お願いだから、気づかないで。 気がつかせ、ないで。 この幸せな夢を、いつまでもいつまでも。 一秒でも長く。 ねえ、お願いだから――― 「ん…っ、う?」 瞼を薄らと開くと、目の前には腕があった。 いびきをかきながら眠る、顔があった。 俺の大好きな、最愛の人の。 ふとそこで何か目覚める前に夢を見ていた気がするのだが、その内容が全く思い出せなかった。 シズちゃんと一緒に住み始めてから、こういうことばかりだった。 もっとも俺の記憶はシズちゃんの前のマスターとの数日の記憶から始まっていたので、きっと彼は夢には関係しないのだろうと思った。 でも自分自身の事が曖昧なのに、はっきりと何かを言いきることなんてできるのだろうかと暗い気持ちになった。 そういう気分に陥った時に、俺はいつでも思い出すんだ。 『何も考えなくていい、臨也』 俺の体を抱きしめながら、優しく囁いてくるのだ。だから安心してすべてを委ねられる。 シズちゃんが好きで好きでたまらなかったから、この狭い世界に閉じ込められているのだとしても、幸せだった。 これ以上何も望まなかった。 たまに胸を締め付けるほど苦しくなる言葉があったとしても、知らない振りをした。何も知りたく、なかった。 そのまま額を擦りつけるように枕に顔を埋めて、思考を停止させた。 考えては、いけないのだ。 もうシズちゃんと過ごして一週間は過ぎようとしていた。その間に大したことは起きてはいない。 普段だったら週一で休みがあるらしいのだが、俺に会う直前に有給で何日か休んでいたから仕事が溜まっていて休めないんだと言っていた。 でも明日は休みらしいので、俺は浮かれていた。一日中一緒に居られるのかと思うと、胸が弾み体も熱くなってきそうだった。 最初はシズちゃんもいかにも奥手っぽく振る舞っていたけれど、俺が誘えば絶対に乗ってくるし拒みはしなかった。きっと休みの前日なんだから、少しぐらいハメを外しても許される。 何回ぐらいするのかな、とぼんやりと考えながらノートパソコンの画面をぼんやり見つめていたのだが、うっかり手が滑って変なところをクリックしてしまった。 これを貰った時に中身は全部確認してほとんど新品同様に中身が綺麗になっているのはわかっていたので、画面に映った映像に驚きを隠せなかった。 「あれ?これ…パスワード?どういう…」 どうやら見た感じ他の誰かがこのノートを使っていて、中身を自分だけが見れるように制限をかけていたのだろう。しかし気になったのはユーザー名が書かれている部分に入っている数字だ。 そこには”138”と入力されていた。その数字に胸がざわざわと騒ぐ。 次にパスワードを入力しなければいけないのだが、現時点で俺が思いつく数字3桁があった。 違う、違う、だめだと頭が警報を鳴らしているのに、吸い寄せられるように指が警戒に動いた。数字を入力してエンターキーを押すと、それを承認したのか画面が動き始めた。 「嘘…だろ?」 戸惑いながら切り替わっていくディスプレイを呆然と見つめていた。 俺が入力した数字は”420”だったのだ。 そうして起動の動きがすべて止まって、デスクトップにいくつかのアイコンがあった。俺の知らないソフトばかりで、使い道なんてわからない。 でもその中に見覚えのある名前があった。 「サイケって……これ、もしかして…」 気がついていたら、そのフォルダをクリックして中身を開いてしまっていた。無意識というか、戸惑うこともなく慣れたことのように動いてしまって、やっぱりやめておけばと瞬時に思った。 けれども数秒後に出てきた中には、何のファイルも入っていなくて拍子抜けしてしまった。明らかに中身を消されているように見えた。 「はは、そうだよね。そう簡単に見つからないよね…」 がっかりしながら他にも何かないかざっと一通り見てみたが、知っていそうな名前は無かった。なのでとりあえずメールソフトを開こうとしたのだが、それにも制限がかかっていて開けなかった。 