「え…?」 一瞬言われている意味が解らなかったが、頭の中で理解したところで、タイミングよく新羅が目配せをしてきた。長年の俺の気持ちを、この友人は知っていたので気を遣ったつもりなのだろう。 でも俺は冗談じゃなかった。 せっかく忘れようと思っていたところに、全く知らない別の人物が現れたのだ。このシズちゃんは、あの夢の中のシズちゃんとは違う。 ナイフをへし折って、いつでも死ねばいいと吐いてくる、仇敵なのだ。それが家まで送ってくれるなんて、天変地異が起こったとしか考えられないぐらいなのだが。 もしかしたら、弱っている俺に相当驚いたのかもしれない。だって同じように、想像のシズちゃんも体調を崩しているのを見て態度を変えたから。 「でも…そんなの…」 「じゃあ静雄さっさと運んでくれるかな?そろそろセルティも帰ってくるし、正直邪魔なんだよね」 「ちょっと、新羅ッ!!」 迷っているのを見透かしたかのように、強引にシズちゃんの方を向いて告げて、帰るように促してきた。俺の言うことはちっとも聞かない癖に、新羅が言うことは従うのは知っていた。 だからじっとこっちを見た後、無表情のまま歩いてきてベッドの上に座っていた俺の腰と足を掴もうと腕を伸ばしてきた。慌てて逃れようとしたけれど、その時は既に遅くて足首を掴まれていた。 「や、やだって…!」 「大人しくしてねえと、足をへし折ってやるぞ」 「…ッ!?シズちゃんの癖に…俺を脅すなんて…!!」 暴れ出したことに釘を刺すように、ドスの効いた低い声で言葉を吐き出してきたので一瞬で頭に血がのぼった。 怒りが沸いてきて、ナイフがあったら殴りつけてやろうとしたのだが、その時にあることに気がついた。だから慌てて、手で制した。 「ま、待って待って!ストップ!」 「なんだよ…」 明らかに苛立ちを含んだ口調で返してきたが、言われた通りに手を止めてくれた。そのこと自体も驚きだったが、もっとびっくりしたことが起きていたのだ。 「あのさ…なんでシズちゃんは、普通に俺にさわれてるの?」 「あぁ…?」 四木さんにさわられた時は、嫌な映像が頭の中を占めて苦しくてしょうがなかったのに、今は苦しいどころかまるっきり普通の状態だった。まるで何事も無かったかのように。 どういうことかと首を傾げていると、すかさず新羅が余計なことを言いだした。 「やっぱり!そうだと思ったよ。うん臨也のそれは病気なんかじゃない、まあ精神的っていう意味では病気だけど」 「ロクに診察もしてないのに勝手なこと言うなよ!いいから新羅も俺にさわってみればいいだろ、そうしたらわかる…」 「嫌だよ。そうしたら、また倒れるに決まってる。だからこのまま二人で仲良く帰ってくれたら、治療代は後日適正金額を請求するから」 まるでこうなることを知っていたみたいに、あっけらかんと言われてただ俺は苛つくしかなかった。知らない癖に何がわかるのか、と罵ってやってもよかったがその前にシズちゃんの方が動いた。 すっかり隙ができてたので、あっさりと膝の裏と腰に手を置かれてそのまま体ごと抱えあげられてしまったのだ。その間にしまだ新羅がしゃべっていたが、全く耳に入っていなかった。 あまりにも想定外すぎたからだ。肩に担がれるのではなく、とても丁寧に抱きあげられたことが。 「まだ、俺は納得してない!下ろせよッ!!」 「これ以上しゃべりやがったら、外に出て下までぶん投げてやるぞ」 「…っ、最悪!」 言葉数は少ないと言うのに、まるで容赦がなかった。有無を言わさない物言いに、そんなに腹が立つのになんでこんなことをするんだと詰め寄りたかった。 でも現状で一人で帰るには相当に困難なぐらい疲労していることは知っていたので、利用するのが一番いい方法だった。でも、完全には受け入れたくなかったのだ。 古傷に塩を擦りこまれたみたいに、チクチクと胸が痛んでいたから。早く忘れようとしているのに、これでは忘れられないと。 そうして結局そのまま新宿の俺の事務所まで送り届けられて、部屋に辿り着いたところで下ろしてくれと渋々頼んだ。そうしなければどこまでも運ぶ気だったに違いない。 未だ複雑な心境だったが、とりあえず家まで何事もなく戻れたことには安堵していた。