きみとずっと痛い



●第一回性癖王者決定戦・提出作品
テーマ『喧嘩』
エントリーNo.01

第二位頂きましたありがとうございました!

結果発表時コメント↓
ヤッホー!みんな元気?私はこないだ十年越しに高校のクラスLINE(私抜き)があることを知ったよ!「お久しぶりです苗字です」に全員既読無視ってやばない?友達欲しくて参加しました!誰か友達なって。マジで。

※自傷表現・流血表現など注意
※サイト掲載用に若干行間等変えています







「フロイド、いい加減にして下さい」
「は? 何が?」


 深夜零時。夜更かしは美容と健康の大敵だ。にも関わらず、アズールがリーチ兄弟の部屋を訪れているのには理由がある。

 最近のフロイドの行動が目に余りすぎるのだ。
 アズールが知るフロイド・リーチという男は、いつも飄々と自分の欲望に忠実に生きている男ではあるが、一定の理性はしっかりと持ち、ある程度の常識の枠の範疇からは出ない男だった。

 しかしここ最近のフロイドは、どうもその枠を飛び抜けたようなトンデモ振る舞いが目立つのだ。
 今日のモストロ・ラウンジの業務中も、他の従業員への当たりが理不尽かついつもの倍以上に酷く、助けを求められたアズールが厨房に駆けつけた時には地獄のような有様だった。

『支配人…もうボクら耐えられません』
『フロイドさんが理由もないのに暴力を』
『ボクらはただオーダーされたフードを作っていただけなのに』
『これ労災でますよね!?』

 調理道具と共に床に転がっていた従業員たちは口々にアズールに言った。詳しく聞くと、厨房に入ってきたフロイドがいきなり「オマエらを今から調理しまぁす」という宣言と共に暴れ出したのだという。

 ここ最近のフロイドへのクレームは全てそんな感じだ。昨日はフロアで騒いでいた客を立たせて「人間ボウリングやりまぁす」と宣言し、モストロのマスコット的存在・メダカの人魚の小さな従業員くんを投げつけていた。
 メダカくんは今朝アズールの部屋に訪れ「ぼ、ぼく、しばらくおしごとおやすみしましゅ…」とピエピエ泣きながら言った。

 という訳で「アイツの機嫌もそろそろ直るだろ」と楽観視していたアズールもついに重い腰を上げざるを得なかったという訳だ。みんなの癒しの源・メダカくんが休み、厨房もメチャクチャにされたのだ。アズールは額に青筋を浮かべながらフロイドを見つめた。

「理由を言いなさい」
「べっつに」

 アズールの迫力に「ごめんてアズール〜」といつもなら折れる筈のフロイドは、ぶすくれた顔でバスケットボールを弄ぶ。人差し指の上でしゅるしゅる回るオレンジの球に、アズールは小さく舌打ちを零した。


「ジェイド、何か知りませんか」
「……え、何ですか?」

 フロイドと同室のジェイドに問うた。
 ジェイドはキョトンとした顔でスマホから瞳を上げる。スマホの画面には、奴が撮ったであろうキノコ写真がずらり。あ、コイツ何も話聞いてなかったな。アズールはグシャ!と顔を歪めた。

「最近のフロイドの振る舞いについてです」
「はぁ」

 ジェイドは興味無さそうに呟くと再びスマホ画面に視線を落とした。もうやだこの兄弟。歪めた顔をそのままに舌打ちをもう一つ零す。

 それでもアズールはめげない。稀代の努力家・守銭奴・悪徳商人のレッテルは伊達ではないのだ。

「…最近、新種のキノコが見つかったらしいですね」
「!」
「それも、ククルーマウンテンでしか生息しないという」
「!!」
「暫く休暇が必要なのでは?」
「先日監督生さんと喧嘩をしたそうですよ」

