから安心しろ」 「残念だなあ、そこまでバカじゃなかったか」 肩を竦めてあからさまにガッカリな表情でおどけてみせる。シズちゃんはすぐにベッドに括りつけてあった鎖を外すと、しっかりと手に掴む。 幸い簡易的な拘束だけなので、これならいくらでも逃げれるなとほくそ笑む。とりあえず料理でもなんでも作ってやって、油断させてやると意気込む。 「言っとくが、マズイもん作ったら作り直しだからな」 「あれ、なんでバレたのかなあ。ほらそれに、シズちゃんの好みと、俺の好みが一致するとは限らないし」 「手前の妹達が、臨也の作る飯は上手いだとかなんだとか言ってたぞ。手抜きは許さねえ」 「はあ、なにその情報?ったく、あいつら」 九瑠璃と舞流のことか、と一瞬で不機嫌になってしまう。あの妹達はいつも余計なことばかりを言い、しかも勝手にシズちゃんに近づいてはあれこれと言うのだ。 それはもう随分と昔からのことで、今更驚きはしないが、料理のことをシズちゃんに吹き込んだ罪は重い。大体俺が料理を作れるようになったのは、味にうるさい妹達のせいなのだ。 苛立ちを覚えながら勝手にキッチンに入ると、冷蔵庫を開けてみる。そして目が点になった。 「っていうかさあ、よく考えたらこの冷蔵庫って業務用のじゃないの?」 「あー……そうなのか?やけにでけえなとは思ってたけどよ。すげえだろう」 「君の弟はさあ、何かを間違った方向に張り切ったのかな。こんなに食材があって、パーティでも開くつもりだった?」 シズちゃんの就職祝いにバーテン服を数十着送った、という話は聞いたことがあった。さすがシズちゃんの弟だとその時は笑ったが、同じような光景が目の前にある。 明らかに大きな冷蔵庫の中に、ぎっしりと野菜や肉が詰め込まれている。そもそも、肉等は冷凍しなければ数日しかもたないというのを知らないのだろう。 大袈裟にため息をつく。こんなのいくらシズちゃんが化け物じみた食欲をしていたとしても、無理だ。半分以上は冷凍庫行きだ、と考えてふと思い出す。 別にシズちゃん家の冷蔵庫の食材が腐ろうが、どうでもいいじゃないかと。驚きすぎて、流されるところだったと扉を閉めようとして、腕を掴まれる。 「食材ダメにしたら、お前の妹達に変な顔の写真撮って送るぞ」 「はあ!?なにそれ、罰ゲームじゃん。っていうか、メルアド知ってるの?」 「勝手に登録されてたんだよ」 いくら俺がシズちゃんに負けたからって、どうしてここまでとため息をついたが仕方なく冷蔵庫に目を向ける。どうやら魚の類はないようで、それだけが救いだった。 これだけあればなんでもできる。視線だけシズちゃんに向けて言った。 「それで、何が食べたいの?」 「なんでもいい」 「じゃあ鍋にでもする?その方が食材いっぱい使えるし」 手っ取り早いじゃないか、と思って提案したのだがシズちゃんは無言だった。つまりは、いいということだ。 二人きりで鍋をつつくところなんて想像したくなかったが、この際仕方がない。シズちゃんの要求を叶える為には仕方のないことだった。 「好きにしろよ」 「なにそれ。偉そうに言ってさあ、激辛キムチスープにでもしようか」 「忘れてた。辛いのだけはダメだ、わかったかノミ蟲」 「はいはい」 わがままな子供かよ、と呆れはしたものの逃げる隙を作る為には仕方がないと割り切って冷蔵庫から適当に食材を取り出す。罰ゲームが暴力じゃないだけマシか、と思いながらすぐ真横に立っているシズちゃんを見る。 「なんだよ。さっさと作れよ」 「なんかさあ、シズちゃんって絶対結婚とか恋人とか無理そうだよね。我儘だし、顔怖いし」 「うるせえな。わがままなのは手前にだけに決まってんだろうが。他の奴に同じことしたら、失礼じゃねえか」 「俺だけ?へえ、そう……ふーん」 これは好意的に受け取っていいのか、それとも違うのかと複雑な気持ちになる。広いキッチンに食材を並べて、考えながらも手だけは動かす。 間違いなくシズちゃんの本性は、俺が知っているこっちだ。乱暴で、自分勝手で、怒りを抑えきれない子供。 ということは、それを俺にしか向けられないということは好意的に取ってもいいんじゃないか。