しかも今度はさっきの数字のパスワードでは開けなくて、それ以上詮索するのはやめた。 とりあえず持ち主の手がかりが無いか探してみたのだが、そういう類のものはまるっきりなかった。インターネットの履歴すら残ってはいなくて、相当周到なんだなと感じた。 けれども最初のログイン画面で見た数字が、すべてを物語っているようだった。 「折原臨也って…もしかして本物がいる…んだ?」 最初に俺に告げてきた、サイケではなく折原臨也として、人間として接しろというのはそういうことなのかと理解できた。 けれど頭では理解できていても、心では嘘だと呟いていた。 だって、否定しなければ、シズちゃんが俺の事を好きだと言っているのも、実は俺なんかではなくもう一人の折原臨也に向けて言っている気がして……。 「きっとそうだ。俺じゃ、なくて…そいつのことを…」 口に出してみてぞっとした。眩暈がしてそのままよろけるように、床の上にあおむけに倒れこんだ。呆然としながら少し真上を向いて、そこで目に入ったものに釘付けになった。 本棚の上の部分に段ボールが置いてあって、その下にノートパソコンらしきものがまるで隠すようにしてあった。パソコンなんて持ってたんだと思いながら、弾かれたように起き上がった。 俺の前では一度も開いてはいない。それが引っかかる気がしたのだ。 「何かあるかも…しれない」 テーブルを足場代わりにして登って、そのノートを引っ張り出した。形は古いけれど埃をかぶっていないところを見ると、やっぱり俺が来る前には使われていたようだった。 すぐに電源を立ち上げて、祈るような気持ちで手がかりがあるといいなと真剣に考えていた。一度気になってしまったら後に引けないぐらい、必死だった。 そうしてパソコンが立ち上がってデスクットプのフォルダを見た瞬間に、はっとした。さっきのパソコンの中にあったのと同じ名前のフォルダを見つけたからだ。 「津軽……?」 迷いも無くそれを開くと、中には動画ファイルが入っているようだった。しかもそれらは番号がふられていて、明らかに日付のような四桁の数字だった。 一瞬だけ中身を見てもいいのかどうか迷った。嫌な予感がしたというか、胸騒ぎがしたからだ。この中には絶対に衝撃を受けるような内容のものが入っていると、告げているようなものだった。 「それ、でも…俺は…」 ここまできたら後には引けないというのが一番だった。そうして適当に選んでクリックをしてみた。そこには、予想以上に驚くような映像が映っていた。 まず目に入ってきたのは白いコートを着ている人物で、屈託のない笑顔で画面に向かって微笑んでいる。顔には見覚えがあってそれを決定づけるように、名前が呼ばれた。 「サイケ…って、これ俺…?」 映像の中でサイケと呼ばれた人物は、心底嬉しそうにこっちを見ながら津軽と呼んだ。それだけでなんとなく察することができたが、目の前の人物と同様に声も気になっていた。 それ以降はあまりしゃべらなかったが、最初に発した声がシズちゃんにそっくりだと思ったからだ。 どうやらどこかの家の玄関で話をしていたようで、すぐに中に案内されていった。そうすると広そうな部屋の中に佇んでいる人物が、はっきりと映し出された。 見た瞬間驚愕のあまり画面に近づいて食い入るように眺めてしまった。 『いらっしゃい、津軽』 そいつは薄く口元に笑みを浮かべて、さっきのサイケとは対照的に何を考えているのかわからないような表情をしていた。 「もしかして…折原臨也…?」 すぐにわかったのは、今まさに俺が着ているのと同じ黒い長そでのシャツを着ていたからだ。 服を与えてくれたのだって、シズちゃんだったから、まるっきり同じなのは当たり前だったのかもしれない。 いつのまにか額には汗が浮かんでいて、キリキリと胸が締めつけられて息苦しかった。そこでやっと、知らなければよかったと、何も考えなくていいと言われていた言葉が頭をよぎった。 text top |