恋のはじまり8 | ナノ

「どういうことだ?」
「…こんなつもりじゃなかったのに」

唇を噛んで目線を逸らそうとするのに、瞳は前を見据えたままだ。頭の中ではちゃんとシミュレーションはできている。

『残念だったね、シズちゃんは俺の恋人じゃないよ。大嫌いな相手のこと好きになるわけないじゃないか。これは全部薬のせいなんだよ。それでセックスまでしちゃって可哀そうだね』
「…ぅ、っ…ひ、ぅっ」

用意していた言葉は一言も口にすることができない。みっともなくひきつったような嗚咽が漏れ始め、遂には手のひらで顔を覆ってしまう。
きっとシズちゃんはわけがわからずただ呆然としているだろう。俺だって自分の感情がこんなにもコントロールできないなんて思わなかった。予想外だ。
でも、もっと予想外なことが起きる。

「うわっ!?」
「よくわかんねえけど、泣きたいなら泣け。な?」

いきなり腰を掴まれて両足が宙に浮いたと思ったら、傍の机の上に座らされる。そして手のかかる子供をあやすように、穏やかな口調で語りかけてきた。
しかも泣くな、と強要するのではなく泣けばいいと言う。だからもう耐えられなかった。ここで終わりにしたくないのに、しなければいけないという大きな悲しみをおもいっきり吐き出した。

「っ、シズちゃ…ひぐうぅ、っ、シズちゃん、シズ、ちゃ…!」
「なんだ?」
「やだ、っ…俺は、うぅ、く…まだ、シズちゃんと…」
「臨也」
「シズちゃんが、好き…」
「ああ」

まともにしゃべれていないというのに、シズちゃんは静かに頷いてくれる。それが嬉しいのに、悲しい。所轄は作られた相手だから。
いくら言う事を聞いてくれて体を繋げても、手に入れたという感触は何もなかった。ただ胸が痛くて切なくて涙が溢れるだけだ。このままだと自分が辛くなるだけだ、と遂に唇を震わせながら告げた。

「ごめん…ごめんね、シズちゃん。嘘ついて、騙して…ごめん」
「嘘ってなんのことだ?手前が嘘ついて俺を騙してるのはいつものことじゃねえのか?」
「違う、そうじゃなくて…恋人っていうのが、今のシズちゃんは全部偽者なんだ。俺のせいで」
「あ?」

嘘をつくなんてこれまでだったら痛みも罪悪感もなかった。だけどどうしてか今は苦しい。それは多分、俺がシズちゃんに対して本気だからだろう。
ずっと好きで、好きでたまらなかったから耐えられる範囲を超えた。自分でどうにもできなくなった。だから謝って、少しでも胸の内を語ってしまいたかったのかもしれない。

「薬のせいで、俺の恋人だって思いこまされただけだ。本当は好きじゃないのに、嫌いなのに」
「ちょっと待て、手前がなに言ってんのかわかんねえんだけどよお。薬ってなんだ?」
「もう時間が無いんだ。零時を過ぎる前に、シズちゃんは元に戻る。その前にどうしても、謝っておきたかったんだ」
「意味わかんねえ、もっとはっきり…」

涙は頬を濡らしたままだが、掠れた声できちんとしゃべれるようにはなっていた。だから一気に目元を擦って拭うともう一度きちんを見つめる。

「気持ちを弄んで、ごめんね。でもすぐに戻るから」
「臨也!」
「明日になったら全部元通りになるから。今日あったことは全部忘れる。俺も、シズちゃんもね」
「忘れ、る…だと?」

シズちゃんは薬が切れれば何もかも忘れて元通りになる。俺は今日起きたことを忘れたりはしないけど、恋心をきっぱり捨てる。だから忘れるのと同じだ。
これまでわけがわからず動揺していたシズちゃんは、忘れると言った途端に目の色が変わった。そこには明らかに怒りが含まれていたので、怒鳴られる前に釘を刺す。

「大丈夫だよ。俺は二度と誰かを好きになったりはしない。恋はもうこれで最後だ、だから怒らないで」
「お…怒ってねえ。でも、じゃあ手前が俺を好きなのは本当なんだよな?」
「うん、それは本当。だけどシズちゃんは俺のことは嫌いだろ?だから薬を使うしか成就させる方法はなかったし、一日限りの恋人でよかったんだ」