なんだかんだと気を許せるのは俺だけじゃないか、と思っていると。 「人のことばっか言ってんじゃねえよ。手前だって、恋人とかそういうのいねえだろうが。最低な性格だし」 「失礼だなあ。俺の場合は、相手も不幸にしてしまうことがあるからね。敵の多い情報屋の彼女なんて、危ないに決まってるだろう。それこそシズちゃんみたいな、化け物なら話は別だけど。そもそも俺はそういうの、嫌いなんだよね。人間が好きなんだからさあ」 「俺は化け物じゃねえ、っつってるだろうが」 そこでようやく、シズちゃんは今日はじめて苛立ちを見せた。やっぱり怒れるじゃないか、とほくそ笑む。 そうだ、人間的に成長したシズちゃんなんてありえない。俺にも優しくできるとか、あってはならないことだ。喧嘩が終わったからじゃあ仲良くしよう、だなんてそんな関係じゃない。 遠い昔、ほんの一瞬だけそれを望んだこともあったかもしれないけど既に忘れている。シズちゃんに嫌われるようにあれこれしてきたのだから、手など取れるわけがなかった。 「シズちゃん、肉食べれるよね?いっぱい入れるから、残さず全部食べてよ」 「手前の飯が本当にうまかったらな」 鍋に上手いも下手もあるか、と思いながら包丁を手に取り食材を切り始めた。 * * * 「手前の飯がうまかったから、毎日食いたい」 「なに……それ?」 そんなまるで結婚相手に言うお決まりの文句みたいな理由なんて、俺は望んでいなかった。適当すぎやしないか、とふつふつと怒りがこみあげてくる。 だがシズちゃんは、なにもかもやりきったみたいなすっきりとした顔をしていた。もし薬で動けない体でなければ、掴みかかっていたに違いないだろう。 「あのさあ、シズちゃんにご飯作ってあげるなんて誰でもできるじゃないか」 「部屋に監禁して飯作らせたい相手は、手前以外いないぞ」 「まずその考え方からしておかしいんじゃないか。彼女作って一緒に暮らしてご飯作ってもらえばいいだろう」 「俺に彼女なんてできないっつったのは手前じゃねえか」 よく覚えていたな、と感心しながら考える。シズちゃんが俺のご飯を毎日食べたい、などと言った理由をだ。 誰でもいいからという意味で言ったわけではなく、ちゃんと現状を理解し折原臨也しかシズちゃんにまともな食事を毎日提供できる相手は居ない。と本人なりに言ったつもりなのだろう。 「そもそも部屋に監禁するのが道徳から外れていることなんだけど、わかってる?」 「こんなところで動けなくなってるよりは、マシだろう」 言いながらなぜかシズちゃんは、肌蹴ていた俺のシャツを元に戻す。本人はさり気ないつもりだろうが、思わず目を見張る。そんな世話を焼くような性格じゃないだろう、と見つめたが睨み返されてしまう。 俺が知らないだけで、確かにシズちゃんには弟がいる。最愛の弟の為に面倒を見ることぐらいはあっただろう。 それと同じ行為を天敵だった俺にするのはおかしな話だったが、毎日ご飯を作ってくれる相手として昇格したのなら普通なのかもしれない。冗談じゃないと思った。 「やめてよ、ッ、俺は……」 「ところでよお。さっきから気になってたんだがどうしたんだ、それ」 それ、と言いながら指差したのは、俺のズボンの股間部分だった。一瞬で自分がどんな状態なのかをすべて思い出し、かあっと全身に熱が戻る。 忘れていたわけじゃないが、指摘されたくないことだった。できることなら見逃して欲しかったのに、やはりそうはいかないらしい。 シズちゃんはいつもそうだ。絶対に俺が顔を合わせたくない時に限って現れるし、邪魔をする。勝負がついた今でも、それは変わらないらしい。 「別にいいだろう。君には関係ない」 「連れて帰るのに、これじゃあ困るじゃねえか」 「じゃあ置いていけばいい。薬打たれたんだから、しょうがないだろう。俺じゃどうにもならない」 「薬打たれた?もしかしてこの跡か」 「だから触るなって、ッ!」 シズちゃんに嘘をついても意味などないことぐらいわかっていたので、俺は薬を打たれたことを暴露した。するとさっき指差した首筋に手を添えてきたので、怒鳴る。 