箪笥は心と同じだ。 よく使うところと、あまり触れないところと、とても大事にしているところがある。 私がよく使うところは、強がりの引き出しだ。この引き出しには、今までも強がってきた記憶がたくさん詰まっている。泣かないように我慢したこと、悔しいのを隠したこと、何でもない顔をしたこと。しょっちゅう使っているので、中身はパンパンで開け閉めしにくいし、引き出しは少し擦り切れているのではないかなと思う。 あまり触れないところは、悲しい思い出だ。触れたくないので、ここでは割愛。 とても大事にしているところには、楽しかった記憶や嬉しかった思い出が詰まっている。 ひとつだけ、「大事にしている」けれど「触れない」の両方に属する引き出しがある。 カカシくんの家の鍵が、ぽとりと寂しそうにそこに入れてある。 あれ以来、まるで使わなくなってしまった鍵は、時折、寂しいと泣いたり、存在を思い出してほしいと胸騒ぎを起こす。古ぼけた鍵。握りしめては、ごめんねと引き出しの中に戻した。 寂しいと泣いているのは、鍵なのか、私なのか。 こうなって初めて、カカシくんのことを真剣に考えるようになった。 婚姻届を持ってきたときは驚いた。なぜなら、見合いでもしようかなと先日ゲンマさんに口を滑らせたばかりだったからだ。一人暮らしが長くなり、寂しい気持ちも募っていて、つい飲んでいる席でポロリとこぼしてしまったのだ。 まさか、ゲンマさんがカカシくんにそんなことを言ったとは思えないが、真相はわからない。 いずれにしても、すぐに結婚しようと考えていたわけではないし、まして、あのはたけカカシと夫婦になるなど恐れ多い。 10年ぶりに打ち解けたカカシくん。今となってはカカシくんに少なからず恋心を抱いてしまって、一緒にいると、ただでさえどきどきしているというのに、セッ・・・まさか寝てしまうとは。 しかし、こうなったら本気できちんと考えなければいけない。 一番怖いのは、こんなにカカシくんに惹かれてしまったのに、見限られることだ。 たくさん期待をして、そんなのナシと言われることだ。 10年間、短い期間ではないだろう。 彼が仮に私のことを好きで近づいてきてくれたとしても、彼の好きな私が、今の私だと、どうして言い切れるだろう。彼は過去の私が好きで、過去の私を求めて近づいてきているとしたら、過去の私は今の私と同じ性格だとは限らない。 15歳から25歳の10年間は、いろんなことがありすぎて、私はとてもじゃないけど、過去の私ほど、今の自分が純粋だとは思わない。 任務を終えると、午後から資料整理につくようにとのことだった。資料整理は比較的得意な業務で、人と話をせずに事務的に作業することは向いている性格だ。 中忍が資料整理を行う事務室には何台もデスクが並んでおり、皆黙々と作業を進めている。 部屋に入った瞬間に数人のくノ一から厳しい視線を感じて、カカシくんとの噂がまだまだ尾を引いているんだなと思った。顔見知り程度ではあったが、この間までは普通に挨拶を交わしていたはずなのに、翌日から無視されるのだからこちらも驚く。任務で一緒になれば、そんなに露骨なことはしないのだろうが、面白くない。 事務室に見知った顔を探したが、仲の良い忍はおらず、若いくノ一が多いなぁという印象だった。 「すみません、その資料の未の巻、あとでお借りできます?」 目の前のデスクで作業するくノ一に声をかけると、こちらに一度視線を合わせたのにもかかわらず、返事が返ってこなかった。よく聞こえなかったかなともう一度言うと、今度はその資料のファイルが、私の机に投げて寄こされた。 分厚いファイルが机にぶつかり、ゴトンと大きな音が響く。 「はい、どーぞ、お使いくださぁい」 その言葉の直後、一斉に周りのくノ一がクスクスと笑いだした。不穏な空気に年配の忍者が「資料は丁寧に扱え」と叱責した。しかし、それでも笑い声は収まらない。 ヒソヒソと忍ぶ声が自分のことを言っているのが聞こえてくる。嫌な汗が噴き出してくる。また、いつかのように袋叩きに遭うのだろうか。 資料をいち早く仕上げると、逃げるようにして、火影室行きの書類を手にした。 一刻も早く、この部屋を抜け出したい。 「…火影室へ行ってきます」 努めて笑顔を貼り付けると、目の前のくノ一が露骨に眉をひそめた。あぁだめだ。これも間違いだ。 できるだけゆっくり廊下を歩いて火影室へ向かった。 また明日には、あの部屋に戻って資料整理をしなければならないのが憂鬱で仕方なかった。あの様子では、当面はこの嫌なものと付き合わなければいけないのだろう。 腹の底に大きな鉛が落ちてきたような気分だ。 そんな考え事ばかりしていたものだから、気が付かなかった。目の前から歩いてくる銀髪の彼に。 「お疲れさん」 「…かか、カカシくん」 カカシくんのことはあれ以来、徹底的に会わないよう画策していたので、こうして顔を合わすのは久しぶりだ。 咄嗟に目を伏せてしまったのは、ここで談笑でもしようものなら、また誰に何を言われるかわからないと思ってしまったからだ。横目で周囲を気にすると、人影があった。鉛が存在感を増してくる。 じゃあもう行くね、と足早に立ち去ろうとした。 