 コロッと陥落したジェイドにフロイドが「ジェイド!」と大声をあげた。
 片割れがチョロすぎるの無理なんだけど。あーやっぱ相棒ジェイドにしたの間違ってた。死ね。そんな恨み節と共に投げつけられたバスケットボールを軽々と躱したジェイドは、「それからずっとこんな感じです」とアズールにニヤケ笑いを寄越した。心底片割れが落ち込んでいるのが楽しくて堪らないらしい。もうやだこの兄弟。アズールは再びそう思った。

「ふむ、よくやったジェイド。お前には来週末、休暇を三日差し上げましょう」
「ワン
「…そしてフロイドですが」
「別にオレ、小エビちゃんと喧嘩したことなんか気にしてねーもん」
「それはどうでもいいです」
「いいのかよ」
「ですが、早めに仲直りして機嫌直してくださいね。迷惑なので」
「………はぁい」

 頭を掻いてノソノソ丸まりながら不貞腐れた声を出すデカい図体に、アズールは漸く肩の力を抜いた。


「べつに、」

 じゃあ頼みましたよ。そう言って部屋を後にしたアズールを見送ると、フロイドはサイドボードからシガレットを出して口に咥えた。
 魔法で火をつけてガチンとカプセルを噛み砕く。ベリーの甘酸っぱい香りのする煙をため息とともにボハァと吐き出して。


「…オレ、悪くないと思うんだけどナァ」
 と呟いた。



▼▲



「あの子は可愛いけど肌が汚い」
「あの子は目が大きいけど太ってる」
「あの子は歯を矯正すれば抜群に垢抜ける」
「あの子は顔の輪郭を髪の毛で誤魔化してる」
「あの子は」
「あの子は」
「…わたしは、」

「ねぇ、小エビちゃん。何してるの」


 ボヤリと光を放つ小さなルームライトがたったひとつだけ置かれた室内はひどく薄暗い。
 フロイドはこの部屋の主に向かって戸惑った声を上げた。

 ピタリ。と動きを止めたこの部屋の主は掠れた声で「どうして、」と呟いた。
 カスカスのその声に、彼女が今までずっと泣いていたのだと気付く。

 嫌な予感はずっとしていたのだ。何となく今日はそういう日≠セという予感。
 今日廊下ですれ違った彼女は、いつも通り友人に囲まれて楽しく過ごしているように見えたけれど。
 今日運動場で飛行術を見学する彼女は、いつも通り飛び回るクラスメートを楽しそうに見学しているように見えたけれど。

 しかしフロイドは何となく「あ、今日の小エビちゃん何かヘンかも」と思ったのだ。
 だから、モストロのバイトが終わってから、疲れた身体に鞭を打ってオンボロ寮に足を運んだのだ。

 やっぱり。
 案の定、彼女はそういう日≠セった。

 ズタズタに引き裂かれたカーテン。
 床に転がったインク瓶。
 血塗れの両手。
 そして、大量の安定剤。
 部屋の電気をつけたフロイドの色違いの瞳に映ったのはそんな光景だった。


「フロイド、さん」
「なぁに」
「どうして、わたしはブスなの」

 明かりに照らされた彼女は、涙の跡がくっきりと残る頬を拭いもせずにボヤリとフロイドを見つめた。

 ──ああ、オレのキライな目だ。

 ひたすらに暗く、一切の光を反射しない真っ黒な瞳。
 引きずり込まれそうな、闇の瞳だった。

 彼女はひどく不安定だ。自己肯定感が低すぎる。
 時々。ほんの時々だが、こうやって爆発して自分を傷付けてしまうのだ。
 フロイドは小エビが大好きだったが、未だにこの状態の彼女を元に戻す勝手が分かっていなかった。
 初めてコレを見た時は死ぬほどビックリして逃げ出してしまった。
 二回目はひたすら肯定をし続けて「そうゆう心の篭ってない肯定が一番ツラい」と泣かれた。
 三回目は逆に否定をし続けた結果、火がついたようにワンワン泣かれて失敗。
 そしてこれが四回目。未だに塩梅が分からぬままこの日が来てしまったのだった。