だが俺のに比べて大きく、やたらとカサついてごつごつした指が添えられた。途端に頭の中が真っ白になり、唇を噛みしめる。 「……ンっ!?」 「どうした、どっか痛いのか?」 「やめろって、いいから、俺のことは……っ、あ、シズちゃん!!」 これまで散々俺のことをいたぶってきた癖に、どうして心配するような言葉を掛けるのか、と腹が立つ。シズちゃんらしくない。 そんなにあの鍋が気に入ったのだろうか。材料を切ってちょっと味付ただけのものが。 十年近く本気の殺し合いをしておいて何も変わらなかったのに、ちょっと成長して天敵でも気遣うことができるようになったのか。とにかく、タイミングは最悪だ。 必死に声を押し殺そうとしたが、媚薬なんて打たれたことなどない。耐性が全く無いので、困ってしまう。やめろと喚いても、逆に腕を掴まれる始末だ。 「手首にも傷あるぞ」 「いいからっ、離せよ。はぁ、こっちは苦しいんだよ、それぐらい察してくれないかな」 「苦しい?じゃあ脱げばいいじゃねえか、こんなに勃ってんだし」 「はぁ!?ちょ……っと!!」 手首に残っている跡にも気づかれ、顔を顰める。だがそれだけでは終わらず、あまりにもあっさりと俺のズボンに手を掛けて、乱暴にベルトを外したシズちゃんに慌ててしまう。 性に対してまるで遠慮がない。どちらかというとそういう行為は経験がないとか、知らないのだと思い込んでいた。 だがシズちゃんだって男だし田中トムという変わった先輩もいる。一緒に誘われ断れず、とっくに童貞を卒業していてもおかしくない。だから性的なことに対してもまるで気づかないのだろう。 とにかく俺にとって都合が悪い。こっちは、性欲なんて普段ほぼないしセックスだってしたことなどないのだ。 「勝手に脱がさないでよ、変態!死ね、殺してやるッ!!」 「動けねえ癖になに言ってんだよ。ほらこれなら苦しくないだろう。つーか手前、これ」 「それ以上言ったら俺、一生シズちゃんを恨むよ」 騒いでやめさせようとしたのに、ズボンと下着を一気に膝の辺りまで下ろされた。するとあっさりそこが露わになり、悔しさで唇を噛みしめる。それだけならいい。 だがシズちゃんは、俺の性器を見て何かを言い掛けた。そんなこと皆まで言わずとも、わかっていたので遮る。 「大きさのこと言いたいんじゃねえぞ」 「言ってるじゃないか!バカ!!」 「だから、手も動かせねえんだろう。だったら俺がしてやるよ。一度出したら大分おさまるんじゃねえのか」 「シズちゃんが、手で……する?」 あっさりと一番言われたくないことを口にしたシズちゃんを睨みつけるが、聞いてはいない。それどころか勝手に性器に手を伸ばそうとしてきたので、今後こそ指に力を入れた。 逃げなければいけない。シズちゃんに手コキされてたまるか、と俺は本気だったのだがやはり動けなかった。 「っ、あ!?だ、から……ぁ、っ、く、やめろって、言ったのに」 「これぐらいどうってことねえよ。辛いならしょうがねえし、動けない同居人の面倒見るぐらい普通だろう」 「下半身のの面倒見るのは、っ、普通じゃない、って……ねえ、ほんとに、やめ、ッ」 しっかりと左手で根元を掴み、既に溢れていた先走りを右の手のひらになじませると、そのまま軽く擦りあげた。明らかに手つきは慣れていて、なんだか俺は負けた気分になる。 主に自分のしかしたことが無いだろうが、シズちゃんなら本能的に察して、こっちの嫌がることをしてくるに違いない。つまり、扱かれたら取り返しがつかなくなるのではないか、と俺は予想したのだ。 そしてそれは、当たっていた。悪いことだけ、いつもこうなるのだ。 「ふっ、ぁ!?シズちゃ、ぁ……あ、っ、ちょっと、ねえ、やめろって、ンっ」 「ちゃんと反応してるぞ。気持ちいいだろうが」 「だから、俺は、こんなことしてくれなんて、一言も、ッ……あ、はぁ、あ、くっ」 いきなり激しく竿部分を片手で包むように添えながら、上下に動かす。とても直視できるものではなかったので、必死に視線を外した。 それでも、時折ぐちゅぐちゅと淫猥な音がする。媚薬も本格的に俺の快感を煽り、意識してやめようとしているのに甘ったるい声が漏れ始めた。 