目を見開いた時、あまりの驚きに息をするのも忘れるぐらいだった。何も考えられなくて頭の中が真っ白で、どのぐらいかはわからないが動けなくてベッドに横たわっていた。 そうしてようやく時間をかけて事態を理解して、発した言葉は。 「夢…全部夢だった、の?」 声は震えていて、それを口にした途端にぶわっと瞳から勝手に涙が溢れてきた。ぽたぽたと頬を伝ってどんどんこぼれ落ちていき、枕を濡らしたが構わなかった。 いや、もうすべてのことがどうでもよかった。何もかも、自分のことも、生きていることさえも。それぐらいショックだった。 「ゆめ、なんてそんなの…ない、だろ…」 でもまぎれもない夢だった。どこからが、どれがそうだ、と思ったが俺にはわかっていた。 最初から、全部が夢だったのだと。 あの妙な男が現れたところから、そうだったのだ。何もかもが幻で、始めから願いを叶える為に死ぬということすらありえないのだと。 それでも証拠が欲しくて、枕元に置いていた携帯にゆっくりと手を伸ばした。本当は、見るなと何かが警報を発していたが、逆らえなかった。そうして、目に入ってきたのは。 「やっぱり、そうだ」 携帯電話のディスプレイに表示された日付と時間は、シズちゃんと暮らし始めたその日の夜を示していたのだ。さっきまで現実と思っていた全てが、夢だという証だ。 すぐに携帯を閉じて横に放り投げた。どうしたらいいかわからなくて、涙を流しながら目を瞑った。でも脳裏に鮮明に浮かんできたのは、望んだものではなかった。 「思い出せないよ…」 頭の中に思い起こそうとしたのは、二人で過ごした何気ない日々のことで。でもそれらは全く浮かんでこなかった。 そんなものではなくて、目を閉じて浮かんだのは。 赤い赤い血と、それに反するような白いモノが混じりあった水溜りだった。 「シズちゃんの顔が…思い出せない」 願ったのは、愛しくて互いに気持ちは結ばれたはずの相手の事で、でも別のものに遮られて、ぐちゃぐちゃに真っ赤に汚れているようだった。 ただでさえ夢なのだから、仕方がないのかもしれない。全く起こってもいない、ただの願望だったのだから。 でも、だったらどうして最後の瞬間の忌まわしい行為のことだけがはっきりと残っているのかと。動けない体に群がる影と、差しだされた刃物と、何かが喪失していく感覚。 そのどれもが鮮明に残り続けていて、痛みとか悔しさとか怯えとか何もかもがまるで本当にあったことのように体に染みついているようだった。思わず肩を抱いて、全身を布団の中で丸めた。 そうして呟いていた。 「怖い…怖い、こわい、こわい」 口に出すと余計にその時の事が蘇ってきて、カタカタと全身が自然に震えてきた。 想像していたのは、死ぬ時はきっと幸福に満ちていて、やっとすべてのことを成せた喜びでいっぱいだと考えていた。そうあって欲しいと思っていた。 でも実際はそんな綺麗なものではなく、どろどろとした感情だった。 まだ死にたくなかったのに。もっとシズちゃんの傍に居たかったのに。仕込んだのは自分だけれど、あの状況を打破してくれたらよかったのに、と自分勝手な気持ちばかりで。 そうして痛みという感覚が無くなり、瞳に映る景色も歪んできて死に近づいていくのを感じながら思ったのは。 あの俺の残した事務所で、ソファの上で、顔も姿もわからない誰かと体を寄せ合いながら座っているシズちゃんで。何もかも俺の事を忘れて、過ごしている様子で。 それが怖かった。忘れられるのが、怖くてしょうがなくて。どうしてこんなことをしてしまったのかと、やっと自分を振り返って。 戻れるなら、戻りたいとそうこと切れる寸前に感じたのだ。 だからある意味願いが叶ったようなものだった。戻りたいという俺の願いは、叶ったのだ。それが心からの正真正銘最後の願いだったのだから。でも。 「こんなのを、望んだんじゃない…俺はッ!」 まだ涙は止まらない。叫んだ声は部屋の中で反響しただけだった。哀れだと、自分で思った。 死ぬことなんて怖くない、願いが叶えられたらと意気込んだ気持ちは最後で元に戻りたいというものに変わった。 つまりそれはもう一つの選択肢で、願いはかなわないけれど平凡な人生を過ごすというもので。