RESET9 | ナノ


「ねえシズちゃん、眠いならベッドに行ったら?」
「あー…そう、だな…」

順調に酔っぱらったシズちゃんは、うつらうつらと首を揺らしながら半分瞳を閉じながら座っていた。肩を揺すってベッドに行こうと言うがあまり反応がなかったので仕方なく肩に手を回して立たせる。
俺よりも背が高く全体的な体つきが全く違うので少し時間が掛かったが運べないわけではない。抱えることはできないので足を引きずったままベッドへ連れて行く。

「ほら、もうこれでいい?」
「ああ、ありがとな…」

布団の中に入れてあげればよかったかもしれないが、もうそこまでの気力はなかった。肩で少し息をしながらその場で休憩をしていると、急に左腕を掴まれて凄い力で引っ張られてしまう。
あまりのことに頭の中が真っ白のまま、ベッドの上に体ごと倒れこんで。驚きのあまり硬直する。

「…っ!?な、なに、シズちゃ…」
「寝ようぜ…このまま…」
「いや、ちょっと待って、酒臭いし酔っぱらってるだろ!離せって!!」

俺の胴体に腕を回してしっかりと抱きつきながら体を寄せてくるシズちゃんを必死に引き剥がそうとする。だけど酔っぱらっているせいなのかいつもより強い力で抱かれていて逃げられる気がしない。
酔いつぶれて眠るのを期待したけれどこのままだと確実にマズイ。明日の朝の事を考えると嫌な気分になるし、なによりこれ以上勘違いさせるようなことはあってはいけない。
シズちゃんのことは好きだ。だけど俺はただの友達と思われていて、もうこれっぽっちもそういう期待なんてしていない。
傍に居たいけどキスなんてされたくない。泊まるのはいいけど、一つのベッドで寝てしまうなんて嫌だ。
いつかこの曖昧な友達という関係が終わってしまった時に苦しむなんて、嫌に決まっている。

「うぅ…っ、ほんと…やめてよ!」

頭の中はぐちゃぐちゃだった。それはつまりまだ迷っているということだ。
このまま好きでいていいのか、友達でいいのか、傍にいていいのか。もう一人になるのは嫌だし後悔だってしたくはないけど、苦しみたくはない。

「おい暴れるなって、大人しくしろ臨也」
「やだって…!床で寝るから…ほんと、離して!!」

必死にもがき暴れるのに真横からいつもより掠れたシズちゃんの声がする。
抱きつかれて一緒のベッドで寝るなんて、少し前の俺だったら嬉しくて舞いあがったことだろう。だけど今は真逆で胸が苦しくズキズキ痛む。
喜べるはずの行為に傷ついて、本当にこんなことを望んでいたのだろうかと疑問が浮かぶ。顔を見ているだけで感動していた気持ちなんてもうなくなっている。
シズちゃんがこっちに寄れば寄るほど辛くて、そんなのは本当に恋と呼べるのだろうかと。これ以上何も考えるなと頭のどこかで警報が鳴ったけれど、止められなくなってしまっていた。

「もう…や、だ…っ」

俺は本当にシズちゃんが好きなのだろうか、と一番至ってはいけない考えに辿り着いてしまう。
一瞬で血の気が引いて目の前が真っ暗になる。唇が微かに震えて全身の力が抜けた。そしてそれをタイミング悪く抵抗を止めたのだと勘違いしたらしいシズちゃんが、俺の体を反転させてしまう。

「……っ!?」
「観念したか?」

眼前にいきなりシズちゃんの顔があってパニックになる。さっきのキスのことを思い出してしまい全身が勝手にかあっと熱く火照ってしまう。
嫌いなんかならない。いくら苦しくても辛くても傷つけられても、好きでどうしようもないんだとほっとした。
でも一方的な片思いの好きしかもう求めていないんだと気づいて。

「すげえ顔真っ赤になってるぜ。もしかして緊張してんのか?」
「…え?」

そこで何か会話が全く噛みあっていないような気がして首を傾げた。互いの息がかかるぐらい体を密着させていて、背中に回されていた腕はいつの間にか下におりていたのだ。
呆然としながら目で追っていると腰の辺りを掴まれる。いや、そんなまさかとまだ信じられない状態で不意に視線を逸らしすととんでもないものが目に入った。

「……な、に?」
「手前から誘ったんだよな?ベッドに行こうって結構大胆なこと言いやがる…」

シズちゃんがすべてを言い終わる前に俺は動いていた。室内にパンッ、と乾いた音だけが響き渡る。
それだけ、だった。それ以上は何も言葉にすることはできなかったのだ。

「え?…いざ」
「…っ」

頬を引っぱたいたのに痛いのは俺の手のひらだけだ。意味がわからない、という不思議な表情でこっちを見ていたのでその隙に強引に体を起こした。
その時にはもう瞳からぼろぼろと涙をこぼしていて、喉の奥から激しく嗚咽を漏らすというみっとみない状態だったが懸命に歩いた。視界が滲んでいたけれど腕で拭い玄関に向かう。

「なに、っ…おいどういうことだ!待てよ、臨也!!」

背後でベッドから転がり落ちるような派手な音がしたけれど知らない振りをする。どうせ泥酔状態だったのだから追いかけられはしない。でもただの酔っ払いの戯言だと割り切ることなんてできなかった。
キスをされた時は拒めなかったから、そのせいでこんなことが起きたのだ。全部俺が悪いと思う。
やっぱりついていくべきではなかった。傍にいるべきではなかったんだとそのことだけを考えながら深夜の道を走る。コートも携帯も財布もそのままだったけど構わなかった。

