▼ *白詰草の誓い
毎日毎日窓の外を見ては溜息をつく弟を見るにつけ、こいつは小学生なのだろうかと思う。思うように外出できないこの現状が恨めしいのは理解できるが、そう毎日外を眺めて肩を落とすことも無いだろう。三週間ほど続いているこの光景、どうやらまだあと一ヶ月程度続きそうだと、テレビのニュースを見て察した。……溜息をつきたいのはこちらの方だ。
ここしばらく、俺と琉依は寝るとき以外の一日をリビングで過ごしている。勤め先が休業してしまい、仕事に行くことがなくなった亮さんもほとんどリビング、時々寝室。母親はといえば、俺と琉依の部屋で在宅勤務をしている。
数日前からようやく在宅勤務に切り替わった母親は初めリビングで仕事をしていたのだが、リビングの机を仕事関係の資料で占拠されるのは邪魔な上、琉依がリビングでテレビを見たがるから、母親に俺たちの部屋を明け渡した。以来、日中に母親が部屋から出てくることは、昼食の時間を除けば滅多に無い。
世間はゴールデンウィークだというのに、母親は相変わらず今日も仕事らしい。会社へ通勤していたときより、仕事をしているのではないだろうか。
顔を合わせることが少なくなった母親のことを心配しながらも、亮さんは「彼女は仕事が恋人だから」と笑って言っていたことを思い出す。母親の一番好きなことが仕事だということは否定しないが、あの人の今の旦那は亮さんなのだから、もう少しわがままを言ってもいいだろうに。
「あれっ、おにぃ、そういや亮さんは?」
窓から視線を外した琉依が、こちらを振り向く。今日、亮さんは朝から出かけていた。
「昨日の話、聞いてなかったのか? ずっと店を閉めてると空気が淀むとかで、店の掃除に駆り出されたんだよ」
「そういえばそんなこと言ってたっけ……いいなぁ僕もどこか行きたい」
「どこ行くんだよ、こんな時に……あ」
駄々をこね始める琉依をたしなめようとしたとき、名案が浮かんだ。外に出たい琉依と、そろそろ冷蔵庫の中が寂しくなってきたと思っていた俺が、win-winになれる案。そう、つまり。
「近くのスーパーに買い物に行ってもらおうか、メモ渡すから」
「えぇー!? 僕が買い物に行くの?」
さぞ喜ぶかと思えば、琉依は頬を膨らませた。外出するには恰好の機会だというのに、何が不満なのか。
「外に出たいんだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「距離が足りないっていうなら、ちょっと遠いスーパーまで行ってもらってもいい。そんなに値段変わらないだろ」
「うぅ」
琉依はしばらく嫌そうに唸っていたが、やがて諦めたのか、大人しくおつかいを承諾した。これで琉依は外へ出れるし、俺は面倒な買い物に行く必要が無くなった。
琉依のどこかへ行きたい、というのは大方、「どこか外へ遊びに行きたい」ということだったのだろうが、そんなのは俺の知ったことではない。
買ってきてもらう物のリストを持たせ、琉依を送り出したのは二時間ほど前。少し遠くのスーパーへ行っていたとしても、そろそろ帰ってきていい頃合いだが、琉依が帰ってくる気配は無い。初めてスーパーへ行くわけではあるまいし、道に迷っているとは考えにくい。あるいはスーパーへ行く道中に公園があるが、まさかそこで遊んでいるのか? 買ってくるよう頼んだものの中に肉と魚があるため、なるべく早く帰ってきてもらえるとありがたいのだが。
やきもきしながら待つこと更に二十分ほど、ようやく琉依が帰ってきた。たかが近所へ買い物に行くだけで、どれだけ時間がかかるのかと小言を言おうと玄関へ赴くと、俺の姿を見た琉依は何やら買い物袋をガサゴソと漁り出した。俺は喉まで出かかった文句を飲み込み、琉依を待つ。
「あった! これ、おにぃにあげようと思って!」
しばらくして琉依が買い物袋から取り出したものは、白とピンクの輪っかだった。一瞬それが何なのかわからなかったが、よく見るとどうやら花冠のようだ。状況から考えて、これは琉依が作ったものと見て間違いないだろう。ということは、
