「幽霊でも体痛くなるんだ…?」 やっぱり相当適当なんだな、と思いながら体を起こそうとしたが腹の辺りに絡みつく腕が邪魔だった。しかし眠っているので力を入れて引っ張ると、あっけなく離れてしまう。 上半身を起こしすぐ隣で眠っている男の寝顔を見ると、口を大きく開けていてだらしない。でも幸せそうな表情だ。なんだかむず痒くなって視線を逸らす。 「早く思い出したいな」 生きていた時はどんな関係だったのか。この男に対して何を思っていたのか。それが知りたい。 一体どうやって失った記憶を思い出せばいいのか、と考えながらベッドから降りようとして。とあることに気づいて目を見張った。 「え、っ…?」 まじまじと眺めるけれど、何度見ても変わらない。足首から先の部分が、無い。透けていたのだ。 あまりのことにパニックに陥ってしまう。これで焦らないわけがない。このままで立つことができるのか、と試してみるが足先は無いのに存在しているみたいに歩くことだってできた。 しかしそこに手を伸ばしてみてもさわることはできないので、やっぱりおかしいのだ。ふざけるな、と唇を噛む。どうしてこうなったのか、わからない。 でも間違いなく平和島静雄とセックスしたことに問題があるだろう。そんなの許せるわけがなかった。 「…っ、とにかく見られないようにしないと」 もし足が消えているのを知られてしまったら、また面倒なことが起こると思ったのだ。だからコートを引っ掴んで外に出る。向かう場所は、決まっていた。 自力で思い出すことができれば、きっとどうにかなる。まだ間に合うから。心の中でそう言い聞かせてみたけれど、見覚えのある公園まで辿り着いて暫くしてもやはり何もわからなかった。 早く、早くと地面を見つめながら考えるのにさっぱりだ。結局一人ではどうにもできないのかもしれない、と諦めかけた時にタイミング良く声を掛けられた。 「手前ッ!なんでまたこんなとこ来てんだよ!!」 俺の前まで走って来て怒鳴りつけた相手は息を切らしていたので、目を覚ましてすぐにここまで来たのだろう。こんな時なのに、嬉しいと思ってしまう。 「君の傍に居るのは楽しいけど、やっぱり俺はここで待つべきだと思うんだ」 「なんだと?」 「待ち合わせの相手が来なくてもいいんだ。だけどこうしていないと、自分の存在意義を失ってしまいそうで…っ、ねえ、やっぱり俺は幽霊なんだよ」 俯きながらしゃべっていたが、声は震えていた。それは恐れていたからだ。 このまま何も思い出さずにいて、消えてしまう可能性を。もしそうなってしまったら、多分俺は別の未練が残る。だけど消えかかっているということは、本来の目的を忘れて恋をしてしまったことへの罰ではないかと考えた。 もしかしたら、生きていた俺が怒っているのかもしれない。本当は待ち合わせの相手が迷惑していることだって知っていたのかもしれない。それでももう一度会うことを望みながら死んだのだから、きちんと役目を果たせと。 幽霊なのに幸せになれると思うな、と。 「ほら見てよ、朝起きたら足が透けてたんだ」 「な…っ!?」 とうとう堪えきれなくなって、自分から告げる。知られたくなかったから逃げた筈なのに、教えてしまったのは朝よりも症状が悪化していたからだ。 もう膝から下は透けている。悔しくて、情けなくて目の端に薄らと涙が浮かんだ。自力で思い出そうと努力したかったのに、もう無理だと。彼の願いに応えることはできないと。 「ま、待てよなんで急にこんなこと…」 「せめて何か思い出せたら、わかるかもしれないけど…」 「思い出せねえのか」 「うん…靄が掛かったみたいになにもわからない」 弱音を吐きたいわけじゃなかった。だけど本当に自分一人の力では限界を感じたのだ。それをどう伝えたらいいのか困っていると、静かな声が聞こえた。 「じゃあ手前の名前、教えてやるよ」 「え…?」 聞き違いかと思い慌てて顔をあげると、穏やかな表情で平和島静雄はこっちを見ていた。