「うっ…う……ぁ」

時折堪えきれない声が飛び出したけれど足は止めない。すぐに冷たい風が全身を襲い息が白く吐き出されたけれど、一刻も早く帰らなければと急いでいた。
ショックだった。俺に友達だと言った癖に欲情できるシズちゃんに心を砕かれたかのような気分だ。
つきあえないと宣言された時よりも胸が痛くて、目の前につきつけられた事実に耐えきれなかった。つきあうことはできない、だけど友達として体だけの関係なら許されたなんて。
何も言葉にされなかったけれどズボンに膨らみがあったので、あのままだったら間違いなく襲われていた。お酒を飲んでいるのでそういう行為はできなくても、ふれあうことだけでも望まれていたのかもしれない。
だけど俺は許せなかった。いくら好きな相手でも、気持ちも無いのに抱かれるなんてできないと。
もしかしたら少し前の、この過去の世界に戻る前だったら可能だったかもしれない。こんなに感情が剥き出しになることもなかったし、何も考えないように心掛けていたのだから。
しかしそれは自分を偽っていただけで、心に響いていないわけじゃなかった。ちゃんと嬉しいとか悲しいとかそういう感情は表に出さなかっただけで、俺の中にちゃんとあった。
いろんなしがらみがあって表現できなかったけど、シズちゃんとつきあえて幸せだった。あの頃が一番よかったかもしれない、と残念なことを想ってしまう。
でもそれはきっとただの独りよがりだ。満足していたのは俺だけで、相手はそうじゃなかったから過去に戻りこうして手を出してきた。今度は友達として。

「はぁ…はっ…」

肩で息をしていたけれど流石に酒を飲んだ後の運動は辛く呼吸がままならくなってきたので、人気のない道で立ち止まる。一度止まってしまえば動けないような気がしたけどしょうがなかったのだ。
深く呼吸を吐き出そうとして、途中で失敗してその場に足から崩れてしまう。地面に手を突いて倒れないようにしたけれど、瞼から雫だけがぽたぽたと滴っていた。
頭の中も視界もぐらぐらするし胸は痛いし体も寒い。最悪の状態だったけどこうして冷静になってようやく、とんでもないことをしでかしたと悔やんでしまう。
冷静に対応できずに感情的になり逃げてしまったけど、きっと明日もシズちゃんはこのことを覚えているだろう。だって激しい衝撃を与えてしまったのだから、あれを忘れるなんてできない。

「んっ…あ、あっ、うぁ、あ、あー…!!」

言葉にできない気持ちを喉の奥から絞り出して叫んだ。取り返しのつかない事をして、友達というポジションさえも失ったことを心の底から悔やんだ。
三ヶ月もシズちゃんに会えない日々が続いてようやく会えたのに、友達で体の関係だけだとしても傍に居ればよかったのに。どうしてもそれが耐えられなかった。
好きすぎて、そんな中途半端な行為をしたくなかったからだ。そんなわがままさえなければ今頃は想像もできないことが起きていたかもしれないのに。
互いに童貞の二人が初めてを経験できたのかもしれない、多分きっとそうだ。そんな機会は永遠に失われて、もう修復することができないぐらい亀裂が入っている。
特に俺自身に。もうどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
怖い、と恐怖を覚えて腕が小刻みに震えている。これまでは平気だった言葉の数々も、今頃になって深く胸を抉り始める。あんなに会いたいと思っていたのに、二度と会いたくないぐらい辛い。
入口を間違えて出ることのできない道に迷いこんでしまったような気がしていた。前に進むことも戻ることもできず、一人取り残されて何も動くことのできない臆病者だ。
だったら思考を停止すればいいのに、溢れる涙と一緒で感情が抑えられない。だから必死にいろんな姿のシズちゃんを思い浮かべて好きだ好きだと呟き始める。そうする方法しか思いつかなかったから。

「好き…っ、好き、好きだ、っ、はぁ…す、き…」

時間も忘れて気が済むまで呟き続けた。夜が明ける前にはふらふらと起きあがりタクシーを拾って新宿の事務所に帰ったけれど、真冬にコートもなしに何時間も外で過ごすには酷だったのだ。
当たり前のように風邪を引いて高熱を出し、新羅を呼び出して適切な処置を受けるまで数日かかった。その間に一切の連絡もできず点滴を打たれて病状が回復した時には随分と日にちが経っていた。
携帯を忘れていたんだと我に返ったのは一月二十七日で、シズちゃんの誕生日の前夜だった。まだ完全に回復しているわけではなかったけれど別の携帯を取り出して、必死にメールを打ち始める。
何度か過去にメールを送りアドレスと番号は頭に入っていたので、不安な気持ちを抱えながら縋るように本文を入力し送った。
話があるので今夜池袋に行くから、という曖昧な内容だったけれどきっと気づいてくれると信じていた。待ち合わせ場所を指定しなかったのは、向こうがどう思っているか何もわからなかったからだ。
それまで毎日のように連絡を取り合っていたのに十日も音沙汰なかった。シズちゃん自身も俺の自宅は知っているだろうに押し掛けるようなことはしていない。新羅から風邪のことを聞いたのかもしれないが、連絡ぐらいはしようと試みたのではないかと思う。
つまり今日まで何もなかったのは、俺のことがもうどうでもよくて嫌になったか、他人を気に掛けることができない何かがあったかのどちらかだ。
予想できる答えは前者だ。もう友達という関係すらも嫌気がさして連絡を絶たれていた可能性の方が高い。もうそうとしか考えられなかった。
俺は何も知らなかった。疑心暗鬼に陥っていたのかもしれない。
勝手な思い込みと憶測だけで真実を確かめもせずに大事なことを決めてしまうぐらい、愚かだった。

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