だからあまり外で直接会う仕事はせずに、できるだけ事務所の中だけで済ませていた。けれどもどうしても逃げてばかりではいられなくて、結局呼び出されていた。 池袋だけはどうしてもダメだという俺のわがままを聞いてくれて、ギリギリ池袋と新宿の境目ぐらいの場所で相手と落ち合った。 「折原さん…随分と顔色が優れませんね」 「すみません。だから直接会うのは嫌だったのですが。これ約束の情報です」 持っていた大き目の封筒を手渡すと、それを受け取ろうと四木さんの手が伸びてきた。その時一瞬だけ違和感を覚えたのだが、顔には出さずに悟られないようにした。 そうして相手はいつもより不機嫌そうな表情をしながら、小声で告げてきた。 「そんな顔で出回るんじゃねえ。無理なら無理っていつもみてえに言えばいいだろうが」 「そう、ですよね」 断れなかったのは、もう何日も外に出ていなくてこれが機会だと思ったからだ。悶々と一人で居るよりは、これが口実で外の空気を吸った方がいいのではないのかと。でも結局怒られるだけだった。 自分でも相当酷いことぐらい、わかっていた。食事もまともに取れなくて、眠れなくて、こんな状態で出歩くなんて自殺行為だと。でも心が空っぽになっていた俺は気づけなかった。 ここでもし隙を突かれて俺を恨んでいる相手に襲われたとしても、きっと躱せない。ナイフを持っていたとしても、うまく逃げれる自身が無いぐらい落ち込んでいた。 「暫くは仕事も休んで安静にしてろ」 その時、何気なく四木さんの手が俺の頭の上にぽんと手を置いて撫でてきた。一瞬のできごとですぐには意味がわからなかったが、自覚したと同時にとんでもないことが起こった。 「…っ、あ……うあ゛っ……!?」 急に目の前が歪み、呻き声が喉の奥から漏れてきて全身に汗が滲んできた。無意識に手を振り払い、数歩後ろに下がってその場にしゃがみこみ震える肩を両手で掴んだ。 そうして荒い呼吸を必死に整えようとしていると、慌てた四木さんが俺の肩を掴んで怒鳴ってきた。 「おい臨也!どうしたんだ!!」 「ひっ……あ、やだ、やっ…こわ、こわいっ…!」 しかし勝手にしゃべる唇からは悲鳴しか漏れず、麻痺するように全身を震わせながら子供の用に嫌だ嫌だと顔を横に振るばかりだった。 そうしてありもしない悪夢が勝手に蘇ってきて、四木さんの体が見知らぬ男の黒い影に変わった。そうしてありもしないのに、全身を貫かれて淫らに感じる感触が伝わってきた。 これ以上はヤバイと思った時には、気を失っていた。 次に目を覚ました時は見慣れた天井があって、少しだけ安堵した。自分の家ではないけれど、よくここに連れて来られては治療を受けていたからよく覚えている。 体を起こすと机に向かっていた新羅が気がついて、俺に振り返って告げてきた。 「四木さんが連れてきた時は驚いたけど、本当に酷い栄養失調だね」 呆れるように笑いながらそう告げてきた。腕には管が刺さっていて、何をされたか一目瞭然だった。でも俺が聞きたいのは、言いたいのは別の事で。 「一応聞いたよ。だから俺は君が目を覚ましている時は触れない。話せるようなら事情を話してくれるかな?」 さすが医者だと感心したが、少しだけ躊躇した。だって俺は、俺が今一番悩んで困っていることが普通の事ではないと知っているからだ。 ありもしない幻想に、心を奪われて苦痛を感じて発作みたいに苦しくなるだなんて。もし俺に起こっていることでなければ、鼻で笑っているところなのだ。 「それは…」 「言いにくいなら話さなくていいけれど、今更遠慮するなんておかしいじゃないか。長年君の静雄への気持ちとかうるさいぐらいしゃべっておいて、隠すことなんかあるのかい?」 「…っ」 静雄という名前に心が反応した。何も考えないようにしていたのに、それだけで胸が軋むように痛み涙がぶわっと溢れてきて頬を濡らした。突然泣き始めた俺に対して冷静でいる新羅は、やっぱりすごいと思った。 「夢に悩まされてるって、意外だなあ。君も繊細だったのか」 「うるさいよ新羅。でも正直本当に参ってて、俺でもどうしたらいいかわからないんだ」 「なるほどね。殺された時の衝撃が相当強くて記憶に残ってるということだね。でもありもしない感覚まで伝わってくるなんて珍しいね」 さすがに詳しいことは全部話せなかったので、かいつまんで誰かに殺される夢がリアルに残っていて魘されていると話した。現にさっき四木さんに会って気を失っている間も、夢で見たのだ。 まさか日常生活に支障をきたすほど、深く心の中に残っているなんて思わなかったけれど。 「まあそれでつまり、人が怖いと。触られたりすると、過剰に反応して発作みたいに出てしまうっていうことか」 そこで一度新羅が言葉を切って、考えるような仕草をする。