「ちょっと待ってよ」 「あの、今ちょっと急いでいて」 「なんでオレのこと避けるの」 「避けているわけじゃ、」 掴まれた腕を引き上げられると、壁にガンっと押し付けられた。 「ちゃんとオレの顔見てよ」 背中の壁から、ゾクリと冷たい感触が広がる。目の前の彼は険しい表情で私を見下ろしている。その右目は鋭く青く光っている。瞳を見ることすら恐ろしく思えた。 下唇を噛み、やっとのことで一言「離して」と言う。 「だめ」 カカシくんは私が手に持っていた書類を取り上げると、そばを通った忍に「これ火影室までよろしく」と押し付けた。その人は有無を言わさない彼の態度に恐れをなしたのか、すんなりと肯く。異常な空気に戸惑い、私を一瞥したがカカシくんが「早く行ってくれる」と言うと、その圧力に負けて走り去った。気配が遠ざかり、辺りには人影もない。 まだ昼間だというのに、私たちの周りだけ妙に寒い。 「酔ってあんなことしたから怒ってるんでしょ」 「そりゃ驚いたけど…そうじゃないよ……」 「じゃあ、なに」 「……カカシくんにはわからないことだよ」 「わからないから教えてって言ってるんだけど」 堪え切れないといった様子で、彼の拳が壁を叩いた。 私は溜め込んでいた息を吐いて、新しく吸って、吐いた。 「……こんなところで話したくない……」 彼の額に青筋が立つのが見えて、背中にじっとりと嫌な汗をかいた。 私は言葉で、カカシくんとの間に壁を作ろうとしているのかもしれない。 「それは、お前が会ってくれないから!」 カカシくんは真正面に私を見据えている。こんな風に私を見つめてくれる人は他にいないと、わかっているのに。 「…っだって!10年も口きかなかったのに、いきなり結婚しようって言うし…なのにお酒呑んで、しちゃうし!私覚えてないし!もうずっと私にとっては、カカシくんは遠い存在だったから、昔みたいに戻れて嬉しいし、好きだけど…だけど」 こんなところで声を荒げるつもりはなかったのに、話し出すとどうしても感情が乗っかってしまう。 これはただの八つ当たりだ。私は今抱えている不安に耐えられないだけだ。 私の口から噴き出す言葉は、彼の行動を責めている。この10年間の空白は、彼だけのせいではなく、彼のSOSを見逃した私の責任でもあるのに。 自分でもわかっている。なのに、ボロボロと泣けてきた。 「私変わっちゃったもん。10年経って、昔と同じように忍者できなかった…今だって、あなたといると周りの目が厳しくて、私逃げてばっかりで……もう、カカシくんの思ってる私じゃないよ…」 そんな風に生きてきたのは自分のせいなのに、誰かのせいにして、人目を気にして、馬鹿みたいだ。わかっている。わかっているのに、こんな風にカカシくんにぶつけている。 「ごめん…八つ当たりだね」 情けない。いい歳して、こんなところで泣くなんて、涙ひとつ堪えられないなんて、私の弱さだ。 彼もきっと呆れただろう。 そう思い、立ち去ろうとすると、澄んだ声が耳に届く。 「……おいで」 カカシくんは両手を広げていた。試されているのだ。来るのか、来ないのか。信じるのか、諦めるのか。 その問いかけが分かり、一瞬躊躇した。頭の中では、立ち止まったつもりだった。なのに、自然と体はその胸に飛び込んでしまった。 すぐに彼の匂いでいっぱいになった。私の涙が、彼のベストに吸い込まれていく。 「ごめん。ナマエが嫌な目にあってたの知ってたのに辛い思いさせたね。オレのせいだよ」 「……」 「ちゃんと話すのは10年ぶりだったけど、ずっとナマエのことみてたんだよ。」 私を抱きしめる腕は大きい。 カカシくんの声だけが心地よく、胸に響く。 「確かに、きっとオレもナマエも変わったと思う。ただ好きなんだ。昔から、ナマエのことが好き」 「……今はすごく嫌な女かもしれないよ」 「オレもそうだよ。ナマエだってオレが寝込み襲うようなやつだって知らなかったでしょ」 彼の手が私を落ち着かせるように、背中で何度もトントンと拍子を叩く。 トンと背中に響くたび、胸のつかえがポロポロと落ちていくのだ。どうしようもない、この痛みが、溶けてなくなるような感覚だった。 「色々教えて?いいところも悪いところも知りたい。 オレはね、ガキの頃からナマエと結婚するって決めてたんだから…しつこいよ」 「…本当に、大丈夫…?」 「自信がある。ナマエが好きだよ。ずっと一緒にいようよ」 細く長い指が私の涙を拭って、その掌が頬に触れる。 カカシくんの眼差しは、いつのかの母のように強く優しかった。そして彼の父のように、穏やかだ。 私の潤んだ視界の先にはカカシくんがいて、その存在を強く感じることができる。 私はもうひとりじゃない。ひとりじゃない。なら、大丈夫だ。 あんなに重かった胸が軽くなり、呼吸が整っていく。 鉛はいつの間にか腹の底で小さくなっていた。存在を忘れてしまいそうなほど、軽い。 その代わりに胸がじんわりと温かくなる。身を委ねたくなる甘いぬくもりだった。 カカシくんは穏やかな表情で、いつになく優しく微笑んでいた。そして、青白く顔が光る。 「まず、お前をいじめたやつ、教えて?」 チチチチチチ…という音と共に、彼の右手に光る稲妻を見た。 20180217 |