「どうしてそう思うの」

 フロイドは我慢強い方ではない。それに他人には基本的に興味はないしものすごくドライだ。例えば幼少期からずっとつるんでいるジェイドが「死にたいですシクシク」となっていても「あっそ」と顔色一つ変えずに完全自殺マニュアルを投げつける自信がある。

 それでも、この少女のこととなると話は別だった。
 特に何かが秀でているわけではない。魔法も使えないし、弱くて何も出来ないちっぽけな女だ。それでも、初めてこの少女を見た時に「ア、オレの番にしよ」と思ってしまったフロイドは、あの手この手を駆使してアピールをした結果、番にすることに成功した。
 今に至るまでずっと、彼女の前では優しくて強くてカッコよくて従順で素直で自慢のカレシ≠ナ居続けることが出来ているのだ。

 だから今回も、泣いている小エビに笑って欲しくて、赤い線がビッシリ走る両腕に手を伸ばした。すぐに治癒魔法を発動してジュクジュクの腕を白くて細っこい綺麗な腕に戻してやる。
 早く、オレの大好きないつもの小エビちゃんに戻って。そんな願いを込めて闇色の瞳を覗き込む。

「ね、オレに教えて。何でそう思ったの」
「…こないだ、モストロの開放日で、」

 小エビはかさついた唇を小さく動かしながらモニョモニョ言った。

 先日のモストロの開放日は、学外のオシャレ女子たちで大盛況だったのだ。NRCは曲がりなりにも一流の男子校であるし、面構えのいい店員が多いこともマジカメで有名だったのだから。
 だから「将来有望なイケメンカレシ作っちゃお」という超絶美少女や「あの子カッコいいから指名するわ」というキレーなお姉様たちで賑わっていた。
 大いに店が混み合うことを読んでいたアズールによって臨時バイトをお願いされていた小エビも、もちろんその美少女やキレーなお姉様たちにフードやドリンクを提供していたのだが。


「鼻で、笑われたの」
「エ?」
「だから、『ヘェ、女の子もいるんだ。笑』『アァ、アレ確かに女の子だね。笑』『気付かなかった。ヘェ〜。笑』って! 鼻で、笑われたの!」

 闇の瞳から再び透明な雫をポロポロ零しながら小エビが言った。イマドキのオシャレ女子たちの蔑むような視線が、声色が頭から離れない。
 あの瞬間はなんとも思わなかったのに、数日経った今になってフラッシュバックのように蘇ってきたのだ。

 みんな今流行りのお洋服着てたな。
 みんなわたしなんかよりうんと可愛かったな。
 モストロのみんなも影で「あの女子グループかわいい」「あのお姉さんたちスゲーおっぱい」って騒いでたな。
 そういえばフロイドさんも沢山の女の子から声掛けられてたな。

 そんな考えが負の感情と共にグルグルと頭の中を暴れ回るのだ。

 決して小エビは不細工な訳ではない。贔屓目なしに見ても可愛らしい顔立ちをしているとフロイドは思っていた。男子校に唯一通う女子生徒ということで、様々な生徒からチヤホヤされていたのもまた事実。
 しかし、唯一自分だけがチヤホヤされていた場所が脅かされた危機感が、自己肯定感の低さに拍車をかけてしまっていた。

 だからフロイドが彼女にかけるべき言葉は一つだけ。
「小エビちゃんはスッゲーかわいいよ。オレは小エビちゃんだけだよ」その言葉だけが正解のはずだった。
 優しく抱きしめてやりながら耳元で甘く囁いて、後はひたすら落ち着くまで背中を擦ること。それがこの場を上手く解決する唯一の答えだったのだ。


 しかし。

「エ? それだけ?」

 フロイドは大きな地雷を踏んだ。泣いている女の子にかけてはいけない言葉No.1を言ってしまった。

 だって彼は疲れていたのだ。モストロのバイトでクタクタだし、昨日は宿題が終わらなくて夜更かしもした。今朝は補習もあったのだ(これは授業をサボりすぎていた代償だが)。マァ理由は何にせよ、フロイドの頭はあまり働いていなかった。