昨日は激怒していたというのにもう怒ってはいないようで、安堵してしまう。そしてやっぱり、好きだと。 こんなところで消えたくない。もう少し彼と一緒にいさせて欲しいと心から願う。 記憶が戻っても俺は俺だから、思い出せたら一番に名前を呼ぼうと決める。きっと彼が俺に変なあだ名をつけていたように、俺も彼だけのあだ名があったはずだ。 そして好きだと言えばいい。昨日は先に言われたけど、次こそはきちんと伝えるのだ。 「じゃあこっち向いて目閉じろ」 「は?なんで?」 「いいからさっさとしろ」 「しょうがないな」 なぜか目を閉じろと言われて怪訝な表情をしたけど従った。ゆっくりと瞼を閉じて、胸を高鳴らせながら待つ。きっと自分の名前さえ思い出せれば、すべて大丈夫だと信じて。 しかしその時急に肩を掴まれたと思ったら、唇にあたたかい何かがふれた。不意打ち過ぎて驚いたが、間違いなくキスだ。全身がかあっと熱くなり、目を開けようとして。 「手前の名前は、臨也だ…折原臨也」 「えっ、あ…」 きちんと声は耳に届いて、頭がズキンと痛くなった直後に膨大な記憶が流れこんできた。 嘘だって、始めから気づいていた。 「あのさあ、俺シズちゃんのことが好きなんだけど」 「あ……?」 路地裏でシズちゃんに捕まってしまい、手を引いて殴られる寸前に静かに告げた。多分聞こえない、聞いてはもらえないだろうと思っていたが、真っ直ぐな瞳がこっちを見る。 少し予想外だったけど、しゃべり始めた唇は止まらない。気持ちを吐き出さないとどうにかなってしまいそうなぐらい、追いつめられていたから。 「別につきあってくれとかそういう贅沢は言わないし、君が俺のことを嫌いなのは充分知ってる。でもなんていうかちょっと我慢できなくなってさあ、返事とかはいらないから話を聞いてくれないかな?一生のお願い」 「嘘臭え…」 一気に捲し立てて、少し安堵する。誰にも言えなくて悩んでいたことをようやく告げられたからだ。その時点で満足していた。 同姓に好きだと告白するなんて、もっと本気で怒られると思っていたのだがシズちゃんは怪訝な表情を向けた後に押し黙ってしまう。何を考えているのだろう、と待っているととんでもないことを言った。 「俺が手前とつきあう、って言ったら嬉しいのか?」 「えっ!?えっと、まあそりゃあ…うん嬉しいけど…なんでそんなこと聞くの?」 一瞬聞き間違いかと驚いたが、視線は変わらない。声が震えてしまいそうなぐらい期待しかけたのだが、すぐにひっくり返されてしまう。 「振ったら落ち込んだりすんのか」 「あ、ああ…うん、普通に落ちこむけど…」 返事を聞いてもいないのに、喜んでしまった自分を心の中で叱咤した。バカじゃないかと。シズちゃんなんかに期待してはダメじゃないかと。 喜んだらこうやってどん底に突き落とされる。平和島静雄という男はそういう奴なんだ、今まで何度繰り返してきたんだと胸が苦しくなる。だからもうまともに言うことを信じてはいけない、信じないと決心して。 「つきあうっても手前に合わせる気なんかねえぞ俺は」 「へ…?どういう、こと?」 「だからよお、俺の好きな時になんとなく気が向いたら…っつう条件ならつきあってやっていい」 「つ、きあっていいって…ほ、んとそれ?」 もう騙されない、と思った。たった今勝手に期待して裏切られたばかりなのに、じゃあ信じるからなんて言えるわけがない。きっと裏があるんだろうなとすぐにわかる。 表面上は嬉しがってみせたけれど、ちっとも喜んでいなかった。それどころか、悲しい。 嘘をつかれたことが。 つきあうつもりなんて全く無いのに、どうして嘘をついたんだと。でも今まで俺がしてきたことを考えると、当然なのかもしれない。 嫌がらせ、復讐、という言葉が頭の中に浮かぶ。嘘をつくなんて最低だと過去に何度か言われたけれど、それを俺に対して実践しているのだから相当の理由と覚悟があるのだろう。 これは俺を嵌める為の嘘だ。 「手前も知ってるだろうが、女とつきあったことねえし誰かを好きになったこともない。