軽口を叩けるほどまで回復したことに少しだけほっとしていた。そうして暫く沈黙が流れたが、重苦しい雰囲気を変えるように話し始めた。 「前にセルティから聞いたことがあるんだけど、夢占いっていうのがあるのは知ってるかい?」 「知らないわけじゃないけど…」 何を言いだすのかと思えば、随分と乙女思考な話だとため息をついた。そういう類のものがあって、心理学などと違い女性が主にそういうものを好んでいることぐらいは知っている。 でも占いなんて俺の柄ではなかったし、興味は無かった。特に願いが叶うなんて言われて見たものが結局夢だった今となっては、なるべく話題にはしたくなかった。でも新羅は続けた。 「その中で面白いのがあってね。夢の中で誰かを殺したり、殺されたりするものは悪いものではないらしい。逆にこれまでの自分の状況が一変して良い方向になる兆しらしいよ」 「それならとっくに俺はいいことが起こってるわけだけど?」 「必ずしも殺された夢を見てすぐ起こるわけではない、ということかな。だからまあ、これからいいことが起こると思うんだ」 いまいち新羅の言っている意味がわからなくて、医者の癖に夢占いを引き合いに出すなんてバカバカしいと思った。でもそれぐらい、俺に起こっていることがありえないことなのだと知ることにもなった。 きっとこれは、俺自身の心の問題なのだ。いくら相談したところで、自分でなんとかしなければ治らないのだろうと。 少しだけ俯いて落ち込んでいると、急に新羅が立ちあがりちょっと待っていて、と言って席を外した。もしかして夢占いの本でも持ってくるのかと疑ったが、まるっきり違うものだった。 「どちらにしても、今の君ではまともに生活ができないだろう?仕事だって、というか万が一さっきの場面を誰かに見られていたら狙われると思うんだ」 「まあそれは…仕方がない」 戻ってきた新羅は何も手には持っていなかった。けれども不自然に入口に立って、そこから動こうとはしなかった。なんとなく、嫌な予感がした。 「で、さあ……実は君をここまで運んで来たのは四木さんではないんだ」 「は……?」 その言葉に驚いて、口がぽかんと開いた。どう考えてもあの場には二人しか居なくて、これでも人目につかないように会っていたので知っている者がいるわけがなかった。 だから一体誰が見ていて、四木さんの変わりにここまで俺を連れてきたのだろうかと。でもその時によく考えていれば、すぐにわかるようなものだった。 「後で直接四木さんには電話をしていろいろ聞いたけど、運んでくれた彼の方がよっぽど君の事をよく見ていて状況を把握していたよ」 「誰だよ、そんなストーカーみたいな奴。もったいぶってないで言えよ、どうせ隠すつもりなんてないだろ?」 なんとなく事情は察していた。さっき新羅が席を外したのは、扉の向こうに居るだろう人物を呼びに行ったからだ。俺の事を一応は助けてくれた、という相手だ。 でも全く覚えが無かった。そんな人間が思いつくことなんてなかった。だから不安で仕方が無くて、震えそうになる腕を布団の中に隠した。 「まあそうなんだけど、驚いて倒れたりしないでね。僕だって相当びっくりしたんだから」 新羅が驚愕するほどの相手に心当たりはなかったけれど、とにかく気持ちだけはしっかり保とうと思った。多分触れられなければ、大丈夫なはずなのだ。 そうして目配せされた後に、扉の外に向かって入っていいよと促した。呼ばれた人物がゆっくりと部屋の中に入ってきて、俺は心臓が止まるかと思った。 「……ッ!?」 「よお臨也」 照れ臭いのか知らないが目線を合わせずに、それでも穏やかな口調で名前を呼んできて、確かに倒れてしまいそうだと感じた。 どうしてこんなところに、シズちゃんが居るのかと。 しかもいつものサングラスにバーテン服じゃなくて、どうやら私服らしかった。 「たまたま歩いてたら臨也を見つけただなんて、静雄らしいよね。っていうか二人共変な顔だね、ははっ」 茶化すような新羅の言葉が、今はありがたいと思った。二人きりだったら、きっといろんな想いが募って泣きだしてしまっていたに違いない。 夢の中のシズちゃんとは違うのに、はっきりとあの言葉を思い出していた。 『友達ともなんかちげえんだよ。セルティとか新羅とか、あいつらとはなんか違う。なんか別次元で、手前のことが気になってしょうがねえつうか、よくわかんねえけど一緒に居て悪くねえって思ってる。だからなんか明日変なことが起こるとか、なんか危険な目に遭うのなら俺も手伝うし教えて欲しいって……』 現実ではないとわかっているけれど、もしはっきりとあの後に問いただしていたら答えてくれていただろうか。シズちゃんから好きだという言葉を聞くことができたのだろうかと。 夢なら聞いておけばよかったと、後悔した。 text top |