「………それだけ=H」

 だから、次の瞬間響いた地獄の底のような声に「あ、ヤバい。事故ったかも」と気付いた時にはもう既に後の祭りだった。

「こ、えびちゃ、」
「…かるんだよ」
「ぇ、?」
「わたしの何が分かるんだよ!」

 突然響いたヒステリックな怒鳴り声に、全身の皮膚がビリビリと痙攣した。

 この痙攣は深海で何回か体験したことがある。野生の勘のようなものだ。
 逃げなきゃ死ぬぞ≠ニ告げるその勘には今まで随分助けられてきた。
 しかし、目の前で目を△に吊り上げる愛しい番から逃げることなど、出来るはずもなかった。

 この時は、まだ。

「ごめん、小エビちゃん」
「ごめんって何が? さっきの発言? それとも、わたしを番にしたこと?」
「さっきの発言、取り消すから…」
「取り消すから、何? 怒らないでってこと? は? わたしが悪いの?」
「ちが、そうじゃなくて」

 ヘニョヘニョに眉毛を下げるフロイドの顔を見たらアズールとジェイドは大爆笑するだろう。なぜならフロイドは、こんなに情けない顔を人生でしたことなど一度もなかったのだから。

 しかしそんなことにすら目の前の小エビは気付かない。ふうふう呼吸を荒げながら「あ゛ー!!」と両耳を抑えてかぶりを振った。

「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」

 頭の中で再びキレーなお姉さんが『ヘェ、可愛い子だね。笑』と馬鹿にしたような表情で言った。
 出ていけ出ていけ出ていけ。
 何やら言葉をかけてこようとするフロイドすらも脳が拒否する。

 うるさい。
 来るな。
 あっちいけ。

 涙と共に吐き出された言葉が、フロイドを突き刺した。

 何度も言うが、フロイドは本当に疲れていたのだ。昨日は夜更かししたし、今日は早起きした。頭はボーッとしていたし、小エビのキンキン声に神経をすり減らしていた。

 だから。

「……ッゼーな」
「は?」

 とうとうプツンと堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。

 今まで大事に大事にしてきた女の子に対して。どろどろに甘く接してきたのに。我慢強い方ではなかったけれど、奥歯を噛み締めてたくさんたくさん我慢してきたのに。
 もう限界だった。よく我慢したよな、もう無理だよフロイド。脳内でもう一人の自分が言った。

「出てってよ…」
「あ?」
「だから、出てけって言ってんの!」

 小エビが目を△に吊り上げたまま怒鳴った。いらない。わたしのことを分かってくれない番なんかいらない。優しくしてくれない番なんかいらない。
 フーッ、フーッ、と肩で息をする小エビに驚く程冷静になってしまったフロイドは「あっそ」と冷たく呟くと、容赦なく立ち上がって小エビに背を向けた。

「出てくわ。じゃ」

 数歩歩いて立ち止まる。
 フーッ、フーッ、という涙混じりの呼吸音が聞こえるばかりで、縋り付いてくる様子はなかった。

「…可愛くねーオンナ」

 苦し紛れの捨て台詞と共に、フロイドはオンボロ寮を後にしたのだった。


 フロイドの、愛しい番との初めての喧嘩は、驚く程に激しく、そして死ぬほどめんどくさい喧嘩となってしまったのだ。



▼▲



「…オレ、やっぱ悪くないよな」

 ひとしきり回想したフロイドがぽそりと呟いた。
 何度考えても完全に小エビが悪いと思う。
「むしろオレ、メッチャ頑張った方じゃない?」とジェイドに話しかける。と、ジェイドは登山用のリュックを覗き込みながら「はは」と笑った。

「ちゃんと聞いてた?」
「はい、来週のククルーマウンテンは晴れだそうで」
「聞けよ」

 能天気に笑う片割れに再びバスケットボールを投げつける。
 それを再び軽々と避けたジェイドは「…あくまでも噂ですけど」と前置きをしてから「最近監督生さんが傷心中という噂が巷で大流行中ですよ」とニヤニヤ笑いを崩さずに言った。

