唇を塞ぐように押し当てられた後に、そのままなぞりながらついばむような優しい口づけだった。こっちはもう緊張して硬直していたのに、相当余裕があるのか背中に手回して撫で擦っている。 もっと強引なものとも思っていたので、その動きに驚いて何もできなくて。さすがに舌まで入れられることはなかったけれど、俺はそれどころじゃなく動揺していて頭の整理がつかない。 (嬉しい、けど…これは、だめだ。だめだよシズちゃん) でもずっと警報が鳴っていて手放しでは喜べなかった。それどころか間違いを起こしてしまった自分に対して、叱咤してやりたい気持ちで。 キスなんて、欲しかったわけじゃない。俺はもう何もいらなかったのに、どうしてこんなことを言ってしまったのだろうと。 「は、ぁ……っ」 数秒も経たないうちに唇だけが離れていって、我に返る。でも顔をあげられないぐらい、酷い表情をしているのは明白だった。 「どうだ?してやったぜ?」 「……ぅ」 まだ体は密着したままで逃げられなかったので、シズちゃんの声が耳元で低く響く。俺を驚かすことができたのがそんなに嬉しいのか、声が弾んでいた。そのことに余計に顔を顰める。 まさかしてくれると思わなかったので喜ばしい気持ちはあったけれど、命令をしてそれに従ったのだからこの行為自体に意味は多分ほとんどない。俺に対する興味なんてこれっぽちもない。 これまで一度だって俺のいうことを聞かなかったのに、どうしてこういう一番嫌な時だけ聞いてくれるのだろうかと唇を噛む。そんなに告白して振られる惨めな姿が見たいのだろうか。 「黙ってねえでなんとか言えよ。キスされた気分は、どうだ?」 「そんなの…最悪だよ。まさか本当にする、なんて」 「びっくりさせることができたなら、そりゃあよかった」 余裕を見せているシズちゃんが憎かった。どうして大嫌いな俺にこんなことをして、怒らないのか、嫌がらないのか。少しでもそういう態度を取ってくれたほうがいい。 だってそ怒りすらもみせないということはつまり、目的の為ならなんでもするということで。そんな本当の性格じゃあない。らしく、ない。俺に対してだけは、絶対にそんなことをしなかったのに。 頑なに譲らなかったところを、こうもあっさりと崩したということはつまり、もう執着されていないのだ。俺だけは、嫌だという感情がなくなったら今の関係は何なのだろう。 「じゃあ約束は守れよ臨也」 「…っ、そんなの一度だけなんて言った覚えはない」 「あ?」 必死に頭の中でいろいろと考えてみるのだが、ショックのあまりに働かない。だからありがちな言葉を口にしたのだが、このままだと泥沼に嵌ってしまう予感があった。 さっきから胸の奥で燻っている気持ちが、自分が呼び掛けてくるのだ。 「なんだ、まだして欲しいことがあるっつうのか?わがまますぎるんじゃねえか」 「回数制限はしていないよね?だからシズちゃんは俺が納得するまで言う事には従って、もらわないと」 「なんだそりゃ。まあいい機会だし、聞いてやろうじゃねえか」 一言一言話をしながら、じんわりと手に汗が滲んでいて胸がずっともやもやとしていて酷く不快だ。でもガンガンと頭の中に響いてくる声は止まらない。 言ってしまえ、シズちゃんを逃げられないようにがんじがらめにしてしまえと。今なら夢の中で叶えられなかったことも、言い方一つで叶えられると。 「俺に、なにをして欲しいんだ?」 「…ぅ…」 一瞬だけ、迷った。これを言ってしまえば最終的に傷つくのは、俺だ。しかも夢と違って死ぬわけでもないのだから、その心の傷は一生残る。それでいいのかと。だけど結局、抗えなかった。 「シズちゃんがその…好きだった相手にしたかったことを、俺にしてよ」 「どういうことだ?」 「俺に優しくしてくれるシズちゃんが、見たいんだよ。それに君の好きっていう気持ちがどこまで本気なのか、この目で確かめてみたくなった」 まだ目線は逸らしたままだ。こんなのを面と向かって言えるわけがない。だって涙がじんわりと滲んでいて泣いてしまいそうだったから。本当はこんなことを言いたかったわけじゃない。 好きだと素直に一言告白できればよかったのに、と胸がズキズキ痛んでいて。 捻くれてこじらせた自分を、笑ってやりたい気分だった。どうせ優しくされたって、傷つくのはこっちだけなのに墓穴を掘ってしまったのだから。 「手前のことを好きになれってことか?」 「それは少し違うよ、俺の事は好きにならなくていい。だけど恋人みたいに、接してくれってこと。それで君の想像する愛っていうのがどういうものなのか、知りたい」 きっぱりと口にした途端、ほっと胸からつかえが取れたような気がして安堵する。