だから普通っていうのがわかんねえ。嫌になったらいつでも言え」 「うんわかったよ。そうだねシズちゃんに普通の恋愛がわかるわけないよね、知らなくていい。こっちが合わせるからさ」 「じゃあ俺は仕事戻る」 「…え?」 勝手に別れを告げると、あっさりと背を向け歩き出したことに驚いた。この態度のどこに、俺とつきあっていいと了承した優しさが含まれているのだろうかと。まだ心底嫌っている。 そして嘘をついていることを隠そうもしないことに、笑いが漏れてしまう。おかしい。これが笑わずにいられるだろうか。 「あ、はははっ、俺を騙そうなんて十年早いよ!」 早足で去って行き、完全に姿が見えなくなったところでそう叫んだ。誰も聞いていない。それでも口にしたのは、興奮していたからだ。 最低な告白をした。結果、最低な返事以上の仕打ちを受けてしまったのだ。笑わずにはいられない。 俺の気持ちは否定されたわけでもなく、無視をされたわけでもない。ゴミだからと捨てられたわけではなく、紙切れみたいにぐしゃぐしゃに丸められてそのまま自分に返された。そんな心境だ。 紙に書かれていただろう愛の告白は読んでもいない。そんなの関係なく、倍返しにしてやるよと宣戦布告されたようなものだ。 「まあでもあの様子なら…何もしないだろうね」 シズちゃんのことはよく知っている。基本は面倒くさがりで、すぐに忘れてしまう。だからさっきまでは俺にどう復讐するか、この場合はどうやって振ろうか考えていただろうけどもう忘れているだろう。 策を練ることなんてできない。だからきっと、何をしたとしてもまともに返ってくることすらないだろうなとその時思った。普通だったら激怒するか、落ちこむところだ。 でも俺は利用する手を考えついたのだ。 「これは、楽しいかもね」 上機嫌にシズちゃんの歩いて行った方向とは逆の道を歩き始める。そしてその日から、約束上ではつきあい始めた。 「今日のシズちゃんは…っと、ああまた前に誘われた人達と飲みに行ってるのか」 携帯を弄りながら所在地を確かめると、ため息をついて閉じる。俺はとても機嫌が良かった。 朝メールした待ち合わせ場所に辿り着いて二時間は経っていたけれど、ちっとも嫌じゃなかったのだ。いつも通り、シズちゃんは待ち合わせに来ない。それが嬉しい。 「少し会わないうちに、随分と職場の人達とも仲良くなったんだ」 独り言を呟いてはいたが、別に怒っているからではない。俺自身も喜んでいた。あの人付き合いの苦手なシズちゃんが、俺とつきあいはじめてから変わったのだ。 直接的には関わっていないけれど、間違いなく変えたといっていいだろう。堪えきれない気持ちを吐き出しただけで黒歴史として終わるはずだったのに、影響を与えるまで変化していたのだ。嬉しいなんてものではない。 「俺のおかげだよね」 そう呟いた直後にさっきから一度も人が途切れることなく行き来する道をじっと眺める。今日の待ち合わせ場所は、昔から人気の高い軽食やデザートを中心としたお店の目の前だった。 シズちゃんが過去ここに上司と二人で訪れて、パフェがおいしかったと言っていたらしいという情報があったのだ。実際に見てはいないが、写真だって残っている。からかう材料として集めてたけれど、今は役に立っている。 傍から見たら趣味の人間観察をしているように見えるが、頭の中ではしっかりと自分の計画したデート内容が思い浮かんでいた。今日は仕事も順調に終わったみたいだったし、すぐ待ち合わせ場所に来たら閉店までに間に合う。 俺なんかとこんな場所に来るなんて、と言いながらもメニューを選ぶのに必死で出てきたパフェに顔を綻ばせてスプーンをせわしなく動かす。そういう、架空のデートを頭の中で描くのが楽しみになっていた。 告白してしまったあの日から、どこか壊れてしまったらしい心をなんとか繋ぎ止めているのはまだメールを拒否されていないからだ。 設定の仕方がわからないだけで、きっと中身なんて見てもいないだろう。