「は? 何ソレ」
「さあ…?」

 僕には分かりません。気になるならご自身で確かめては? ジェイドは首を傾げて笑うと、これでこの話は終わりですとでも言うように登山用リュックのチャックを閉めた。



▼▲



「何でこんなことになっちゃったんだろ」
「いい加減仲直りすりゃいいのに」
「だってえ…」

 小エビはオンボロ寮の部屋の隅で両膝を抱えてグズグズ泣いていた。
 あの日、フロイドが自分に背を向けた瞬間「あ、言いすぎた」とすぐに冷静になったというのに。変に張った意地が邪魔して追い縋ることができなかったのだ。
 そこからずっとこんな感じ。自己嫌悪と後悔とまだ少しだけ残った意地でグシャグシャだった。

「わたしが悪いのは分かってる」
「言いすぎたの。ごめんなさい」
「嫌わないで」
「わたしが悪いの」
「ごめんなさい」
「わたし、ヘンになると分からなくなっちゃうから」
「でもフロイドさんも一言『小エビちゃんが一番かわいい』って言ってくれてもよくない?」
「フロイドさんに嫌われちゃったらどうしよう」

 ずっと同じことを繰り返しぶつぶつ言いながら、「まだやり直せる…よね」という淡い期待を膝と一緒に抱えるだけ。

「ね、エースどう思う?」
「それオレに聞く?」

 毎晩横でグズグズ泣かれることに辟易としたグリムから呼びつけられたエースは、困ったなぁと頭をいた。

 彼女とフロイド・リーチがくっ付いたと聞いた時は驚きと喜び半分。残り半分は「アー、ソコとくっ付いたんだ…」というなんとも言えない敗北感に苛まれていたから。

 学園内唯一の女子生徒。それに贔屓目なしに見ても可愛いらしい女の子。
 彼女にガチ恋していたクラスメートの恋愛相談には何回も乗ったし、自分自身も「あわよくば」なんて期待をしていない訳でもなかった。
 だから、幸せそうなマブの顔を見た時は「よかったな」と祝福する気持ちで「なぁんだ」というガッカリ感を必死で覆い隠した。
「しょうがないじゃん。だって相手はあのオクタヴィネルのヤクザだぜ? オレらが勝てる相手じゃねーよ」と涙を流す同志の背中をさすってやることしか出来なかったのだ。

 だからこそ、今回の喧嘩で二人の仲に亀裂が少しでも入れば、我々敗者連合軍にとっては好都合。傷心中の女の子の心の隙間に少しでも入れるならば儲けモン。

 そんな心の中の狡くて黒い生き物を偽善という殻で完全に覆い隠して、エースはペラペラと薄っぺらな慰めを口にするのだ。


「フロイド先輩はそんなんじゃ嫌いにならないと思うけど」
「そんなの、分かんないじゃん」
「連絡取ってみたら」
「返ってこなかったら死んじゃうもん」
「てか、オレはメッチャかわいーと思うけどね。オマエのこと」
「…ぇ、」

 キマった。
 キュ、と眉に力を込めて放った渾身のセリフに、目の前の女の頬に朱がさした。

 年頃の女の子は顔面の良い男に弱い。遠くの恋人よりも、近くのイケメンが放つ甘い言葉に、こうも簡単に揺らいでしまうのだ。

「エース…」
「監督生、オレ…」

 オレじゃダメなの。再び完璧なキメ顔で告げようとした。その矢先。


「何してんの、カニちゃん」

 地獄の底から湧き出たような声が頭上から降ってきた。
 ガシリ、と頭を強い力で掴まれて無理矢理上を向かされる。

「いー度胸してんね」

 暗闇でギラつく色違いの瞳が、殺意を孕んで此方を見下ろしていた。

「フロイドさん…」
「小エビは黙って」

 ドス黒い声は小エビを一瞥もせずに、今しがた掴んだ頭を無理矢理引っ張って立ち上がらせる。
「ギューッ、キーッギュルギュイッ」と引っ掻くような威嚇音が聞こえて咄嗟に耳を塞いだ。