ふざけるな、と苛立つもどうしようもできない。動けないはずなのに、時折腰がピクンと跳ねて感じていることを示す。 男なのだから、性欲に弱いのはしょうがないのだ。だが俺は認めたくなかった。ましてや、シズちゃんの手で翻弄されているなんて信じたくない。 「どんどん汁溢れて、硬くなってるぞ。ピクピク震えて面白えな」 「見るな、って!なんで、っ、そんなに……はぁ、俺のを見て、嫌がらせ、したい、の」 「こんなのが嫌がらせになるのか。まあそうだな、焦ってる手前見るのは悪くねえな」 「最低ッ!!」 いくら叫んでもシズちゃんは一人で楽しそうに指を動かし、どんどん追いあげられていく。思考もぼんやりとして、焦点も定まらない。 中心に熱が集まって、すぐにでも弾けそうなぐらい苦しくなる。当然のように、シズちゃんも気づいたらしい。 「ほんとに、っ、離せ……やめろ、って、シズちゃ、ッ……んぅ」 「遠慮せずに出してみろよ。楽になりたいんだろう?」 「はぁ、なりたい、けど……ッ、ぁ、こんなこと、されたくは、ない、からぁ」 「諦めろ、手前は俺に負けたんだ。いくら嫌だと言われようが、従えねえな」 既に朦朧としていて、バカみたいに同じことばかり繰り返し、掠れた声で訴えていた。それでも聞いてくれない。 挙句にシズちゃんは、俺が負けたことを持ち出して文句を言う権利などない、とはっきりつきつけてきた。確かにその通りなのだが、それではこっちが困る。 「俺はみっともない、ところなんて、見せたくない……だ、から、やめろって言ってるんだよ!」 「俺は見たいぜ」 「な、んでッ!どうしてだよ、嫌だ、って……シズちゃ、ぁ、うぁ、やだぁ!!」 おもいっきり怒りをぶつけたのに、怯むどころか笑っていた。口の端を歪めて凶悪な笑みを浮かべて、俺を追い詰めたのだ。 ヒステリックに叫び、嫌々と声を荒げながら喘いだ。一気に指の動きが早くなって、本当に出させる気だと気づいたから。 「うぅ、ぁ、っ、く……もう、ほんとに、やめて、くれッ」 「これは薬なんだろう。じゃあ手前がこんなにエロくなるのも、しょうがないじゃねえか。何も考えず全部出して、楽になれ」 「そんなの、わかって、ッ……ンぁ、はぁ、は、だめ、だ、んぅ、で、そう」 いつしか叫び声は涙声に変わり、命令口調から懇願に変わった。それでも一向に引かない。俺が懸命に言っても、無駄だった。 そしてとうとうこっちの方が限界に近づいて、ガクガクと腰が跳ねる。断続的に与えられる刺激に思考を黒く塗りつぶされて、結局最後はわけのわからない言葉ばかりを口にしていた。 「出せよ、臨也」 「あぁ、あぁ、やぁ、シズ……ちゃ、ぁ、んぁ、ふっ……あ、ぁあ、き、もちよすぎ、れ、だめぇ」 その時棒部分をただ擦りあげていた動きが変わり、左手の根元を外す。圧迫感がなくなり、堰き止められないと思った瞬間はっきりと見た。 俺のペニスに爪を立てられて、一瞬で白くなる。頭の中も、視界もだ。 「ひっ、ぁ、あぁああぁッ!?ンぁ、あっ、うぅ、あ、んッ、うぅう、っ、はぁ、は……」 「出せたじゃねえか。ドロドロだな」 そんな、とシズちゃんの手のひらに吐き出された精液を眺める。普段あまりこういうととをしないからか、それとも他人から刺激を与えられたからか、量が多い。 肩で必死に息をして、整えようとする。まともに声が出せないぐらい、混乱して焦っていた。 反面シズちゃんは、やけに冷静に俺の白濁液をしっかりと手のひらで掬い、反対側の手でいきなり足首を掴んだ。左右に割り開かれて、シズちゃんまでソファに乗りあげる。 「な、に……を」 「ちょっと待ってろ、ほらこれでいいか」 「シズ、ちゃん?」 足に引っ掛かっていたズボンと下着を剥ぎ取られると、腰から下を覆う物はなくなる。そして露わになったそこに、視線はしっかりと集中していた。 どうしてそんなところを、とは唇が震えてしまい尋ねられない。言いたくなかった。知りたくなかった。 「安心しろ、ちゃんと指で解してやるから」 「まさかシズちゃん、する気……なの?」 湿った手のひらをおもむろに後ろに押しつけられたら、聞くしかなかった。