重い脳と軽い足
「つまりですね、C組の子に英和辞書借りようと思ったんですけどCとD合同体育で居なくてA組は私達と一緒に英語の授業で今崖っぷちなんですよ今日私指されるんですよだからどうしても」
「で、用件はなんだ」
小さい声で俯きながら「じ、辞書貸してください…」と、先程までのマシンガンのような威勢とは打って変わった態度で懇願してくる後輩の頭に自分の辞書を乗せる。
「った!」
「ほら、急いでるんだろ。遅れるぞ」
顔を輝かせてありがとうございますとぴょこりとお辞儀をしてから、全速力で階段を駆け上がっていく様を見つつやれやれと溜め息をつく。やかましなのは二年に進級しても相変わらずみたいだ。
理由はわからないけど、音無はたまに忘れ物をすると俺の所へ訪れる。どうしても他の一年に借りられない場合はわかるけど、何で俺なんだろうとふと思ったり。兄のところやマネージャーの先輩に借りに行けば良いものを。愚痴というほどではないがポロリと同級生に零したら、じとりとした目でこちらを見てきた。
「風丸さあ、なんなの天然タラシなの?」
マックスが口をへの字にしながら俺の頭を数回叩く。半田に至っては身体を捻りこのホイホイ顔めがだなんて呻いているし円堂はもちろんの如く早弁に勤しんでいるし。いつものくだらない会話のはずなんだけど腑に落ちない。
「別にそういうつもりじゃ。疑問に思っただけで」
「はいはいおっけーそういうことにしといてあげるよ」
僕ら次選択移動だからと立ち上がり、床に転がっている半死体状態の半田と頬をパンパンに膨らませた円堂の首根っこを掴んで引き摺りながら教室を去っていく。出る間際、思い出したようにこちらを振り返り、それとね、と付け加える。
「その親切心が仇になるよ」
何食わぬ顔で出て行った背中を見送る。仇ってなんだ。入れ違いで帰ってきた豪炎寺に聞いてみる。
「辞書貸してやったのに返り討ちに遭うらしいんだけど、俺」
「そいつは本当に貸してもらうことだけが目的なのか?」
いつも通りの難しい(というか何を考えてるかわからない)顔で即答し流れるように自席に座る。深い意味で言った訳では無いにしても奴の言葉は重要なことを言っているように聞こえる。何って、他に目的があるってそう考える方が難しいんじゃないか。
「だと思うんだけど。よくわかんないや」
「じゃあ俺にもわからないな。直接聞くのが一番だと思うが」
こいつに聞けば欲しい答えが返ってくるだなんてただの迷信だったんだ。それどころか謎は深まるばかりで結局本人が辞書を返しに来るまで全く理解できなかった。
「風丸先輩!さっきは辞書ありがとうございました」
放課後、人が行き交う廊下でも彼女の声は掻き消されることなく俺の耳にしっかり届く。もう忘れるなよと何度目かわからない忠告をしたところで、ふと昼休みの会話を思い出す。
「それじゃ、また部…」
「あのさあ」
受け取ったそのままの体制で、自分より少し背の低い彼女と視線が合う。火花が散ったような音がしてそれから口を開く。
「どうしていつも俺の所に借りに来るんだ?」
あ、別に良いんだけどさ嫌じゃないし。と誤解を生まないように付け足すと、明るい笑みを絶やさなかった顔がどんどん赤くなり終いには目線まであっちへ行ったりこっちへ来たり。変なことを言ったんだろうか。
「どうして、って。言わないとわからないんですか!鈍感!」
目に涙を溜め大声で怒鳴って辞書を突き付け踵を返し人の波に逆らうように階段を駆け上がっていく音無の背中を茫然と見送る。この間実に2秒。
「やっぱり風丸ってタラシだったのか」
「うっわ後輩泣かせてやんの。サイテー」
後ろの方でマックスと半田がはやし立てる傍で、タラシって何だ?と興味津々に質問している円堂は置いといて、ええと、状況をゆっくり把握してみよう。
「好きなんだろ音無は。風丸のことが」
聞き慣れない単語と共に音もなく豪炎寺が現れポツリと呟く。数秒の間があってから、理解。線と線がやっとひとつに繋がった。と同時に俺にもさっきの音無と同様の変化が顔に現れる。周りの生徒は俺達の事なんかお構いなしに依然と騒がしいままなのに、うるさい程に心臓の音しか聞こえない。天然ではないが成程俺は相当鈍感だったようだ。脇目も振らずに二年の教室へと伸びる階段を一段飛ばしで駆け上がった。
重い脳と軽い足
ゴールは目前、スタートはまだ先
fin
2012.05/08