数分もしないうちにシズちゃんの家に着いてしまって、玄関で靴を脱がされた後もおぶわれたままで結局ベッドの上に放られた。きっとこのまま顔を見られるのだろうと思ったので慌てて手で遮ろうとしたけど遅くて。 「なんだもう泣きやんで……ねえな」 「…っ」 しっかりと顔を見られたということは、俺自身も顔を見てしまったということだ。想像だけで涙腺が緩んでしまったのに、本物の威力は予想以上だった。また瞳から勝手に雫がこぼれたのだ。 こんなのちっとも俺らしくないし、ありえないと思っているといきなり頭に重みを感じる。ハッと我に返るといつの間にか被っていたフードの上をポンポンと叩かれていた。当然手加減されて。 「手前も泣くことがあるんだな。人前ではそういうことは絶対にしねえ奴だって思ってたのに」 「そ、んなの…」 俺だって初めてだし、シズちゃんの前だからだろという言葉は飲みこむ。今までの恋人同士という関係なら言ってもよかったし効果的だったかもしれないが、今はまだ違う。 告白をされていないのだから言ってはいけない。居なくなった恋人を追い掛けて過去に戻ったと知られてはいけないのだ。 「どっか痛いわけでもねえよな?なんだって、こんな…」 「君に言うわけ、ないだろ」 必死にようやく吐き出した言葉はやけに小声で掠れていた。三ヶ月振りでもう二度と会えないかもしれないと諦めていたから、たった一言が重く感じられてまた涙が溢れる。涙腺はきっと壊れてしまったのだろう。 「ははっ、ようやくしゃべったじゃねえか。声が出ねえかと思ったぜ」 いつも通りの答えに機嫌を悪くするかと予想していたのに、急にシズちゃんは微笑んだ。それは今まで一度だけ見たことがあって、三日後には確実に見れる。 俺が好きだと告白して返事をした瞬間の心底嬉しそうな安堵した表情に似ていた。 ただ泣くだけで一年もの間見ることができなかった顔を見れるなんて、驚いてしまう。悩んでいたのが馬鹿馬鹿しいぐらい簡単ですぐ傍にぬくもりがあった。 「…っ、嫌だ、もう!」 「あ?どうしたんだ?」 フードの上からとはいえ頭を撫でられているとか、シズちゃんの家まで優しくおぶわれて連れて来られたとか何もかもが幸せすぎて息が苦しい。居なくなったできごとがなかったら、こんな当たり前のことに感動なんてしなかった。 絶対にシズちゃんは死なないし、どこかに行ったとしても俺が見つける自信があった。いつもは喧嘩をして逃がさないと怒鳴られていたけれど、本当はこっちがそう思っていたのだ。 逃がすわけがない。そのおごりがあっさりと居なくなった途端に崩されて、壊れてしまった。 これまで保ってきた折原臨也が、好きだという気持ちが抑えが効かないぐらい出てきてしまって。 「しっかし手前が泣くなんてよっぽどのことがあったんだよな?仕事にでも失敗したのか」 こんな時に全く空気なんて読めないな、と少しため息をつきながら目線を逸らす。まさかシズちゃんが好きすぎて会えて感極まって泣いたなんて言えない。一生の恥だ。 一体どう取り繕えばいいのだろうかと必死に頭を巡らせながら、黙っているという選択肢は欠落していた。言い訳をしないと余計に疑われると信じていて。 「きみ、が…っ」 「なんだ、俺がどうした?」 「あ…その、っ、えっと…殴らない、から」 「は?殴らない?俺が?」 途切れ途切れになりながら告げたが、あまりにも思いつかなくて数秒後に頬がかあっと熱くなる。ただの言い訳にしてはおかしなことを口走ってしまったと。誤解されたらややこしくなると思ったのに。 「俺が手前を殴らないのにびっくりして泣いたのか?もっとマシな言い訳考えろよ」 「だ、って…っ」 「人のせいにするのもいいけどな、そういうことばっか言ってると自分に返ってくんぞ。明日になったらまた俺が殴るかもしれねえだろ」 「そんなの…っ、わかってるよ」 自分に返ってくるという言葉にギクリとした。 せっかく恋人同士になったのに、俺がシズちゃんに対してあんな態度をしていたから居なくなった。過去に戻ってやり直したいと思わせてしまったのは事実だ。 「あー…いや別に説教したいわけじゃねえ。なんか今の手前がすげえバカっぽく見えたっつうか」 「ば、バカって……!!」 「待てよ怒んな。