でも礼なんて言ってやるものかと思った。 「もういいだろ?さっさと帰りなよ」 二人で喧嘩していた時を必死に頭の中で思い出しながら、そう冷たく言い放った。俺はうまく振る舞えているだろうかと不安になりながら、平静を装った。 しかし元々シズちゃんが思い通りに動くわけがなかったのだと、改めて知った。 「帰らねえよ。それより合鍵を出せ」 「はい……?」 「聞こえなかったか、合鍵持ってんだろそれをさっさと俺に渡せって言ってんだよ」 「えっと、全く意味がわからないんだけど…どういうことかな?」 聞き間違いだと思ってもう一度問いただせば、また同じことを言われてしまう。そうして相変わらず睨みつけるような視線で俺の事を見ながら、瞳だけで早くしろと言ってきた。 でも俺にはさっぱり理由がわからなかった。合鍵を渡すことの意味が、まるでわからなかった。ここまでわからないと思ったのは、初めてだった。 「栄養失調なんて、バカじゃねえのか?もう二度とそんなバカなことにならねえように…俺が監視してやるよ」 「は?いや、なんでシズちゃんがそんなことするのさ?」 それまでかろうじて怒りを抑えこんでいたらしいシズちゃんが、目の前で突然ぶち切れた。ものすごい形相で睨みつけてきて、俺の体を一瞬で壁に押しつけた。 「…っ、う!?」 「こんな状態じゃ喧嘩もできねえだろうが!それぐらいわかれよ、ノミ蟲が!!」 怒鳴っている口調とは反対に、肩を掴む手は相当加減されているのか痛みはなかった。こっちが驚いて声をあげただけで、暴力でどうこうする気はないのだとそれだけでわかる。 夢の中のシズちゃんの方が記憶に残っていて、こっちのシズちゃんのことは忘れていたけれど、それでも見分けがつく。これは、おかしいということぐらいは。 俺の知っている、池袋の喧嘩人形ではないと。 「どうしたのさ?なんかおかしくない、シズちゃん。変な物でも食べた、それとも…」 考えたくはないけれど、もし心当たりがあるとすれば一つだけだった。 「不甲斐ない俺に同情でも、してるの?」 自分で言って情けなくて、すぐに顔を伏せた。 確かに俺は今、弱っている。あんな夢を見てしまって、ありもしない幸せを想像してしまって、それで普通に生活ができなくなって。そんな自分に心底嫌悪している。 しかも性質が悪いのは、夢ごときに、と捨てきれないからだ。夢の中の俺も望んでいなかったのに、最後の最後で願いが成就されてしまって。 俺の事が好きになったシズちゃんを、知ってしまったから。 それを忘れるのは、とても惜しかった。一生得ることのない宝物を、胸の奥底にだけ秘めておくのに何の不都合があるだろうか。 代わりに毎晩魘されるのなら、代償はきっちりと払うからずっと見せて欲しかった。最後には殺されてしまう夢でも、合間に一緒に過ごせた欠片が見れるなら、いくらでも浸っていたかった。 そんなことを思ってしまうなんて、俺らしくないけれどいくらでも罵ればいいと。それこそ、こんな現実なんて手放して永遠に夢の世界に行ってもいいとすら考えていた。 酷く思いつめた思考だとわかっていて、やめられないぐらい弱くなっていた。だからそれを本能的に悟られて同情されているのなら、間違いではなかった。 「同情って、なんだよ」 「なにって……そんなこともわからないの?」 ただでさえ無様なのに、これ以上説明を求めるなんてなんてことを強いてくるのだと、唇を噛んだ。でもきちんと言ったところで、まともに通じないだろうとも理解できる。 「難しいことは考えてねえ。とにかく手前が元に戻るまで、俺はここに住む。だからさっさと鍵を寄越せ」 「元にって、どのぐらいの間だよ」 「その薄っぺらい皮に肉がつくぐらいか?」 顔を顰めながら逸らした視線を戻すと、あっさりとそれを躱して、なぜか俺の腹の辺りをツンツンと突いてきた。そこは確かに前よりも細くなっていた。 頭の中で納得しながら、今されたことを思い返して瞬時に頬がかあっと赤く染まった。 「なっ…!?さ、さわるなよ…!!」 慌てて逃げようと体を捩ったが、肩を押さえる腕が逃がしてはくれなかった。 text top |