でももうその時には、変わり始めていた。折原臨也という本物を知ってしまって、変わらずにはいられなかったのだ。 シズちゃんの望む彼になるのならば、ただ従って求められるものを返せばよかったというのに、もっと喜ばせたいと思うのはしょうがなかった。 今までずっと俺だけが幸せだと自己満足に浸っていたけれど、それが間違っていたとしたら? だって知っていたのだ。はじめて俺が好きだと告げた時、返事はいらないと言ったのにすぐさま応えてくれて俺は嬉しくてすっかり忘れていたけれど。 好きだと言った瞬間に、傷ついたような泣きだしそうで複雑な切ない表情を浮かべていたことを。 それはつまり、自分の知らない折原臨也から告白されてそのことにショックを受けたのだ。でも拒むことなく、その偽りの関係を受け入れてくれたのだ。 だからこそ、シズちゃんは常に傷ついているのだ。 今の俺と本物の折原臨也とのギャップに苦しんでいるのだろうと、確信していた。 その苦しさから解放する方法は一つだった。俺が折原臨也だった時の事をはっきりと思い出すしかない。でもそうすれば、この関係も終わってしまう。そんな予感があった。 素直に気持ちなんか伝えられなくて自分を傷つけすべてを忘れようと逃げたのだ。しかもシズちゃんと喧嘩ばかりして、こじれさせていた彼が今更告白なんかできるはずがない。 「面倒くさいよね、ほんと……」 パソコン上の動画を見ながらぼんやりと呟いていた。それは俺の持ち物ではないパソコンで、画面には折原臨也ただ一人が映し出されていた。 時折サイケの声も聞こえていたが、目線は完全に彼だけを捕えていた。それは俺にとって折原臨也という人間を思い出す決定的な証拠だった。けれどもどれを再生しても、何も得られなかった。 彼の仕草や口調はだいたい覚えて、普段どういうことをしているかもわかったが、自分自身の奥底に眠っている記憶に訴えるものはなかった。 俺が至った結論は、こうだった。 折原臨也の記憶を自力で思い出し、シズちゃんにバレないように細心の注意を払いながら今の関係を続けるしかない。 バレてしまえばそこで終わりだったが、俺にとっての一番の幸せはこれしかなかった。こんな偽物みたいな感情じゃなくて、何年間も想ってきた気持ちを思い出し演技をするのだ。 そうすれば、少しはシズちゃんの望む折原臨也になれる。だって本当は、折原臨也なのだから。 昨日の休日に一日中二人っきりで部屋の中で過ごして、俺は楽しかったし最高の幸せだった。求めたら答えてくれて、彼も俺を求めてきてくれた。 でも少し目を離した隙に、不意に一瞬だけ思いつめたような暗い表情をしていたのを見逃さなかった。俺との関係を続ける限り、心の底から喜んでくれることは一度もないだろう。 それは悲しいことだったけれど、どうしようもなかったけれど、せめて少しでも楽しんでくれれば。愛してくれれば。 いつしかパソコン上の動画の再生は終わっていて、ハッと我に返ってため息をついた。なんとか思い出せないだろうかともう一度頭の中を巡らそうとしたが、唐突に聞こえてきた声と音に強制的に遮られた。 「おい!出て来いよ…!ここに居るのはわかってんだッ!!」 「え……?」 ドンドンという玄関の扉を激しく叩きつける音と、誰かの怒鳴り声だった。基本扉は開けるな、とシズちゃんに言いつけられていたが、気がつけば俺はふらりと立ちあがっていた。 鼓動がドキンドキンと変に高鳴り、脂汗も浮いているようだった。急な体の変化に戸惑いながら、その男の声に聞き覚えがあることに驚愕した。 まるで吸い寄せられるように自ら扉に駆け寄って、開いてはいけないとわかっていながらドアノブに手を掛けていた。きっとこれを開いたら、最悪なことが待っている。 それをわかっていながら、心の中のこのもやもやが晴れるかもしれない予感に、抗えなかった。どんなに酷いことがあったとしても、失った記憶を取り戻したいと自ら望んだのだ。 ゆっくりと鍵を開いて、そのカチャンという音が自分の中の鍵を開いたかのような錯覚に陥りながらドアを押した。すると向こう側から乱暴に引っ張られて、一人の男が目の前に立っていた。 「やっと会えたなあ、折原臨也よお」 「…っ、お前は……」 マスターとは口には出さなかった。もう俺が人形なんかではないのは明白だったし、マスターと呼ぶように言われてはいたが結局は主犯の一人であることに間違いはなかった。 苦々しい気持ちを感じていたのも数秒で、扉を派手に閉める音が耳に届いたと思った時には、玄関の上に体が倒されていた。抵抗はしなかった。できなかった。 「よくも俺らのことを嵌めてくれたよなあ。