だけど俺にはこれしかなかった。 起こりもしないことを想像して、抑えられない気持ちを満たすという虚しい行為が必要だった。それも一時的に。 ぼんやりと行きかう人々を見つめていると、店の前の電気が消える。店内には従業員が残っているみたいだが、清掃や後片付けをしている。もう閉店時間だったから。 来ないとわかっていて、待つ。そして裏切られる。もう何度繰り返したかわからない。 間違いなく待ち合わせに現れない、という証拠まで確認するというのに期待してしまう。人間とはそういうものなのだ。待つ間はひたすら起こることのないデートのことを想像して、日付が変わり終電がなくなる頃まで動かない。 僅かな望みは打ち砕かれて、落ちこみながら帰る。そして次の日にはまた、メールを送るのだ。その無駄な行為の繰り返し。 だけど同じことをし続ければいつかは慣れる。きっとそのうち、シズちゃんに告白し裏切られたことまで慣れるだろうと信じていた。壊れた気持ちを修復したくてもう三ヶ月も続けている。 まだ全く慣れはしないけれど。それどころか悪化しているような気さえする。 情報屋としての仕事の量は急激に減らした。あれ以降何をしていても集中できなくなったし、首の力を使って戦争を起こす必要もなくなってしまったのだ。別の場所に逃げたところで、シズちゃんとの関係も変わらないと気づいたから。 たまに路地裏で顔を合わすけれど、互いにつきあい始めたことについては一言も話さない。つまりは、どうでもいいのだ。 きっと首の力を使い俺が居なくなっても、同じだろう。折原臨也のことは、どうでもいい。 それに気づくとなんて無駄なことをしていたんだと、何もかもがどうでもよくなったのだ。目標を見失ってしまった。生きる気力さえも沸かない。これまで築きあげてきたものが、ガラクタだと知った時のショックはまだ抜けなく深く突き刺さっている。 つきあうという話をした次の日にメールを送り待ち合わせたの約束をした時は、そんなつもりなんてなかった。ただ本当に待ち合わせに来たら、と思うと勝手に足が向かっていたのだ。 そして来なかった。 でもやめられなかった。やめてしまって、自分から別れようだなんて言うのも惨めだった。つきあってすらいないのに、別れようと言うのもおかしな話だった。 もし本当に待ち合わせに現れて、デートができたらと不意に考え始めた時からおかしくなったのかもしれない。 想像したら楽しかったし、少しの間だけでも胸があたたかくなったような気がした。人に話さえしなければ、たった独りでも穏やかな気持ちになれるのだと知ったのだ。やめられるわけがない。 「もう少しで、慣れるかな」 人通りも少なくなり、とうとう周りの店もすべてシャッターを下ろして誰も居なくなってしまう。日付が変わる前には、昼間の喧騒なんか全く感じさせないほど静かになる。この少し寂しさの残る時間が、最近では気に入っている。 携帯を取り出して時間を確認すると、そろそろ終電が近かった。だから帰る決意をする。 つまりは、今日も裏切られたと自分に言い聞かせる。淡い期待をまた一つ自分の手で握り潰す。 「これで、いいんだ」 そう呟くと池袋駅を目指す。帰り道ではもう、日付の変わった今日はどこで約束しようかと考え始めていた。 もう少し、あと少しだとずるずる続けてあっという間に半年が過ぎてしまった。そろそろ慣れると思っていたのに、先にタイムリミットが訪れてしまう。 俺はその日呼び出されて、ある話を持ちかけられた。なんとなく予想はしていたので、驚かなかったけれど。 「情報屋として動かなくなったのは、何か秘密を知ってしまい口止めをされているからだろ?わかっている」 「違いますよ。そろそろこんな商売はやめようと思っただけです」 最近のことは全く調べていなかったので久しぶりに相手の素性を確認したら、この半年で勢力が強くなってきた組織のトップだった。まだ年齢も随分と若いが、勢いだけで粟楠会や池袋の他の組織と同等にまで成りあがった連中だ。 