「もっかい聞くけど。何してんの」
「すんませんって。監督生が落ち込んでたので元気付けようとしただけっすよ」
「ふうん」
「ていうか、自分のカノジョのメンタルケアくらいちゃんとして欲しいんすけど」

 気丈にも斜め下から睨めつけて文句を言うエースに「あっそ」と興味無さげに呟いて手を離した。

「疑ってゴメンねぇ。オレのかわいー小エビちゃんに手ェ出そうとしてんのかと思ったから」
「はは、まさか」
「…次はねぇからな」

 最後にもう一度だけ「キーッ、ギュルッ」と威嚇音を出す。
「分かってますって」と肩を竦めたエースは「じゃーな監督生。また明日」とヒラヒラ手を振ってオンボロ寮を後にするのだった。


「しょうがないじゃん。だって相手はあのオクタヴィネルのヤクザだぜ? オレらが勝てる相手じゃねーよ」

 以前、泣いている同志にかけたのと同じ言葉を呟いて。



▼▲



「「ごめん」」

 エースの気配がオンボロ寮から消えた瞬間。フロイドと小エビは同時に呟いた。

 驚いて目が合う。もう一度「「ごめん」」とハモって。次の瞬間、同時に抱き着いた。

 小エビは立ち上がって縋り付くように。
 フロイドはしゃがんで覆い被さるように。
 お互い中腰で、傍から見たら滑稽な姿だったけれど。
 それでも、すれ違っていた期間を埋めるように、強く強く抱き絞めて自分とは違う体温を求めた。


「ごめんなさい。わたし、またヘンになって、思ってもないことばっか、言っちゃって、」

 フロイドの肩口に顔を埋めた小エビが嗚咽混じりの声で言った。

 嘘なの。
 出てって欲しくなんかなかったの。
 傍に居て欲しかったの。
 だいすきなの。
 嫌わないで。
 めんどくさくてごめんなさい。
 かわいくなくてごめんなさい。

 ムニャムニャと呟かれた其れら全てに頷いてやる。
 背中をさすって「大丈夫だよ」「オレは小エビちゃんがだいすきだよ」と返事をする。

 オレもごめん。
 小エビちゃんを突き放しちゃった。
 ずっと後悔してた。
 なんであんなこと言っちゃったんだろって。
 小エビちゃんがいないとオレだめなのに。
 番なのに。
 ごめんね。

「小エビちゃんは、かわいーよ」

 最後にそう付け加えると、フロイドはギュ、と小エビの身体を絞めるように掻き抱いた。
 聞こえるのはお互いの吐息と、スン、と小エビが鼻を啜る音だけ。
 ヒンヤリしたフロイドの体温がジワジワと小エビの体温でぬくくなる感覚。

「ふ、フロイドさん…」
「んー?」
「ちょっといたい、」

 腕の中の間抜けな声に、フロイドは「アハッ、離さねーよ」と笑う。
 自分の番が他のオスに危うく掠め取られそうになったのだ。離せるわけもなかった。
 それでも。苦しそうな声を上げた小エビに「かーわい」と呟いて少しだけ腕の力を緩めてやる。

「小エビちゃんはかわいーよ」

 涙の跡が残る顔に向かってもう一度言った。

「…でもわたしより可愛い子がいたらそっちを好きになっちゃうでしょ? わたしそんなことになったら死んじゃう」

 自信なさげに眉を下げる愛しい番に、目尻を溶かして笑った。

「オレ人魚だよ。番は生涯に一人だけって決まってんの。…逆に、小エビちゃんが他に目移りしたらオレ死んじゃうの」

 比喩じゃなくてマジでね。そう締めくくるとフロイドは再び腕の中の愛しい番を絞めるように強く抱きしめた。

「だから、オレのこと殺さないでね」

 耳元で囁かれたその言葉は、ジワジワと呪いのように小エビの身体に入り込む。

「ずっと、オレだけの小エビちゃんでいて」
「うん」
「だいすきだよ」
「うん」

 ──こうして、彼らの初めての喧嘩は幕を閉じたのだった。

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