「もしかして、これ作ってたから帰るのが遅くなったのか?」
感情を表に出さないよう努めて冷静に尋ねると、元気な返事が返ってくる。
「そう、途中の公園でシロツメクサがいっぱい咲いてたの。おにぃに花冠あげたら、おにぃも外に出た気分になるかなと思って。でね、このレンゲはスーパーの近くの畑の土手に咲いてて、花冠に挿したら可愛いでしょ」
「あ、うん……」
やっぱり公園で寄り道していたかと、あまり当たってほしくなかった予想が的中したことに脱力する。スーパーの近くに咲いていたというレンゲをあとからシロツメクサの花冠に挿したということなら、寄り道はスーパーへ行く前なのだろうか。それくらい大目にみるべきか……。そう思案する俺にお構いなく、琉依は腕を伸ばして俺の頭の上にシロツメクサとレンゲの花冠を載せた。
「おー、いい感じだよおにぃ!」
パチパチ拍手されるが、これの何がいいのかさっぱりわからない。玄関の姿見に映る自分をチラリと確認してみたものの、花冠なんてもう大人に手が届いている男がかぶるものではない。第一、白とピンクの花冠は可愛すぎて、琉依ならともかく俺には似合わない。花冠を頭からどけようと手を挙げると、その左手を琉依に取られた。
「えっとね、もう一個おにぃにあげるのがあるの」
そう言って今度は、一輪のシロツメクサが咲いた小さな輪っかを上着のポケットから取り出す。それをそっと俺の左手の薬指にはめると、ぴったりおさまった。
「ふふん、いいでしょ」
満足そうに微笑む琉依。頭上にシロツメクサとレンゲの冠、左手にシロツメクサの指輪をはめた俺は何か言い返す気力もなく、曖昧な表情で玄関先に立っていた。琉依は俺の左手を掴んだまま、離さない。
「……わかった、わかった。琉依、ありがとう」
とりあえず礼を述べて手を引こうとすると琉依は僅かに手を離したが、左手の買い物袋を床に下ろすと、すぐに両手で俺の左手を包み込む。そして自分の方に引き寄せた。次は何だ。眉を寄せて琉依を見ると、彼の髪がふわりと風になびいた。玄関のドアが開いたのだ。
静かにドアを開けたのは、仕事から帰ってきた亮さんだった。家に入ろうと一歩踏み出し、三和土に立つ琉依と俺に気が付いてそっと歩みを止める。一方で琉依は、背後の亮さんに気付いていない様だ。俺は亮さんに声を掛けようと口を開きかけたが、一呼吸早く、左手薬指の指輪を撫でながら琉依が俺に言った。
「おにぃだーいすき」
琉依越しに見た亮さんは、目をぱちくりさせていた。俺は気まずさと恥ずかしさが綯い交ぜになり、羞恥と怒りが混合し、強く琉依の手を振り払った。驚きに目を見開く琉依に、顎で彼の背後の亮さんを示す。琉依が振り返った隙に薬指から指輪を抜き取って、花冠も頭から外す。花冠は琉依の頭に載せ、指輪はやり場に困って靴箱の上に置いた。
「亮さんおかえりなさい!」
「あぁ、ただいま」
琉依は急いで靴を脱いで家へ上がり、亮さんも後に続く。琉依の頭上に載せた花冠を指して
「琉依くんが花冠作ったの? 上手だね」
と亮さんが微笑んだ。花冠が今自分の頭に載っていることを知った琉依は、頭の上に手を遣ると、頷いた。
「これと指輪をおにぃにあげようと思って……あっおにぃ指輪も外しちゃったの? もう、せっかく作ったのに」
靴箱の上の指輪にも気付き、取り上げると自分の左手の薬指にはめて眺める。その様子を見た亮さんは、俺と琉依を交互に見た。そして思い出したように
「シロツメクサの花言葉は確か『約束』だったね」
そう告げて、琉依の薬指の指輪に愛おしそうに触れた。琉依は息を呑んで、指輪を見つめる。
「やくそく」と声を出さずに、俺は口の中で呟いてみた。そんなの、本当にengage ringじゃないか。こんな子どもの遊びのような、いつかは朽ちてしまうシロツメクサの指輪だというのに。
-終-
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