俺とはほぼ面識だってない。どんな要求をされるのかと思っていたが、単純だった。 「金はいくらでも払う。だから俺の組に来い」 「今日はじめて会ったばかりですよ」 「あんたの噂は聞いている。それに本人に会って、想像以上に好みだとわかったから逃したくなくてな」 「そう、ですか」 そういう趣味の人間だということは、知っていた。だから半分ぐらいは口説かれるだろうと思っていたが、当たっていたらしい。こんな風に言い寄られたことなんて、過去にいくらでもある。 でも今回ばかりは、相手が悪い。きっと今までの俺だったら、誘いは受けることができないけれど専属の情報屋としてなら動きますよとあしらっただろう。だけど。 「すみません、お断りします」 「お前…わかってるのか?」 「わかってますよ。でも俺は誰のものにもならない、って決めてるので」 「断るってことは、相応の処分を受けることになるぞ。他の組にも目をつけられているんだろ。くだらないことで、将来を失ってもいいのか?」 男は淡々と話をしていたが、俺は立ちあがる。その覚悟があると、見せつける為だ。何もかも失ってもいいと。 扉から出て行く時に鋭い視線をいくつも感じたが、振り返らなかった。そういう時期がきたのなら、しょうがないかと建物の外に出てため息をついて力なく笑う。 シズちゃん以外の、好きでもない男の元に行く気もない。仕事を再開する気もない。他に興味を魅かれることもない。 半年が過ぎたけれど、一年、十年経ってもきっと変わらないだろう。メールの返事は絶対に無いだろうし、待ち合わせに来ることもあり得ない。壊れた心も戻らない。 だけど好きだという気持ちだけは譲れないという、小さなプライドがあった。もう自分に嘘をつきたくはない。 「あーあ……もう終わりか」 すぐに携帯を取り出して、メールをする。きっと見られもしないだろうが、会いに行く理由が必要だった。そして最終的には終わらせる為の。 待ち合わせの時間の前にはシズちゃんの仕事場に到着していたので、隠れて様子を窺う。そして出てくるまでひたすら息を潜めていて、姿が見えたと同時にゆっくりと姿を現した。 「手前なんでこんなとこいんだよ」 「あれ?もしかしてメール見てなかったかな?」 顔を合わせた瞬間凄い形相で睨まれて、心臓がバクバク跳ねる。そしてこれまで一度もふれてこなかったメールの事を、ようやく口にした。どんな反応をするのだろう、といくつかパターンを考えたけれど一番最悪なものだった。 「トムさん、すみません。俺昼間に行ったラーメン屋に忘れ物したみてえで、取りに行きたいんすけど連れてって貰えませんか?」 「あ、ああ、そうだったよな!静雄忘れ物したって言ってたよな。じゃあ行くか」 隣に居た上司に声を掛けて、すぐさま俺の立っていた方向とは逆へと歩き出す。チラチラと振り返っては様子を窺っていたが、こっちに声を掛けたりはしない。 完全に無視をした。俺なんて居ない、メールなんて受け取っていない、と態度で示されたのだ。 わかっていたけれど、直接見てしまったので相当のダメージを受けてしまう。必死に表情には出さなかったけれど、傷は深い。何度も独りで期待して裏切られたような気持ちになっていたけれど、本人から受ける行為の方が強かった。 だからもう、何もかも本当に終わらせようと決意する。逃げるわけではない。すべての報いを受ける日がきたんだと言い聞かせた。 『今日で最後にするよ。俺が君に告白した場所を覚えているかな?あのすぐ近くに公園があるんだけど、そこのベンチで待ってるから』 そうメールをした。今日のシズちゃんの取り立て先の予定を全部調べた上で、一番最後の場所がたまたま告白した路地裏から近くてちょうどいいと思ったのだ。 昨日はっきりと断った男はすぐに動いて、既に始末する為の人間が動いていた。今時拳銃を使うなんて、相当本気で殺す覚悟がないとできないのだが手段を選ばないらしい。