俺が怒らないでと命令したのでぐっと堪えたまま、不安そうにこっちを見ていた。なんとなく瞳の奥にいつものシズちゃんの怒りが見えた気がしたので、早口で言う。

「もうこれで最後だから、許してよシズちゃん」
「……っ、わかった」

これはただの言葉遊びだった。俺の言うことには逆らえない相手を使って、疑似的に許しを得て自分を納得させる。そうすることでより吹っ切れることができるから。
意味なんてない。だけど恋心を切り捨てる為には必要なことだった。ここで完結したんだと自分自身に思わせる必要があったのだ。

「夢から醒めたら、ケーキちゃんと食べてね」
「…ああ」
「俺の代わりに、シズちゃんは誰かを好きになってね。今は無理だろうけど、何年かしたらきっと力もコントロールできるようになるし恋もできるから」

そこで右手の小指を体の前に差し出して、見あげた。必死に笑顔を作ってお願いする。

「約束してよ。これから先、いつか本気で恋をするって」
「手前…」
「次はちゃんと、シズちゃんの意志で好きな相手を抱いてあげてね」

ここにきてシズちゃんが拒めるわけがなかった。同じように右手の小指を差し出してきたので、ゆっくりと絡める。そしてお決まりの文句を告げた。

「約束破ったら、針千本飲ますからね」
「わかったよ」

おもいっきり指を離すとあっさりと切れた。これで本当に終わりなのに、さっきまでの焦燥感はなくなっている。胸の内を話したことで、踏ん切りがついたのだ。
もう大丈夫だからと再度自分に言い聞かせて、キリキリ疼く痛みを無視した。短く息を吐くと、机から降りる。

「シズちゃん目瞑って。最後にキスするから」
「臨也」
「ほら早く、俺のキスいらないの?」

急かすように言い微笑むと、シズちゃんがゆっくりと目を閉じていく。さっきまで優しげに見つめていた瞳は、二度と目にすることができない。だけど充分すぎるぐらい堪能したのだ。
両肩に手を置いて、ほんの少し背伸びをして体を寄せると唇を押し当てる。俺の体のあちこちには情事の痕がいくつも残っていたけど、数日すれば消える。
そしてシズちゃんの気持ちも消える。何も残らない。何も起こらなかった。

「ありがとう、おやすみシズちゃん」

目を開けてそう穏やかに告げて、終わりだと思った。だけど急にそこで瞳が開いて、馴染みのある形相で睨みつけられ罵声が聞こえてきたのだ。

「待てよ!臨也…手前!!」
「ダメだなあ、目開けるなんて。いい子だからこのまま眠ってね。素敵な夢が見れるから」
「い、ざや…っ」

少し驚いたけれど薬が切れかかっていることはわかっていたので、冷静に命令した。すると苦しい表情をさせながら、段々と目を閉じていく。呻き声が聞こえたが、俺は微笑み続けた。

「俺も全部忘れるから、君も思い出したりしないでね。楽しかったよ」
「…ぅ、くそ」
「おやすみシズちゃん、好きだよ…おやすみ、おやすみ」

子守唄のように繰り返し唱えると、瞳を閉じてそのまま静かに俺の体の上に倒れこんできた。そっと支えると起こさないように気を付けて床に寝かせる。規則正しい寝息が聞こえてきたので時計を見ると、そろそろ零時を過ぎようとしていた。

「シズちゃん…好きだったよ」

最後にそう呟くと床に落ちていた衣服を乱暴に拾いあげる。シズちゃんの机の上に置いていたケーキの箱を掴むと、顔の横に添えた。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、無表情なのが自分でもわかる。窓ガラスに映った姿は酷いものだったけど、いつもの折原臨也に戻っていた。これが本来の俺だ。

「最高の誕生日プレゼントだったな」

全身に軋むような痛みを感じていたけれど、気にせずにそのまま教室の出口を目指す。太股から白い雫が床にこぼれ落ち点々と染みを作っていたが、逃げるのが先だと無視をする。
教室を出る寸前に振り返ったが、シズちゃんは眠ったままだった。一人きりだったけれど、誰にも聞かれないように小声で告げる。

「さよなら」

そして本当に、俺の恋はここで終わった。

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