▼ *霖にまとうペトリコール
薄暗く、狭い部屋だった。半分だけ引かれた障子の向こう、草木が茂る庭から覗き見える空は、分厚い雲で覆われている。
しん、と静まり返った空間に、ただ一人存在していた。
正面には、もううんざりするほど見飽きた壁。背後も壁だということは、振り返らなくても知っている。小さな庭の奥はつきあたり。唯一、この部屋の出入り口と呼べるのは、窓と対向する閉ざされた襖。時おり襖の向こうから幾人かが行き交う足音や、かすかな話し声が聞こえる。だが、この襖を開けるものは誰もいなかった。毎日、決まってここを訪れる一人を除いては。
襖に錠がかかっているわけではない。今立ち上がって襖へ向かい、引き手に手をかけて横に滑らせれば、いとも容易く襖は開くだろう。決してしようとは思わないが。
なぜ部屋を出ようとはしないのか。
この小さな部屋と庭が、自分の全てだから。――「彼」を縛りつける、世界として。
雨の気配に首を左に動かす。青紫の花をつけはじめた紫陽花の葉が、滴にうたれて跳ねた。それがきっかけとなったかのように、途端、雨脚が勢いづく。蒼蒼とした草花はしとどに雨にうたれ、五分咲きの紫陽花は、つつましい花を乱す。
雨のしぶきに煙る庭をぼうと眺めていると、後ろから声が聞こえてきた。
「また降り出したようだね」
鷹揚に振り向いた先に、黒い握り鋏を手にした青年が立っていた。彼が唯一、この部屋を訪れる者。自分より少し生まれ出るのが遅かっただけの、遅かったからこそ恵まれている、双子の弟。彼は悠然とした笑みをたたえ、畳に膝をつく。衣擦れの音とともに、ふわりと着物に薫きしめられた香が漂った。鼻先をくすぐる香りは、じめじめとした長雨が続く時節にはっとするほど清涼で、この空間でそこだけくっきりと現実味を感じられた。
そういえば先日、髪を切ると言っていたか。無意識に目にかかる前髪に手をやる。艶やかな濡烏は、しっとりと肌に絡みつき。髪が伸びようとここでただじっとしているのに不都合は無く、ましてや誰に見られるでもないのだから、伸びるに任せておけばいいと時分では思う。が、髪が肩の位置より長くなると、彼は決まって髪を切ろうと言う。それも、どこか浮かれたように。まさに今も膝立ちで後ろにいる彼は、鼻歌混じりで髪を一房ずつ手に取っては、すうっと手櫛で梳いていっていた。指の間からこぼれ落ち、肩に流れる黒髪の様を愛おしみながら。
「今度はどのくらいの長さにしようか、綺依」
口ずさむような問いに、沈黙を返す。こだわりは無いのだから、どうだっていい。
返事が無いことを特に気にも留めず、やがて彼は右耳を覆っている髪を左手で一束とって、懐から取り出した懐紙に載せる。右手に持った鋏を髪にあてがい
「じゃあ、切るね」
と、右手を動かした。冷ややかな金属の感触が耳を掠め、わずかに身じろぐ。どうやら耳の下あたりの長さで切られたらしい。鋏に断ち切られた髪は、はらり懐紙に落ちる。後方で、彼がくすくす笑う声が聞こえた。そして今度は、わざと鋏を直接耳に当てる。
「鋏、冷たい? それとも……怖い?」
思わず彼の右腕をつかんだ。鋏から耳を離し、振り返る。彼の表情は、混ざり合った悦びと驚きと悲しみに染められていた。窓の外の雨が激しさを増したのだろうか。ざあざあという雨音だけがやけにうるさく、そのほかの一切の音をかき消す。しばらく二人は、そのまま膠着していた。
先に視線を外した彼は、力なくうつむく。つかんでいた彼の腕を離すと、彼は腕をだらりと下に降ろした。
「わかってる。わかってるけど……」
畳に向けた鋏の刃先をじっと見つめる。彼の言葉は小さく、一面を包む雨音に吸い込まれていった。
窓ガラスを激しく打つ雨の音で目が覚めた。雲行きが怪しくなって洗濯物を取り込んだあと、いつの間にかそのまま眠ってしまったらしい。滝のように雨粒が流れ落ちる窓を見て、雨戸を閉めなければと思いつつ頭はまだぼんやりと夢の中をさまよい、身体を動かせずにいた。そうして洗濯物の山の中で床に座り込んでいると、玄関の方からバタバタと足音が聞こえてきた。
「うわーん! こんなに雨が降るなんて聞いてないもん!」
その声にハッとして、慌てて玄関へ向かう。そこには傘を持たずに遊びに行き、頭から爪先までぐっしょりと雨に濡れた琉依の姿が。
「梅雨なのに傘を持っていかなかったお前が悪い。濡れるからこのまま上がるな」
「え、じゃあ僕ずっとここにいなきゃいけないの?」
「裏口から風呂に直行しろ、そっちの方が距離が短い。極力家の中を濡らすな。濡らしたら殴る」
「そんなの絶対濡れちゃうじゃん、おにぃの意地悪! 悪魔!」
靴を脱いで廊下に上がりかけていた琉依は、散々文句を言いながらも踵を返して玄関を出る。くるりと後ろを向いた彼から、雨と土の匂いに混じって、淡くハッカの匂いがすることに気がつき、その香りに先ほどの夢を思い出した。妙にリアルで、どこか懐かしい夢。確証は無いが、あれはもしかするとずっと昔のいつか、本当にあったことなのかもしれない。
耳に触れた金属の冷たさがよみがえる。
「お前が俺の全てを握っているなら、その反対で俺もお前の全てを握っているんだよ、琉依。だって、ずっと二人きりなんだから」
さっき出て行った琉依と夢の中の琉依へ、言い聞かせるようにそう呟いた。なかなか気が付かない、気が付いても知らないふりをする、彼に。
-終-
『煙雨に霞む』の続きです。双子の前世パロ。
表題の霖の読みは「ながあめ」です。
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