おかげで残ったのは数人になっちまったじゃねえか。まああんたで稼いだ金は充分あったし、脅す材料はまだまだ残ってんだよな」 「脅す…っあ、くそっ、うぅ…」 抵抗できなかったのは、頭の中にいろんな情報が一気に流れ込んできてそれを整理していたからだ。完全に隙ができていたのだ。気がついた時には、男の脅迫する声が耳元でした。 「なあわかってるよな?俺はあんたとあのアンドロイドが奉仕してる時のをビデオで撮ってんだぜ。確かあんたが最後まで渡せって言ってたよな?」 「そんなの…まだ持ってたんだ?」 そう言われて、はっきりと思い出していた。サイケの記憶を白紙に戻したのに、それを見られてはお終いだったから、そのビデオだけは渡せと言っていた。朦朧とした意識の中で。 何本も薬を打たれて、自分が何者かを忘れかけていた時でも、必死に。 膨大に襲ってくる映像が目の奥でチカチカと揺れていて、男と話をしながらもぼんやりとしていた。だから急に肩を掴まれて、首筋に痛みが走った意味を理解できなかった。 「……っ!?」 「安心しろよいつも打ってた奴より持続効果は無い。その変わり急激に疼いてくるかもしれねえけどよ。なあ覚えてんだろ?毎日耐えられなくて平和島なんかに抱かれてんのか?物足りなかっただろ?」 「ち、違う…!シズちゃんは関係ない!あんたらと、一緒に、するな…っ、あ、う」 急にシズちゃんの名前を出されて酷く動揺した。かっと頭に血がのぼって、反射的に怒鳴り声をあげたがそれが余計に薬が回ることになってしまったようだった。 断続的な体の震えと共に、よく体に馴染んでいた熱が駆けあがってきてすべてをはっきりと思い出させていた。 「お前の役目はセックスすることだろ?男のちんぽを咥えることしかできねえ、人形だったじゃねえか。自分でセックスドールだって言っただろ?ほら好きだったよなあ、これが?」 「ひ、あっ…あ、うぅ、くそっ、俺は…そんなの……」 両肩を掴んで震えていると、その隙に男が自分のズボンのベルトを外し股間のモノを見せつけてきた。こうなることぐらい、わかっていた。わかっていて望んだのに、今は後悔していた。 全部全部思い出した。俺がどうして記憶を失ったのか、何をしたのか、誰の事を想っていたのか、ここ数日の幸せな毎日が偽りだったことまで。 幸せだったと思っていたのは俺だけで、シズちゃんにとってはただの自分に従うかわいらしいお人形にすぎなかったのだ。 シズちゃんに従い、優しい言葉を掛けて、慕う――ただの悲しい奴隷だった。 こいつらが俺にした行為と、何ら変わらなかった。真実を知ってしまえば、息が詰まり胸が張り裂けそうなほど苦しかった。 散々な状態になった俺を引き受けてくれたのは、きっと津軽とサイケが居たからだ。いくら天敵であっても、同情ぐらいかけられる。それがいつしか歪んだのは、俺が好意を向けたからだ。 しかもいつかサイケが言ったように、淫らになった体を使って手に入れたようなものだった。 俺を好きだったわけではない。いくつかの偶然が重なって、それが恋心だと勘違いしたのだ。手に入れた人形をただかわいがるだけの行為を。 気がつけば涙がぼろぼろとこぼれていた。だから、知るべきではなかった。知らなければいつまでも、幸せな夢に浸っていれたというのに。どうして、それ以上を望んでしまったのだろう。 今ではもうぐちゃぐちゃになっていて、わからなくなっていた。 「なんだ、嬉しくて泣いてんのか?久しぶりのこれを、楽しめよ……なあサイケ」 「…っ、くぅ、あ、あぁ…ふ、ふふっ、は、あははっ!いいよ、俺は気持ちよければなんでもいいんだ…もうそういう生き方しかできないんだ」 心の底ではまだ訴えていた。こんな男に犯されるぐらいなら、シズちゃんの方がいい。偽りだとしてもその方が幸せなんだとわかってはいたが、全身が切り刻まれるような辛さも伴う。 でもそうだとしても、失いたくは無かった。いつかバレるその時までこの関係を自分から壊したくなかった。 だから今は、自分にできる方法はこれしかなかった。 「体が疼いてしょうがないんだ、だから早く犯して……?」 誘うようにそう笑えば、そいつが俺の足の間に割り入ってきて唇の端を歪めた。 俺に今できることは、この男に従って前の映像を取り戻す為に犯されて、それをシズちゃんに隠し通すことだった。 頭の中でこれまでの二人っきりで本当に幸せだった出来事が走馬灯のように思い出されたが、全身を襲う強烈な悦楽にあっという間に弾け飛んだ。 it's slave of sadness=それは悲しみの奴隷 text top |