ここではっきりさせなければ、曖昧なままされてしまう。それは嫌だと俺は思ったのだ。 シズちゃんは、一瞬だけ目を細めた後に首を縦に振った。僅かに情欲の色が瞳の奥に浮かんでいて、凍りつく。 「セックスする、手前と」 「なんで!?そうしてだよ!俺は確かに媚薬打たれて苦しいけど、セックスがしたいなんて言ってない!!」 必死に喚いた。なにを勝手に決めているのか、と。 俺は一言もシズちゃんを求めてはいない。それどころか、触るなと言っていたぐらいだ。それがどうしてすることになるのか。 「俺が手前としたいんだよ。悪いか」 「悪いに、決まってるだろう……」 呆然とした。シズちゃんがしたいから、セックスをするという身勝手すぎる言い分を聞いたからだ。 信じられない。どうしてこのバカは、なんでも自分だけで決めてしまうのだろう。いくら俺が勝負に負けてしまい、勝者が好きにできる権利を得ていたとしても、これは違う。 「一回出しただけじゃおさまらないだろう。手伝ってやるって言ってんだ」 「手伝いなんて、いらない。俺はしたくない」 「あーもう、わかった、じゃあ認める。手前のこと見てたら、したくなった。これでいいか」 「正直に言ったからいいって問題でもないだろう!俺は許さない、なんでシズちゃんなんかと」 「はなから許してもらう気はねえよ」 必死に捲し立てる俺の言葉を、シズちゃんはばっさりと切り捨てた。はじめから、通じるなどと思っていなかったらしい。だから、関係なくするのだと言っているようだった。 背筋がゾクリと震える。擦りつけられた指が再び動き始め、くちゅくちゅと水音がした。 「やっ、やだって、ぇ……ちょ、っと、気持ち悪い」 「弱音吐くんじゃねえよ。これぐらい耐えろよ」 「そういう問題じゃない、っ……ンぁ、は」 ごつごつした指が動くたびに、背筋を悪寒が駆け上がっていく。しかもそこに塗りつけられているのは自身が吐き出した精液だ。冗談じゃない。 一度しっかりと射精したことで、少しだけ頭が冷静になっていた。他人のものを塗られても嫌だが、自分の出したものを塗られるのも嫌に決まっている。気持ちが悪くて、必死に首を左右に振って嫌がってみせた。 勿論シズちゃんは聞いてくれない。それどころか、身勝手に指の腹を押し付けて。 「やめ、っ……ぁ、うぁあッ!?」 「狭いな。力抜けよ、ノミ蟲」 「ふ、ふざけるな!抜け、っ、抜いてよ、こんなの、ッ、ぁ……シズ、ちゃ、ぁ、っ、あ」 ■45ページ2段目17行以降の落丁した3ページ分の内容になります ※ネタバレになりますので本文を読まれた後にご覧下さい 「なるほどね。思い出したよはっきりと」 床からノートを拾いあげて、とりあえず目につかないであろうソファの下に隠す。どうせ今夜眠る前に開いて、付け足さなければいけないのだからシズちゃんにさえ気づかれなければよかった。 まだ夜は明けてなく、寝室に戻るとダブルベッドで寝息を立てている。そっと隣に入って溜息をつくと、いきなり肩が揺さぶられた。 「ッ、な、なに?」 「どこ行ってたんだ」 「トイレだけど。そういうこと、いちいち聞く?」 「背中が寒いな、って」 「わかったから、もう少し寝てなよ。シズちゃん」 半開きの瞳は虚ろで、夢うつつの状態で話し掛けているのは明らかだった。緊張しつつも、思い出した記憶を頼りに手のひらを握り締める。 すると安堵したのか、ゆっくりと目を閉じて眠りについた。すぐに寝息が耳に届く。 不審がられなくてよかった、と胸を撫で下ろす。過去の記憶がない人間としては、顔見知りの相手と接するなんて大変なんだと身に染みた。 全くないわけではないし、少し考えていたら断片的にわかりはしたのだが、実感はない。そもそも、この男との出来事しか俺は思い出せていなかった。 シズちゃん。平和島静雄。 俺は折原臨也。 どうして二人で暮らしているのか、好き合っているのか、恋人なのか。何一つ自身のものとして思い出せはしなかったのだ。 他人の生活を覗き見て、成りすましているような気分だった。でも、あのノートに書かれていることは真実だろう。 この男が心の底から安心し、目を閉じるのだから。