まさに今の状態と全く変わりは無かった。 でもこの夢を見てしまった後で、普通の人生を送れるとは思えなかった。だって俺は知ってしまったのだ。 シズちゃんが俺の事を好きになってくれる、という最高の夢を知ってしまったから。現実ではないのに、錯覚してしまいそうだった。 リビングに下りたら、あのソファに平然と座っている姿が見られると。現実にはこれっぽっちも起こりえない事を、夢想してしまったのだ。 それはとても、悲しいことだった。 「知りたくなかった…こんなことならずっと一人でよかったんだ、片思いで充分だったんだ!」 今まではそうやって生きてきた。ただこっちから一方的に想うだけで満たされていた。それなのに、応えてくれるシズちゃんという妄想が最悪の悪夢として襲ってくるのだ。 そんなものを夢見なければこれまでのように生きていけたのに、好かれたいという気持ちもなかったのに。見てしまったら、欲求が沸いたのだ。 あれと同じものを手に入れられないかと。でも。 「確約がないのに、できない。そんなのわかりきってるのに」 夢の中では最後に俺がシズちゃんと結ばれるという願いを知っていたから、死んでしまう前提で行動できたし、一緒に暮らしたいなんて言ったのだ。 情報屋も辞めて、最後の日の為だけに行動し辛い行為にだって耐えてきた。でも同じことをする必要はない。むしろできない。やったところで、何かが起こるなんて思えなかった。 もう一度俺の事を好きになってくれるなんて、到底思えなかった。 「どうして俺は、好きになって欲しいなんて願ったんだろう」 死ぬことと引き換えに手に入れても、結局手ごたえはまるでなかった。死ぬ前日に直接聞くことも拒否したし、他に仕掛けたプレゼントやら手紙をどう受け取ったかも知らない。 夢だとしても、あの後シズちゃんは俺の為に泣いてくれただろうか。喜んでくれただろうかと、考えるのは虚しいことだ。 「もう絶対に、そんな願いなんて願わない」 止まらない涙を遂には両手でおさえながら、口にした。 「忘れよう。好きなこともやめるんだ」 俺の事を忘れて欲しい、と最後にドタチンに託した手紙に書いた。それがそのまま自分に返ってきて、なんだか情けなくて口元が笑みの形に歪んだ。 充分にあの夢の中で、楽しくて嬉しくて胸が切なく痛むような想いはした。だからもうこれ以上はいらないし、訪れることは無い。だからきっとこれがシズちゃんのことを断ち切るいい機会なのだ。 「やめるよ…もうシズちゃんを好きでいるのは」 今までだって何度もそう思ってきたけれど、実行されることはなかった。でも今度こそ本気だった。この好きだという気持ちを、幸せだったという気持ちを忘れないとこの現実世界で生きてはいけない。 あまりにも違うシズちゃんの反応に傷ついて、苦しくて、一人で常に胸を痛めているだなんて。そんなのは、あんまりだ。 「楽しくて、幸せな夢だった。そうだ、俺がシズちゃんを忘れて普通に過ごす為のそういう夢だったんだ」 本当は夢に意味なんてない。そんなこと知っているけれど俺は、あの長い長い夢をそう割り切らないといけなかった。 真っ赤な何かに邪魔をされて、はっきりと夢の中のシズちゃんが思い出せないのが、現実ではないという証拠だ。何も起こりはしなかった。 「ありがとう、楽しかった」 シズちゃんの為にと一人で動いで、たくさんのプレゼントを用意したことも。他愛もない会話をしたり、一緒にご飯を食べたり、寝たことも。 死ぬ為に男達に抱かれて刺されて死んだことも、何もかも起こっていない。俺の体は、傷一つなく綺麗なままだ。痣だってないし、快楽に溺れたりなんかしていない。 「シズちゃん、好き……大好きだった」 一言一言を噛みしめるように唇から言葉を紡いだ。 誰も居ない、シズちゃんの匂いさえも残っていないベッドで一人泣きながらいつまでもいつまでも、忘れる為にしゃべり続けた。これでもう最後だから、苦しまなくて済むんだと。 そう思っていたのだけれど、現実は残酷だった。まるで夢を見た代償のように、俺の生活が一変するきっかけだった。 真っ赤に染まった世界と、男達の馬鹿にするような笑い声じゃなくて、シズちゃんと交わした言葉を思い出せればよかったのに。 text top |