そっと心臓に耳打ちする
「今日何の日か知ってっか」
教員試験の結果発表から帰宅しネクタイを外しながら聞いてみると、少し考える素振りを見せてから「ローマ皇帝の誕生日!」と溌剌な答えが返ってくる。その自信はどこから来た。
「ね、ね、すごいでしょ当たりでしょ」
「いや。何で閃いた!みたいな顔する」
やっとソファーに腰を下ろしたのに、本人は要らん豆知識を褒めてもらいたいようでわざと俺のくつろぐ場所へと飛び込んでくる。こいつが抱き枕を抱いていなかったらきっと打撲じゃ済まない騒ぎになっていただろう。
「でも間違いじゃないですよね」
確かに。履修登録でミスをしなければ今頃世界史の教授達のマドンナになっていただろうにと憐みの目を向けていると、丁度良い角度に俺の膝の上に頭を乗せすっかりリラックスモードに入っているこいつが居たから、特に何も考えず頭をわしゃわしゃと撫でる。心底幸せそうな顔をしているところ悪いんだけど、今は飴より鞭を与えなければいけない。
隙を見て持っていた抱き枕を奪い取り、届かないところまで腕を高く上げる。当然の如く機嫌は一瞬で悪くなり眉間に皺が寄る。
「あっちょっと!何するんですか返してください!」
「駄目ですー。あと三秒以内に課題に取り掛からなかったらもれなく佐久間先生が経済学と経営学の違いについて詳しく優しく教えてあげま」
言い終わらないうちに光の速さでソファーから飛び降りそそくさと資料の束を取りに隣の部屋へ慌ただしく去っていく。なんてちょろいんだろうあの小娘は。あんな単純な脳味噌をしてるからそのうち詐欺に引っかかるのではないかと心配さえしている。
そんな心境を全く知らず山のような資料を抱えて戻ってきた音無がそういえば、と口を開く。
「さっきの答え、あれなんだったんですか」
よろよろ千鳥足になりながら大量の参考資料に顔が隠れているため把握できないが、恐らく本当に何もわからないのだろう。そりゃそうだ、誰も知らないし出会ったその日に俺が決めたんだから。
「それが終わったら教えてやる」
から、はよやれと催促すると渋々眼鏡をかけやっと山の一部に手を伸ばす。教える気はまあさらさら無い訳だが。視線の先の小さな背中に出会って丁度8年経っていることなんか、お前は知らなくて良いんだ。
そっと心臓に耳打ちする
8年と7か月の軌跡
fin.
2012.08/07