こっそりと息を吐きながら、ため息をついた。随分と恥ずかしいことを言った自覚はあったけれど、相当なものだ。 要は寂しい俺の事を慰めてくれと言っているようなもので、それを言葉を変えて脅すように要求しているだけで。バカだなと、口の端を歪めて笑う。 返事はすぐには返ってこなかった。断らないだろうとわかっていたけれど、待つ間は変に意識してしまう。そうしてようやく、口を開いた。 「そんな言い方じゃさっぱりわかんねえ。でも全部すっ飛ばして、好きにしていいってことなんだよな?」 「はあ?ちゃんと意味わかってる?君が俺にしたいことをしていいって許したわけじゃなくて、好きな相手にしたいことを…」 誤解されていると思ったので、内心苦々しい気分になりながら説明しようとして。 「もう、黙ってろ」 「え…?」 次の瞬間には背中に硬い衝撃が伝わってきて、なぜかソファの上に押し倒されていた。そのことに俺は、数秒気づけなくて呆然としながらシズちゃんのことを眺めていて。 だけど大きな手ほんの少しがシャツを捲しあげて肌にふれてきた時に、唐突に我に返る。そして一気に頬が高揚していって、そのまま怒鳴りつけていた。 「な、なに…してんだよッ!これはどういう、こと…」 「見てわかんねえか?」 「まさ、か…」 こっちを真っ直ぐ睨みつける視線の中に、いつもとは違う類の感情が浮かんでいることを知って絶句する。いや、まさか待ってくれと置いてきぼりな心が訴えていたが腰骨を撫でるようにふれてきて。 その感触が背筋を駆け抜けていくと同時に、頭の中にいろんな映像がフラッシュバックした。それは全部、起こってはいない事だけれど。 複数の男達に体を好き勝手されてるところや、幻覚のシズちゃんのとセックスしたこととか、電話の声を聞きながら犯されたこととか、シズちゃんの声に囁かれながらオナニーしたこととか。 どれも何一つ現実ではないのに、俺の心は勝手にそれを夢と境がないぐらい認識していて。そうして、最後には白と赤の混ざり合った床が見えてしまった。 「やだっ…ま、って、そんなの…!?」 でもいつもと違うのは、発作のように息苦しくなったりしないことだ。妙にリアルな感触が丁寧に体を撫でていて、くすぐったいぐらいなのだ。パニックを起こしているのに、向こうは真剣な表情をしていて。 そのまま顔の前まで近づいてきたと思ったら、告げられた。 「俺にこういうことされんの、嫌か?」 「なに、を…っ」 意図が全く読めなかった。嫌がらせにしては度を越えているし、じゃあこれはどういう理由があるのかと。でも俺に考えられることは、たった一つで。 シズちゃんの性事情なんて知らないけれど、もしかして好きな人を失って持て余した想いを発散させなければいけないほど切羽詰まっているのではないかと。 だとしたらその相手はかなり最近にいなくなってしまったということになるが、心当たりはない。俺が知らないだけなのかもしれないけれど、腑に落ちなくて。だけど考えている場合ではなかった。 どんどん行為はエスカレートしていて、今は両手がシャツの中に潜り込んできている。早く決断しないと、このままではもっとややこしいことになる。 「シズちゃ、んは…俺の体で欲情できる、の?」 「できるぜ」 恐る恐る尋ねるとはっきり答えられて、余計に混乱してしまう。向こうは逆にすごく落ち着いていて、それが歯痒い。 最初からこれが目的だったとは到底思えないけれど、大嫌いな相手でも普通に接していた理由が、弱っている俺にこういうことをしたいとずっと思っていたからだとしたら。 好きにしていいと言葉を勝手に解釈した挙句に襲われているのだから、多分こういう淫らな行為を始めから俺としたかったのだ。そんなことをする隙はこれまで常にあったのだから。 貶めて苛めるのが目的なのか、ただ性欲処理をしたいだけなのかわからないけれど、この冷静さは始めから考えていないとできない。 「だいたい、好きにしていいって許可したのはそっちだ。今更できない、って言わないだろ?」 「俺を脅すつもり、なんだ」 「ああそうだな、それでもいいな。わけわかんねえことをごちゃごちゃ考えずに、抱かれろよ」 あまりに男らしい言葉に、くらりと眩暈がした。かっこいい、好きだという気持ちが膨れあがって、こんなの拒めるわけがないと悟る。元から俺は強引なシズちゃんに散々流されてきたのだ。 どうするか必死に頭を回転させて、ようやく閃いたのは。 期限付きでもないただの曖昧な命令よりは、体の関係という明確な目的だったら、いつまでも繋ぎ止めておくことができるかもしれないと。 text top |