二年も過ぎていれば、まるっきり景色が変わっている場所があってもおかしくはない。それを目の端に捕えながらぶらぶらと歩くのは、おもしろかった。 趣味である人間観察を再開する前に、いろいろと把握しておかなければいけないと思いながら指定されたそこに向かう。特別何かがあるわけではなかったが、割と池袋の中心に近い住所で。 四木さんが何を思ってこの手紙を渡してきたのか、結局のところわからなかった。出会ってから数年は過ぎていたけれど、それでわかるほど自分を曝け出すような人ではなかったから。 「あと少しなんだけど…」 携帯で地図を検索し、目的地に近づきつつあったので念の為警戒しながら歩く。少しだけ遠回りをして、そこには何があるのかを遠くから確認しようと少しだけ狭い路地から顔だけを覗かせて、見た。 そこはこんな街中には珍しく、八百屋なのか果物屋なのかわからないけれどそれらしい構えの店があって俺は驚いた。近くに住宅街もあまりないし、誰がそこの商品を買うのかと。 せいぜい駅からの帰り道に通りがかった者か、数メートル先にはホテル街があったので、デリヘル嬢に高級な果物を差し入れするバカか。 コンビニは何店舗も周りにはあるので、仕事で会社に寝泊まりしているような人間はそこですべて済む。だからその場所に存在するのが、明らかに異質に見えた。 ここに何があるのだろうと首を傾げながら少しずつ近づいていく。しかしあと数メートルでその店に辿りつく、というところで覚えのある声を聞いた。 「これ、貰えますか?」 「はいわかりました」 店先に立っていた主婦らしき年配の女性が、奥を指差していたのでそこにある商品を買うようだったのだが。返ってきた声に、あまりにも聞き覚えがありすぎて。 俺は慌てて手の中の手紙をぐしゃりと握り潰して、すぐ脇のビルの入口へ駆け込んだ。その先はエレベーターがあったが、そこまで奥には行かず立ち止まって口元に手を当てる。 そうしてわなわなと肩を震わした。怒りとか、喜びとか、懐かしさとか、さまざまな感情がぐちゃぐちゃになって息苦しくなる。姿は見えなくても、声だけでわかった。 (なんで、四木さん…っ、シズちゃんの働いてる先の住所とか…!) あれから一度も俺から尋ねなかったし、向こうも聞いて来なかった。だからそれなりにやっているのだろうとは思っていたけれど、不意打ちはガツンと頭の中に響いた。 そうしてようやく忘れられたと思っていた恋心が、むくむくと膨らみそうになる。慌てて唇を噛んで押し殺した。けれども、なかなか消えてはくれない。 そのうちに、目頭が熱くなってくる。これ以上はヤバイ、と思っているとまた声が聞こえてきた。 「ありがとうございました」 あまり聞いたことのない、穏やかな声色が耳の奥に響いてくる。いや、でもほんの数週間だけれど普通に過ごしたことも確かにあった。そのことが瞬時に蘇ってきて、ダメだと思う。 これは重症だと気がついて、ここから逃げ出そうと思うのに足が震えてまるで動けない。みっともなく、ただ息を押し殺していると次々と聞こえてくる。 「お兄さん、こっちの頂ける?」 「この大根ですか?」 「そこの苺の形が綺麗だし、紅くておいしそうだね」 「多分うまいと、おもいます」 不思議と客は途切れることなく、常に店の前には誰かが立っていてそれこそシズちゃん相手に世間話をしている者もいた。しかもそれを、静かに相槌を打ちながら聞いているのだ。 そこには、前にあんないかがわしい店で働いていた時のような面影はなかった。怖い顔で客を睨みつけながら、たまに脅すような行為もしていたことなんて、思い出せないぐらいに。 いかにも好青年、という感じで。俺の知らない、平和島静雄だった。 (そうか、うまくやってるじゃないか…うん) 学生時代は俺絡みで喧嘩に明け暮れていたけれど、多分今はもうそんなこともないのだろう。怒りっぽくてキレやすかった性格の名残は、どこにもない。 きっとこんな風にシズちゃんが変わったのは、俺と関わらなくなったからだ。どう客観的に見ても、そうとしか考えられなくて。 (今更…会えるわけがないだろう、こんなの) いつか薬の副作用も無くなって、そうしたらまた前のように喧嘩ができると思っていた時もあった。ナイフを振り回して、怒らせて、傷つけて、そうしていがみ合うことを望んだけれど。 こんなのを見せつけられたら、そんな気分も吹き飛んだ。もう別の方向に進み始めているのに、どんな顔をして現れればいいのだろうか。 