俺はそういうの嫌いじゃねえから!」 「……っ」 あまりにもストレートな言葉に一瞬面食らってしまう。嫌いじゃないということは好きだ、ということでなんだか盛大に告白されたような気分で胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。 知らない振りをしているけど、シズちゃんが俺のことを好きなことは知っている。俺だって居なくなってから好きという気持ちが強くなってしまった。 「し、シズちゃんこそ…変だ」 「変?ああ、まあそうかもな。そうだよな、昨日まで普通に喧嘩してたのに急に殴らなくなったらやっぱ変だって思うよな」 「う、ん…」 俺はシズちゃんが変だとわざと言ったけど理由はわかっている。つきあうことになってから喧嘩しなくなったし、怒っても手はほとんど出さなくなった。それは多分俺が大事だからで。 なんだか唐突にシズちゃんにすべてを隠していることが後ろめたくなる。向こうは必死にこっちを窺っているのに、俺は全部を知っているのだから。 「なあ変でも、いいんじゃねえか俺達」 「……えっ?」 急に言い出したことにおもわず涙が止まる。なんとなく雰囲気からしてその後の言葉を察することができたので、心臓がバクバクと鳴り始めた。 三日後を待たずして、まさか告白するのかと身構える。こっそり後ろに隠した手は緊張で小刻みに震えていた。 「今更だけど変えられねえか?俺は手前のこと…」 「…っ」 しかし予想していたのとは違う言葉だった。 「俺は手前と喧嘩してえわけじゃなくて穏やかに過ごしてえ。今までの事全部忘れるとは言わねえけど、いがみ合うんじゃなくて友達になってくれねえか?」 「え?な、なんて言って…?」 「っ、だからよお!俺は手前と友達になりてえんだよ、わかったか!!」 「とも、だち…?」 一瞬で全身から力が抜けて呆然としてしまう。 まさか友達という言葉が出るとは思わなかったからだ。 『好きだ、つきあってくれねえか』 期待したのは過去に言われたもので。でも望んだものは簡単には手に入らないことなどとっくに知っていた。 「ねえ本当に…友達でいいの?」 「ああ友達がいい。手前にとっては笑っちまう話かもしれねえけど…」 好きなのにどうして友達なんだろうとショックを受けながら、それでも少し前向きに考えてみる。もしかしていきなり告白したのが性急すぎたと後悔したから、友達という近い関係から始めようとしているのかもしれない。 だってまだ嫌いだとか、好きじゃないとかそういうことを言われたわけじゃない。どちらかというと好意的に、友達になってくれと告げられただけだ。 必死に少し傷ついた心を奮い立たせながらため息をつく。恋人でつきあうことになるならこのままシズちゃんの胸に飛び込んでいいと思ったのに。それが残念だった。 「笑ったりしないよ。友達に…」 「そうか!じゃあいいか、友達だからな。何も遠慮することねえぞ。相談事があるならなんでも言え。な?」 「わかったよ。とりあえずもう大丈夫だから、ちょっと離れてくれるかな?」 了承するように首を縦に振ったのが相当嬉しかったのか、口調を荒げて興奮しながら捲し立てた。少しだけ複雑だったけれど、喜んでくれたのならいいかと気持ちを切り替える。 こんなにはしゃいでいる姿なんて滅多に見れないだろうから。客だからなんか水でも持って来てやる、と言い残したシズちゃんはすぐに台所の方に消えた。 「泣いただけなのに…」 少しだけ自分の気持ちに素直になってみることにしたら、こんなにも劇的に世界が変わるなんて思っていなかった。もっと早くに気づいていれば本当はよかったのだけど、手遅れなわけじゃない。 友達という新しい関係で始めることができるのなら、そこから恋人に発展していくのもいいかもしれない。今までとは雰囲気も全く違うし大丈夫だろうと確信はあった。 なにより俺自身に変わろうという気持ちが大きかったから、今ならシズちゃんに対してなんでもできるだろうと考えていて。 きっとこれからは毎日が違った意味で楽しくなるだろうと希望を感じていた。悲しいことなんてきっと二度とないだろうと疑わず、どういうのが友達だろうかと頭を悩ませ始める。 本当の友達の意味なんて、知らなかった。 text top |