やり過ごすのは、一日だけだ。 今のこの俺としての記憶は、どうやら二十四時間しか保てないらしい。そう、書いてあったのだ。 なんだそれはと憤慨したけれど、覚えていないのは事実だし、強烈な出来事は思い出せたがじゃあ昨日のことはと言われたら無理だった。文字を追っても、自身が何を考えていたのかはわからない。 なぜこんなことになってしまったのか、原因はわかっている。ノートのはじまりでもある二ヶ月前、隣に寝ているシズちゃんとこの部屋で顔を合わせて監禁されたことに気づいて。 逃げた。その時に打たれたという薬が、半月ほどして作用したらしい。 起きたら、昨日のことがまるで思い出せなくなっていた、と最初の日に記してあった。だからこのノートの中にも、欠けている日があるのだ。 そもそも、ノートの中には折原臨也という人間が今までどうしてきたのかがまるっきり省かれている。時間がなかったのか、あえて必要が無いと判断したのか。 平和島静雄のことだけでいい、と願って俺がそのことしか残さなかったのかは不明だ。 「面倒な奴」 小声で呟いたが、シズちゃんは起きない。まあなんとなく自身のことなので、性格とかそういうことぐらいは察していた。 何もかもが真っ白で思い出せないわけではなく、断片的にでもまだ浮かぶのだ。ただこれが、いつまで続くかなんてわからない。 いくら一人で思い悩んだところで、明日にはリセットされてしまう。新しく電源を入れるように、蓄積されたものを消去してまた新たな俺が生まれる。 昨日と、今日と、明日の何が違うかはわからない。わからせてはいけない、ということは察していた。 単純な話だ。大事な相手には、こんな悲しいことを悟らせたくはない。 恋人として当然のことだし、理解できる。何も知らずに、いつまでも幸せに浸っていて欲しいという自分勝手な願いだ。 きっと本人にバレてしまったら怒られるだろう。どうして言わなかった、とショックを受けるし悲しむに違いない。それが普通の反応だ。 できることならそんな日は訪れて欲しくないし、いつか知られるのならなるべく長く真実を知らないで欲しい。その為に努力するのは、嫌ではないという気持ちは共感できた。 結局、そういうことなのだ。記憶などなくても、一人の人間の感情は安易に変えることなどできない。 毎日真っ新な人間に戻るというのなら、経験などないし一つの思考に固まるのが普通だ。そしてシズちゃんは、とても鈍感らしい。 大雑把な性格でもあるのだろう。些細なこともまあいいか、という気持ちで済ませられる。だからこそ、今日は成り立っていた。 幸いなことに、今日はシズちゃんの仕事が休みらしい。俺自身にとっても、ラッキーだった。 一日限りの感情しか保てないのなら、なるべく多くの時間を過ごしたい。ノートに書かれていた一番最後の行に、明日の君はラッキーだねなんて書かれていた。自分でもわかりきっている。 先のことなんて考えない。きっと元から楽観主義者だったのだろう。 どうやったら元に戻るか、と冷静に考えれば可能性がないことはない。ここに書かれている事情を見た俺でも、正解のルートはわかりきっている。 医者だという友人の新羅に連絡して、診てもらう。そして原因となった男に連絡を取り、薬のことについて尋ねる。たったそれだけのことだ。 シズちゃんだって協力してくれるだろう。そんなことはわかりきっている。 だが、俺が俺で居られる時間を無駄にしたくない。もし元に戻れないだとか、そんな悲しい結果になった時に今日という日が何の成果もなしに終わってしまう。 それだけは避けたかった。シズちゃんと一緒に居られなくなる可能性だってあるし、現状を変えたくないという願いは、記憶がゼロになってからも変わらない。 俺だから俺が理解できる。記憶が失われたからとはいえ、他人になることなどできなかった。 「どうしようかな、今日の朝ご飯」 寝顔を見つめながら、そっと微笑む。何をして遊ぼうか、と考えることは楽しかった。 一日限りの感情なのだから、変な意地を張る必要もない。今の俺なら、ちゃんと好きだとはっきり言えると、過去の自分に対して笑みを浮かべた。 top |