これがまだ半年とか数か月ならよかったけれど、二年だ。その差はあまりにも大きくて、愕然としながら目の前が真っ暗になる。そこに俺の入る余地はないだろうと。 おもわずその場にしゃがみこんで、とうとう堪えきれなくなった涙を一筋こぼした。その後はもうぐにゃりと視界が歪む。 「ふ…っ、う…」 短くため息を吐いて、それから暫く泣いた。それは今までで一番悲しい涙で、ずっと胸の奥がぎゅうぎゅうと締めつけられて痛かったけれど耐える。 これで最後だから、もう二度とこんな気持ちにはならないから、今だけ少しだけ好きだったことを思い出させて欲しいと心の中だけで訴えて。 目元に溜まっていた水を乱暴に黒いコートについているファーで拭って、立ちあがろうとしたところで。拭った左腕を誰かに引っ張られていた。 「……えっ」 「おい、やっぱり…手前ッ!!」 すぐ傍から聞こえてきた声に動揺して、慌てて顔をあげると想像通りの相手が屈みながら俺の腕を掴んでいて。一瞬でパニックに陥った。 暫くしゃべることを忘れていた唇を必死に動かして、何かを言わなければと思うのに、目を瞬かせることしかできない。そういえば、昔愛用していたナイフさえも今は無い。 「こんなとこでなにやってんだよ!」 それはこっちが言いたいと怒鳴りたいのに、うまく息さえもできない。唯一できたのは、止まりかけていた涙を流すことだけだった。 これでは発作が治ったというのに、あの時と何も変わらなかった。離せ、さわるな、と叫びたいのにそれすらも口に出せないのは前より酷いかもしれない。 「おい待てよ、ここにいるってことは…もう治ったのか?」 その問いに答えるように、必死に頭を振った。もう今はそれをすることしかできなくて、こんなにも弱くなって女々しくなった自分を憎んだ。こんなのは、気持ち悪いと自分自身に言う。 室内でもできる限り体は動かしていたけれど、きっと前のように走って逃げることはできなくなっている。でも腕すら振りほどけないのは、未練がましい感情のせいだ。 「も……っ、う…や、だ」 喉の奥から絞り出した、自分自身を嫌悪する言葉はあまりに小さくて向こうも聞き取れなかっただろう。どうしようと困っていると、急に今度は右肩を掴まれて。 そのまま強制的にその場に立たされて、すぐ後ろの壁に押しつけられながら、問われた。 「戻ったんだよな?変な発作とか、魘されたりとかそういうのはねえんだよな?」 「……う、ん」 今度ははっきりと声が出た。そうして真正面からシズちゃんの視線と絡み合って驚く。その瞳が変わらず、鋭く俺のを見つめていたから。 そこにさっきまでの穏やかさは全く感じられなくて、二年前と何ら変わらないものだった。それに酷く安堵して、呼吸ができるようになる。でも直後に。 「そうか」 「…っ、え!?」 体を引き寄せられて殴られるかもしれない、と反射的に目を閉じたのだが信じられないことに何も起きなかった。いや、起こってはいたけれど予想とは違うもので。 慌てて目を見開いて驚愕した。背中を掴むあたたかい腕と、鼻の先に香る煙草の臭い。前はそんなの吸ってはいなかったというのに。 とにかく思考が停止をして、何も考えられなかった。抱きつかれているだなんて、信じられなかったのだ。 「戻ったのか、よかった臨也」 「…シズ、ちゃ……?」 今いったい何て言ったのだろうかと頭の中で反芻するけれど、意味が分からなかった。どうしてそんな言葉を掛けられているのか、理解ができない。 おもわず顔を顰めて体を引こうとしたのだが、ガッチリと掴まれていて身動きが取れなかった。涙はいつの間にか止まっている。 そのうちに、なんだか妙に恥ずかしくなって慌てて声を荒げて叫んだ。 「い、痛い…痛いから離してよ!」 「ああ悪い」 本当は痛くもなんともなく、心地いいぐらいだったのだがなんとか引き剥がす口実にそう告げたのだ。しかし力がゆるめられただけで、体勢は全く変わらなくて混乱する。 そうして少しだけ冷静になった頭が、今は仕事中じゃないのか、とかこんな場所で男同士が抱き合って、と余計なことを考える。だから今度こそ、きっぱりと告げた。 「ちょっと、離してよ!!」 しかし返事は、とんでもないものでその場で卒倒しそうになったぐらいだった。 「離さねえよ。っつーか、このまま連れ帰ればいいのか」 「は……!?」 そうして次の瞬間には、ふわりと体が地面から持ちあげられて手が腰の辺りを掴んでいることを知った。 text top |