鬼灯が桃源郷に入り、そして普段歩く舗装された道から外れて凡そ十数分ほど。仙桃とはまた違う薄桃色が視界に入った。樹齢千年はあるだろう、桜の大木。幾本もの枝に綺麗な花を咲かせるそれは、まさに「この世のものとは思えない」の謳い文句が相応しい。日頃の疲れさえも吹き飛んでしまうほどの美しさに見惚れながらも、その大木の根元へと足を進めてから仰ぎ見れば、数多の枝の中でも一層太いものの上に目的の人物はいた。

「白澤さん」

何をするでもなくぼうっと桜を見つめているだけだった視線が声に気づいて鬼灯へと落とされて、ようやく目が合った。その瞬間。鬼灯は全身が粟立つのを感じた。薄暗いものを全て混ぜたような色のない瞳に、感情の一切を削ぎ落とした顔。そこにはいつもの軽佻浮薄な彼はいなかった。無意識に息を飲みながら、早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために一度目蓋を閉じて視界を無くす。

「……鬼灯?」

そして次に目を開けた時にいたのは、さっきまでの面影を一欠片も残さずきょとりと鬼灯を見つめている彼だった。瞬く前に見たあの表情は見間違いかと思うほどにほんの僅かな時間ではあったが、鬼灯にはそれが見間違いではないと断言できた。彼は「今日」と言う日に限って、あのような表情をする。去年も、一昨年も、十年や五十年前だって今と同じこの桜の樹にいたのを知っているからだ。鬼灯に声をかけられるまで虚空を見続ける彼は、いったい何を見ているのか。気になったことがないわけではない。ただ、鬼灯は他人の心にずかずかと踏み込むような質ではなかったし、白澤も踏み込ませるような質じゃなかった。だから二人とも聞かず話さずの関係を築いていたのだ。

「今日は、」

────けれど、鬼灯は暗黙のルールと化していたそれを破った。とん、と軽い足音を立てて地面に降り立った白澤が驚きに顔を上げるのを真っ正面から見つめ、言葉を続ける。

「アナタにとって“今日”は、どういう日なんですか」

聞いたからには、もう後には引けない。さて、なんと返ってくるのだろうか。そう待ちながら、鬼灯は珍しく、金棒を握る手にじんわりと汗を掻く程度には緊張していた。

「……なに、僕のことが気になんの?」
「とうとう頭が沸いたか偶蹄類」
「痛い痛い足めり込んでる!!」

こっちの心情などつゆ知らず、にんまり笑って茶化して来た白澤の足に金棒を落として、そのままぐりぐりと力を込めると見事に地面へと沈んだ。痛いと喚き逃げ出そうとしながら、それでも笑い続ける白澤に、鬼灯は盛大に顔を歪めて舌打ちをこぼす。いつもならやり返してくるくせに。

手を頭の後ろで組んだ白澤は、すっと鬼灯から視線を逸らす。見上げる先は、風に散る桜の花びら。

「今まで聞いて来なかったから興味ないと想ってたんだけど、まあ、良いか」
「言うならさっさと言え」
「ほんっとムカつく奴だな!命日だよ、命日」
「……なるほど、昔の女のですか」

命日と言っても、今日がその日に当たる者は大勢いる。その中でも白澤がこうも想い入れる者であるなら、女性なのだろうと鬼灯は目星をつけた。が、それはどうも違ったらしい。

「誰かのじゃなくて、僕の命日」
「ハァ?」

頭を振って自身を指さした白澤にそう返してしまったのも、無理はない。白澤と言えば本人曰く白亜紀頃に生まれ、そして一億と数千年の時を生きてきた神獣だ。そもそも死という概念が存在するのかすら不明なのに、今日が命日だと?たんに鬼灯を馬鹿にしているのか、それとも実際の理由を隠すべく嘘をついたのか。狐のように細められた双眸からは、何も読みとれない。

「…………もう良いです、聞いた私が馬鹿だった。まったく、ただでさえ忙しいってのに時間を無駄にしてしまいましたよ」

どちらにせよ言わないのなら話は終わりだと、冷めた一瞥を送って踵を返す。元々、鬼灯が桃源郷を訪れたのは注文していた薬を受け取るためであって、白澤を探すためでも疑問を投げかけることでもなかったのだ。とんだ気の迷いを起こしたものだと、数分前の自分を嘲り来た道を戻った。

一人残された白澤は、遠ざかる鬼灯が最後に浮かべていた文字通り鬼の形相に苦く笑う。鬼灯は信じていなかったようだが、それに対して憤ることはない。何せ、神獣白澤は鬼灯が知るように死んだことなどないのだから。しかし、だからと言って鬼灯に言った言葉が嘘であったわけでもない。天帝すらも知らない、この世にただ一人。白澤だけが知る真実を。欠片であろうが鬼灯にその真実を告げたのは、ただの気まぐれなのか、それとも。

渦巻く様々な感情にそっと蓋をして、咲き誇る桜の大木を見上げる。

的晩安,我以前的生活(おやすみ、前世の僕)

また来年、生きていたら来るよ。

そう告げて、すっかり見えなくなった鬼の名を叫びながら後を追いかけた白澤を、風に凪ぐ大木が見送った。


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