元々情報屋という不安定な裏の仕事をしているのだから、警察も下手に調べたりはしないのが都合いいのだろう。 確実な方法で素早く始末する。きっと俺があの男の立場でも同じことをするに違いない。自分で追いつめたけれど、こんなことになってちょうどいいと思っている人間は多いはずだ。 「最後、か…」 待ち合わせ場所の公園へと辿り着くと周りを見回して、ちょうど入口からよく見えるベンチに腰掛ける。時間はギリギリで、何か奇跡が起こってシズちゃんが現れるのならもう数分もかからない。 新宿の事務所から様子を窺っている男は建物の影に隠れていて、射程範囲内に俺は居る。一体いつ銃を発砲するかはわからないが、待ち合わせよりも早い方が嬉しい。最後の結果を知らずに、死ぬことができるから。 「もしシズちゃんが来たら、どうしようか」 もう幾度となく繰り返してきた、もしもの場合を考える。その時は影から見守っている男にシズちゃんを狙わせればいい。きっと勘が鋭いから簡単に避けるだろうけど、俺のせいだと切れてまた追いかけっこすればいい。 そしていつものように逃げ続けて、捕まったところで言えばいいのだ。もう別れようと。 きっと目を丸くして言うはずだ。 『俺は手前とつきあった覚えなんてない』 言われた俺は傷ついて、でもようやく吹っ切れるのかもしれない。半年も続いてきた茶番も終わる。その時苦し紛れに教えてやればいい。 実は待ち合わせに来なかったら死ぬつもりだったとか、たった独りで待っていたけれどそれなりに楽しかったとか。とにかくなんでもいいから驚かせてやりたい。 もう一度、好きだと告白するのもいいかもしれない。嫌われようが、酷いことをされようが、まだ好きだと。きっと一生忘れられないと。 「好き…か」 そういえば最初の告白は相当酷かったよな、と思い返す。本気で言うつもりなんてなかったのに、もう黙っていられなくて苦しくて吐き出してしまったのだから。折角ならもっと本気で言えばよかったのかもしれない。 懸命に訴えれば伝わったのだろうか。あんなあからさまな嘘をつかれないで済んだのかもしれない。 「見抜いてたのかな」 好きだけど本気ではない。それが見透かされていたのだとしたら。そんなわけがないのだが、変なところで勘が働いて重大なことを回避できる能力を持っている。 もっと例えば殴られるのを覚悟して抱きついてみるとか、泣いてみるとか。こんな風に大人しく殺されるぐらいなら、なりふり構わず縋った場合どうなったんだろうか、とできもしなかったことを思う。 「間に合うかな、もしかして」 まだきっと仕事が終わっていないか、ちょうど終わったかぐらいかもしれない。そんなに遠くない場所に居るのだから、間に合うはずだ。待ち合わせすっぽかしたのか、と言われて責められてもいい。 どうせ来ないつもりだったんだろう、と逆に言い返してやればいい。昨日みたいに黙っていないで、不満全てをぶちまけてやればいい。 そろそろ時間だ。きっともう過ぎている。 「好きって言えれば、満足するかな」 半年も続いた不毛な待ちぼうけは、ただの逃避だった。確かに逃げれたのは楽だったし、起こりもしないことを想像できたのは幸せだったのかもしれない。でも違う。 そんな消極的な態度だったから、見破られたのだ。手前のところなんて、行ってやらないと。 「じゃあ今から、俺が行けばいいのか」 もう一度好きだって告白し直しに行けばいい。すごく簡単なことだったんだ、と気づくと立ちあがり足を踏み出そうとした。だけどできなかった。 腹の辺りに痛みを覚えて顔を顰めたと同時に銃声が耳に届いて、自分のやろうとしていたことをはっきり思い出す。そうだったんだ、と納得しながらその場に前のめりに倒れこむ。 視界が急激に霞み、濃い血の香りを感じながら後悔した。 シズちゃんに、もう一度好きだと伝えられなかったことを。 ずっと待ってばかりで動こうとしなかったからだと自嘲気味に笑おうとしたけれどそんな気力は無くて、意識が沈んでいった。 text top |